幕間

 正月に見掛けるあの『カルタ』にも漢字があることを知ったのは、彼女が名乗ったときだった。

 天沢歌留多と書いてある手帳を見せられた。「かるた、です」と控えめな囁き声を私の耳が辛うじて拾えたことで、十六年生きてきてようやく漢字と読みが一致したのである。

 一週間前、うちのクラスに現れた転校生だった。当時の私は自分のことで精一杯で、周囲に興味を持つ余裕もなかったから、彼女がこの一週間でどのような経験をしたのか殆ど知らなくて、だから彼女のことは仮にもクラスメイトなのに名前を聞くまで「どこかで見たことがある子」だった。


「ご、ごめんね、こんなに可愛い絆創膏、私が使っちゃって」

「いい、それ、私の趣味じゃないの。家に置いてあったやつを適当に持って来ただけだから」


 大方、ルカが「モネはこういうの好きそうだ」とか考えて買ってきたのだろう。自分じゃ買わないし使わない。帰ってきたばかりの彼は、妹分のことを十年前と変わらない存在みたく思っているのかもしれない。流石に人並みの成長はしているつもりであったから、彼には早々に認識を更新してほしい。これ以上他所で使いづらいゆめかわグッズが増えないよう、早く。


「念のため保健室にも行くわよ。その絆創膏じゃ気休めにしかならないし」


 彼女が派手に転んださまを、しかとこの目で見た。何もないところでそんな転び方などするものかと、理解しがたきものに出会ったような不思議な心地であったが、膝小僧にそれ相応に派手な傷を作っているあたり、まあ恐らく演技などではないのだろう。擦り傷の周りに、広範囲の摩擦やけどが見られる。痕になる前に適切な処置した方が良い。

 放課後だったからよかったものの、これが登校中だったりしたらまあまあ悲惨なことになっていた。


「だ、大丈夫。これくらいなら私、自分で出来るから。それに、せっかくくれたこの絆創膏、すぐに剥がしちゃうの勿体ないし……」

「そういう問題?」


 欲しいなら残りもあげる、と面倒事を押し付けるくらいのつもりで、つっけんどんな態度で未使用の三枚を渡すと、彼女は目を輝かせながらそれを見つめている。お世辞とかでなく本当に好きだったらしい。そんなに喜ぶなら家に残っている在庫も全部彼女に渡した方が、有効活用なのではなかろうか。


「い、いいの?」

「遠慮は要らないし、何なら家にある残りも今度あげる。あなたが使って」

「本当!? あ、ありがとう……えっと、その」


 途端に口ごもる彼女を見て、自己紹介が一方的だったと気づく。私が天沢歌留多を転校生としてしか認知していなかったように、彼女にとっても私は『話したことのないクラスメイトのうちの一人』でしかなかったのだ。まあそうだろう、特段目立つ方でもないし、人間関係を疎かにしがちであったから、友人伝いに私を知るなんてこともなかっただろう。


「モネ」


 我ながら何て愛想がないのだろうと、放たれた二字に絶望する。無駄がないと言えばそれはそうだが、無駄ではない部分まで切り捨ててしまっている気がしてならない。目前の彼女が豆鉄砲を食らったような表情でこちらを見上げているから、やっぱり上手く伝わっていないのだろう。

 どうしたものかと数瞬思案して、ふとスカートのポケットに入っているレシートの存在を思い出した。朝、登校途中に寄ったのだ。取り出すと生温かくて、それを掌に乗せ、ブレザーの胸ポケットに常備していたボールペンで無理矢理殴り書く。


「羽草望音。……じゃ、また明日」


 保健室は行かなくていいらしいから、用が済んだのでさっさと立ち去る。私が転ばせた要因であるのならば無理矢理にでも付き添うべきなのだろうが、あくまでただ転倒を目撃した通行人に過ぎず、過剰な干渉は嫌がらせと見なされかねない。それらしい御託を並べて、足早に校舎から出た。

  先月、ルカが帰国して以来、彼と帰宅するときは、たいてい街の外れにあるコンテナ倉庫の前で待ち合わせをしていた。曰く、うちの会社が関わっているところとのことで、彼は定期的に倉庫のチェックに行くよう父に任されているのだ。




 私も中々の会話下手であるから他人のことをとやかく言えないのだが、出会った頃の彼女はまだ人前で喋るのが苦手で、普段からメモ帳を持ち歩いていて、筆談を交えながらの会話となることもしばしばあった。

 浮世離れした少女だった。黒く艶のあるよく手入れされた長髪と眉下で一直線になっている前髪。彼女はさながら日本人形のようで、それはもう親に大切に育てられたいわゆる『箱入り娘』なのだろうと、そうでない可能性を疑う余地も残されていなかった。

 お嬢様学校の端くれみたいな高校だったから、金持ちや伝統ある家の娘なんてそれなりにいて、しかし歌留多はその中でも目を引くものがあった。


「優しさは悪魔なんだって」


 グラウンドから更衣室に戻る途中、彼女はいきなりそんなことを口にした。体育の授業はいつも見学で、その間ずっと長い丈のジャージを着用している。顔色は悪くないが、衣類の合間から垣間見える肌は、いつも青白かった。


「悪魔?」

「……そう、そうなの。可笑しいでしょ?」


 苦笑と呼ぶには一段と固い表情で、ゆっくりと口角を上げた。私は肯定も否定も出来ず、「悪魔ねぇ」と与えられた単語を飴のように口内で執拗に転がすことしかできなかった。


「優しい言葉は悪魔の囁きで、貴方に優しく接するのはそれ即ち悪魔……って、ずっと教わってきたの。家が……何と言うか、まあ、そういうのでね。私、歳を重ねていくうちに違和感を持って、それで何とか理由をつけて都会まで出てきた」


 私はどうしようもないほど世間知らずで、彼女から聞かされたのは作り話かと半信半疑になってしまうが、しかし眼前の少女は至って真剣な眼差しであるから、きっと何も嘘など吐いてはいないのだろうと察する。

  歌留多の実家は、この学校からずっと遠くの田舎にある。ホラー映画に出てきそうな土着信仰のある村で、彼女の家は代々神官を務めているらしい。そんな噂を一度クラスで耳にしていたのを思い出す。恐る恐る訊けば、彼女はその通りだと笑む。彼女が頑なに肌の多くを見せないのは、宗教関係のタトゥーが入っているから。彼女についてのあまり良くない印象の噂が広がっていて、しかもどれも嘘ではないというのは、『神様が試練を与えている』から。

 何とも現実味のないことだった。彼女がぽつぽつと語る幼少期の話があまりにも酷く、彼女の周りにいた大人の正気を何度も疑った。

 幸い、更衣室に向かう集団の中では私たちが一番最後だったから、後ろがつっかえるとかそういうのは気にしなくてよくて、二人して人気のない廊下の真ん中で立ち止まっていた。ちょうど昼休みが始まるチャイムが鳴る。


 彼女は人形よりももっと綺麗な笑顔をこちらに向ける。それが異様なほど眩しくて、けれど目を逸らすことも伏せることもできなかった。


「たぶん、もう私の根底に根づいちゃっているから完全に排することはできなくて、私の『常識』は悔しいけれどあの家のこと無しでは成り立たないんだと思う。でもね、こうして毎日楽しくいられるのは望音ちