ロマンスに心酔【完】
結城すみれ
ロマンスに
微酔
1
⋯⋯また、だ。
聞こえる。
ここ最近、ストーカーに悩まされています。
実家から電車で40分ほどの中小企業に就職。
社会人になって2年が経ち、そろそろ仕事にも慣れてきたということで、この春からようやく始めたひとり暮らし。
会社の最寄り駅から2駅、駅から徒歩10分。
1DKの小さなアパートの4階。
お値段以上の家具屋さん、憧れのフランフランなど、運転要員のお父さんを連れ回して完成させたお気に入りのお部屋。
夏の匂いがし始めてきた5月。
だんだんと新しい生活にも慣れてきて、少しだけ残業した日の19時過ぎ。
いつものようにるんるん気分で駅からの帰り道をたどっているとき、ふと、後ろの足音が気になった。
「(⋯⋯たまたま、帰り道が同じだけ、だよね、うん)」
しかし、次の日もその次の日も、変わらない足音が後ろから聞こえる。
「(⋯⋯ストーカー?)」
いや、まさか、ね。
なんて、見て見ぬふりをして過ごすこと約1週間。
今日も変わらず聞こえる足音に、そろそろ誤魔化しが効かなくなってきた。
ただ、これまで、直接的な被害は何もない。
だからこそ、たまたまだと思っていたし、どこに相談したらいいかもわからない。
この1週間、帰宅時間はバラバラだ。
残業した日、定時で上がった日、友達と晩ごはんを食べた日。
時間は違うはずなのに、毎日足音だけは聞こえる。
もうこれは、確定だろう。
思い違いではないはずだ。
───だとして、どうすればいい⋯⋯?
ストーカーであることを確信してしまったことで恐怖が倍増し、いつもより早足でアパートを目指す。
この1週間で家はもちろんバレているだろうから、変にコンビニとかに寄り道するよりも、いつものように真っ直ぐ帰ったほうが安全なはずだ。
そうして、やっとの思いでアパートのオートロックを解除し、ふっと一安心した。
ストーカーだと認識した途端、途方もない恐怖が襲いかかるものだから、人間ってある意味単純だ。
階段で4階まで上がり、自分の部屋に入ってやっと、解放された。
「(こわかった〜⋯⋯)」
しかし、今のところ直接的な被害はないとはいえ、住んでいる場所は確実にバレているので、いつ接触してくるかわからない。
念願のひとり暮らし、仕事のストレスを和らげるために工夫したお気に入りのお部屋。
ふわふわのソファに座り、ふわふわのくまのぬいぐるみを抱きしめながら、これからどうしようかと途方に暮れた。
誰かに相談したとして、状況は大きく変わらないだろうし、両親にはわざわざ心配をかけたくない。
事の経緯を説明して実家に避難することもできるが、ここを長期間空けるのも不用心な気がする。
「(どうしよう⋯⋯)」
ありあわせで適当に作ったチャーハンを食べながら、もんもんと考える。
ただ後をつけられているだけ、という今の状況が逆に気味悪い。
いつも以上に心がざわざわして、今日もあまり寝付けない予感がする。
いつまでも悩んでいても状況は変わらないので、少しでもリラックスするため、お気に入りの入浴剤を入れた湯船に浸かった。
୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧
予想通りなかなか寝付けず、重だるい身体を引きずりながら朝の支度をする。
「(あー⋯⋯きょうやばいかも⋯⋯)」
もともと貧血持ちな上に、身体も強くない。
規則正しい生活から少しでも遠ざかると、すぐに体調を崩す。
いやーな予感を抱えながら出社した。
「青葉さん、大丈夫?顔色めっちゃ悪いよ」
「大丈夫です!すみません、ちょっと寝不足で⋯⋯」
「そうなの?無理せずにね」
自分のデスクに荷物を置いた瞬間、さっそく上司の
しっかりしなきゃ、と気合いを入れ直し、パソコンの電源をつける。
わたしが働いている総務部は、どこの部署にも該当しない仕事をすべて請け負う部署。
いわゆる“なんでも屋さん”。
ひとつひとつの仕事はそこまで大きくはないけれど、次から次へと舞い込んでくる。
会議に向けた資料作成の依頼や、前年までの細かな業務内容を確認してまとめるなど、他の部署の方々が時間を割きにくい部分のサポートが主な役割。
今日も例によって、朝から様々な依頼のメールが届いていた。
「(えーと、会議の資料は今日中に送りたい、業務の確認も時間がかかるからはやめに取り掛かりたいなあ⋯⋯)」
ふう、とひとつため息をつき、頭の中で仕事の優先順位を考えながら、キーボードを叩き始めた。
ようやくひと段落したときには、もう13時を回っていた。
「(お昼、食べなきゃ)」
一度ぐっと伸びをしてから立ち上がり、食堂を目指す。
「(つかれたなあ⋯⋯)」
歩きながらふっと気を抜いたとき、目の前をちりちりとした闇が襲う。
「(あ、やば⋯⋯っ)」
よくある貧血だ。
とっさに手すりをつかみ、その場に蹲る。
朝の予感が的中してしまった。
ぐるぐると回り続ける視界、冷や汗が止まらない。
どこか座れるところ、休憩室が近くにあったはず、と、何とか立ち上がろうとする。
───「青葉?」
なつかしい声が聞こえた。
「⋯⋯っ、せん、ぱい、」
「大丈夫?貧血か」
「っ、あ、そう、です」
「立てそうならあっちのソファいこう」
ふわっと香るなつかしい匂い。
肩を抱えられながら休憩室へと向かった。
「はい。飲めそう?」
「あ、ありがとうございます、すみません⋯⋯」
ソファに横になっていた身体を起こし、近くの自動販売機で買ってきてくれた水をありがたく頂戴する。
「んーん。昔と同じようなかんじ?」
「そ、ですね⋯⋯」
企画部のエースで、同じ大学のせんぱいだったひと。
バドミントンサークルのせんぱいで、当時はとても良くしてもらった。
「さなちん、ラリーしよ」
「はい!」
あの頃のわたしは、みんなに“さなちん”と呼ばれていて、それはせんぱいも同じだった。
サークルによく参加していたわたしのことを、就活が終わったせんぱいは気にかけてくださっていて、行く日が合えばラリーに誘ってくれていた。
ただ、せんぱいの就職先はまったく知らず、会社での再会は本当に偶然。
あの頃と変わらないきらきらしたかっこよさで、若くして企画部のエースに名乗りを上げている超エリートだと知ったときは、せんぱいらしい活躍だなあとしみじみ思った。
そしてせんぱいは、大学時代にもわたしの貧血に遭遇したことがある。
「ご迷惑をおかけしてしまってすみません⋯⋯」
「とんでもない。ていうか、また無理したんでしょ」
大学時代、せんぱいの前で起きた貧血の原因は、明らかにテスト前の寝不足だった。
当時1年生で、大学最初のテストだったわたしは、膨大な量のテスト範囲やレポートに要領もわからず、前日に徹夜で猛勉強、昼間に仮眠して、また次の日のテストに向けて徹夜するという、絶対に向いてない体育会系の勉強をしていた。
なんとか最終日までたどり着き、最後のテストが終わったあと、ついでにレポート課題を提出してから帰ろうと教授の研究室に向かう。
───と、身体が限界を迎え、研究室まであと一歩のところで蹲ってしまった。
「(⋯⋯っ、さいあくだ⋯⋯)」
あとちょっとなのに⋯⋯という悔しさと焦りからか、目眩と冷や汗が止まらない。
浅い呼吸を繰り返し、とにかくレポートを提出ボックスに出してしまおう、と、意を決して立ちあがろうとした。
───「大丈夫ですか?」
そのとき、聞き覚えのある声がした。
「て、え、さなちんじゃん!大丈夫!?」
「せ、んぱ、い⋯⋯」
「どしたん?こんなとこで」
「あ、の、これ、を⋯⋯」
「ああ、レポート?出してくるよ」
「あ、りがと、ござい、ます」
当時4年生だったせんぱいは、レポート課題が出ていた教授のゼミに所属していたそうで、教授に用があってたまたま通りかかったらしい。
このときも近くで水を買ってきてくれて、それからしばらく、落ち着くまでそばにいてくれた。
「無理、は、して、ないです。ただ、ちょっと、眠れなくて⋯⋯」
水で喉を潤してから、また横にならせてもらう。
仕事量はいつも通り。
ストーカー疑惑のせいで眠れていないと、言ってしまってもいいものかと思い悩む。
せんぱいはやさしいから、助けようとしてくれるだろう。
でも、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
「だめじゃん。仕事?」
「や、仕事は、ぜんぜん⋯⋯」
「あ、ほんと、よかった。じゃあどしたの?」
「いや、ほんと、とくに理由はない、です」
「え、そんなわけない。昔から睡眠命の青葉が眠れないなんて相当じゃん。そんな嘘やごまかしがおれに通用すると思った?」
「う⋯⋯、いやでも、ほんと、大丈夫です」
「なんでそんな頑ななの」
「これ以上せんぱいの手を煩わせるわけには⋯⋯」
「あーあ、青葉が心配で午後の仕事手につかないなー」
「ええ⋯⋯っ」
昔と変わってない、やさしいせんぱいだ。
頑固な心がだんだん絆されていく感覚がする。
「強がりで隠してるんだったら教えて。
いつまでもそんなフラフラのままだと心配だし、青葉の力になりたい」
いつか、妹さんがいると言っていたのがよくわかる。
頼りたい、と、思ってしまった。
「なにそれ、めっちゃ危ないじゃん。ほんとに誰にも言ってないの?」
「だ⋯⋯って、確信があるわけじゃないし、直接なにかされたわけでもないし⋯⋯」
「でも青葉は眠れないくらい怖い思いして、結果貧血になったわけでしょ。じゅうぶん被害にあってるじゃん」
「っ、で、でも、誰かに言ったところで⋯⋯」
「おれんち来なよ」
⋯⋯へ?
世界一まぬけな顔をした自信がある。
「ふ、何その顔」
「⋯⋯え、っ、いや、いやいや、え、?」
「だから、おれんち。青葉のことだから、実家は頼りたくないんでしょ。最寄り駅どこ?」
「う⋯⋯っ、え、えっ、と、〇〇です⋯⋯」
「あ、隣じゃん。よかった、近い。応急処置ってかんじだけど、とりあえず今日はおれんちでゆっくり寝て」
「え、いや、そんな⋯⋯え?」
「もし着替えとか取りに行くなら着いてくから、勝手に帰んなよ」
「えっ、いやいやいや、そんな、申し訳ないし、帰りますよ」
「だめだって。おれが心配なの。大丈夫、部屋はいっぱいあるし、とって食ったりしないから」
「えええ⋯⋯」
いや、そんな心配は端からしてませんが⋯⋯
「じゃ、とにかくそういうことで。身体、どう?」
「え、あ、だ、だいぶ、よくなりました⋯⋯」
「よかった。よし、あとちょっと休んで、昼飯一緒に食お」
ゆっくり起き上がりなよ、と、やさしく声がかかる。
⋯⋯とんでもないことになってしまった。
୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧
「おつかれ、お待たせ」
「お、おつかれさまです⋯⋯」
「体調どう?」
「おかげさまでばっちりです!本当にありがとうございました」
「よかった。気は抜くなよ」
18時過ぎ。定時で上がらせてもらい、お昼を食べているときに約束したエントランスで待っていると、すぐにせんぱいが来た。
「あ、あの、ほんとに、いいんですか⋯⋯?」
「うん。むしろおれからのお願いだから」
面倒見のいいせんぱいだ。
わたしに罪悪感を抱かせないように、わざとそういう言い方をする。
話さないほうがよかったかな、と思いつつも、昨日とは安心感が段違いで、やっぱり話してよかったな、と、勝手に安堵する。
「お仕事も、お忙しいのに、すみません⋯⋯」
「ぜんぜん。気にしなくていーよ」
せんぱいは車通勤らしく、地下の駐車場へと向かう。
「はい、どーぞ」
「あ、ありがとうございます、すみません⋯⋯」
予想通り、というか予想以上に大きな車。
さすが企画部のエースだ。
助手席のドアを開けてもらったので、いそいそと乗り込む。
「音楽すきなのかけていーよ」
「え、いいんですか!?」
「いーよ。青葉、アンノンすきだったよね?」
「そうです!いまもめちゃくちゃすきです!」
Unknown。
通称アンノンと呼ばれる、4人組バンド。
最近、人気ドラマの主題歌を担当したことがきっかけで、知名度が爆上がりしている。
わたしは、アンノンがデビューしたての頃からの大ファンであり、大学時代はフェスやライブに行きまくっていた。
サークルでアンノンの話をよくしていたのは覚えているが、まさかせんぱいも知っていたとは。
そして覚えてくれていたなんて。
「よく知ってましたね?わたしがアンノンすきなこと」
「うん、サークルでよく話してたから。最近テレビでも見るようになって、思い出した」
Bluetoothを繋げさせてもらい、さっそくアンノンを流す。
「いまもライブとか行ってんの?」
「そうですね、当たれば行きます。でも、どんどん当たりづらくなってて⋯⋯」
「たしかに。いま人気すごいもんなー」
「今度一応ライブあるんですけど、厳しい戦いになりそうです」
「当たるように願っとくわ」
「お願いします!」
会社から車で帰宅するなんて初めてで、すごく新鮮だ。
「家寄る?」
「あー、いや、大丈夫、です」
「⋯⋯怖い?」
「⋯⋯っ、は、い」
「了解。なら、イオン寄るか」
「えっ、いいんですか⋯⋯?」
「もちろん」
「ありがとう、ございます」
イオンで着替えや基礎化粧品など、泊まるための最低限を揃えると、いよいよせんぱいの家へ向かった。
「お、おじゃまします⋯⋯」
でかい。とにかくでかい。し、めっちゃ高い。
さすがだ。
すごいんだろうなあとは思っていたけど、予想以上だった。
「広いだけであんまなんもないけど」
「すごい、ホテルより広い⋯⋯」
思わずぐるりと見渡してしまう。
「ふ。すっごい目きらきらしてる」
「す、すみません!思わず⋯⋯」
恥ずかしい。
すぐさま下を向いて、荷物をぎゅっと抱える。
「この部屋使っていーよ」
「あ、ありがとうございます⋯⋯っ、ひろ!」
「ふ、はは」
仕事部屋なのだろうか。
デスク、本棚、ソファベッド。そしてありあまるスペース。
改めてせんぱいのすごさを実感した。
「よかったら先風呂入ってきな。飯作っとくよ」
「えええっ、いいんですか⋯⋯!?」
「もちろん。お湯張るからゆっくり浸かりなよ」
せんぱいが浴室に向かうので、なんとなく着いていく。
遠慮しても言いくるめられることはわかりきっていたので、おとなしくお言葉に甘えることにした。
「入浴剤どれがいい?」
「ええっ、えーと⋯⋯、あ!このピンクかわいいです」
「おっけ、ピンクな」
「何から何までありがとうございます」
「どーいたしまして。バスタオルここ置いとくな」
「はあい」
「じゃ、ゆっくりしてきて」
「ありがとうございます!」
せんぱいがリビングに戻っていくのを見届けて、ひとつ息を吐いた。
「(はあ、めちゃくちゃきもちかった⋯⋯)」
結構長々と堪能してしまった。
久しぶりに浸かった湯船は広々としていて、入浴剤のおかげもあってか、とってもきもちよかった。
光熱費の節約のためにいつもは浸からないけれど、こんなに癒されるのなら今度から浸かろうかなあ。
「上がりました〜。せんぱい、ドライヤーってありますか?」
「おかえり。あるよ、ちょいまってね」
声をかけにリビングにいくと、とっても美味しそうな匂いがして、お腹がすいてきた。
と、なんだかじっと見られている。
「⋯⋯?」
「いや。すっぴん、いいな。あの頃の面影あるわ」
「!!」
恥ずかしい!
思わず手で顔を覆う。
「ふ、なんで隠すの」
「恥ずかしいからです⋯⋯!」
「ふうん?はい、ドライヤー」
「⋯⋯ありがとうございます」
「おれも風呂入るわ」
受け取るとき、にやにやしたせんぱいの顔が見えたので、ぷいっと顔を背けてやった。
せんぱいがお風呂から上がってきたので、つくってくれたナポリタンを一緒に食べる。
お風呂上がりでノーセットの、少し濡れた髪がセクシーだ。
寝巻きであろうTシャツにスウェットというダル着ですら着こなしてしまう。
せんぱいのこんなオフの姿を
心の中で悶えながら、いただきますをする。
「ごはん、ありがとうございます」
「ぜんぜん。口に合えばいーけど」
「⋯⋯ん!めちゃくちゃおいしいです!」
「よかった」
「ほんとにおいしい⋯⋯」
かっこよくてやさしくて、仕事も料理もできるなんて。
完璧じゃないか。
顔のすべての筋肉が緩んでいる気がする。
そんなわたしを見て、せんぱいはうれしそうに笑っていた。
「料理はよくするんですか?」
「うん。会食がないときは」
「へぇぇ!お忙しいのに、すごい⋯⋯」
「青葉も毎日つくってるでしょ?」
「まあ、簡単なものばかりですが⋯⋯」
「おれもおんなじもんだよ。パスタ茹でてソースかけて終わり」
そういえば、せんぱいは大学生のときもひとり暮らしをしていた。
手際の良さが料理歴の長さを物語っている。
「そういえば、考えたんだけどさ」
「?はい」
「あした、一緒に青葉んち帰ろ」
「えっ!?」
「それで、おれがストーカー撃退する」
「えええ⋯⋯」
なんと。
せんぱいが、わたしの身の安全を確保するために、体を張るというのか。
「で、でもあの、どんな人かまったくわからなくて⋯⋯」
「あした探せばいいよ。てか、ぜったい見つかる」
心強い。
頼ってもいいのだろうか。
「あ、でもせんぱい、車⋯⋯」
「ああ、電車で行くよ」
「ええっ、いいんですか⋯⋯」
「うん。久しぶりだな電車」
わくわくしてる。
なんだか楽しそうだ。
「あ、でさ。都合いいから、青葉の彼氏のふりしていい?」
「!?」
「ほら、ストーカーにはさ、彼氏って言ったほうがぜったい効き目あるじゃん」
それは、そうだろうけど⋯⋯
「う、あ、あの、わたしは、特に支障はないのですが、せんぱいは⋯⋯」
「ふ。おれから言い出してんだから、ないに決まってんじゃん」
「そ、そうですか⋯⋯」
せんぱいが、彼氏(仮)に、なった。
彼氏といっても、ストーカー撃退のための呼称でしかなく、恋人という意味合いや好意なんてものは一切ない。
ないとはわかっていても、なんだかむずむずする。
あの頃から、みんなの憧れの的で、きらきらしていて、かっこよくて、やさしくて。
わたしももちろん、憧れていたしがない後輩のひとりだ。
そんなせんぱいと、いろいろな、本当にいろいろな運が重なって、今この瞬間がある。
「とりあえず、きょうはもう寝よ。あしたに備えて、体調万全にしような」
「はい。あ、あの、よろしくお願いします⋯⋯」
「ん、こちらこそ」
ごちそうさまをし、皿洗いを買って出ようと思ったら、食洗機があると先手を打たれた。
おとなしく引き下がって食洗機にお任せし、一緒に歯磨きをする。
「いちごだ⋯⋯」
「ミント苦手なんだよ」
意外すぎる。少し恥ずかしそうなせんぱい。
外ではバリバリなせんぱいが、実はいちごの甘い歯磨き粉を使っているなんて。
こんなギャップ、狙ってやってないんだったら、本当に罪なひとだ。
「(沼な予感がする⋯⋯)」
嵌ってしまってはだめな沼。
せんぱいにとっては、危険な状況にある大学の後輩を気にかけているだけに過ぎない。
わたしとは世界がちがうひとだ、心にブレーキをかけて接さないと、あっという間に落ちてしまいそう。
「じゃ、おれは隣の部屋にいるから」
「はい、おやすみなさい」
「おやすみ」
わたしがお借りしているお部屋の隣が寝室らしい。
最後に挨拶をしてから、それぞれのお部屋に入った。
「(ふぅ⋯⋯)」
きょうもつかれたなあ⋯⋯。
いろいろなことが起こった1日だった。
ふかふかで広いソファベッドに寝転ぶ。
「(いいにおい⋯⋯)」
清潔なせっけんの香り。
安心感が心を包み、自然とまぶたが重くなる。
家を空けていることについても、気にならないわけではないが、あした帰るという約束があるおかげで、あした考えればいいや、と思考を放棄できる。
こんなに安心して目をつぶれたのはいつぶりだろうか。
久しぶりの安眠の予感を胸に、眠りへと落ちていった。
───アラームをかけ忘れたことに気づくのは、次の日の朝のこと。
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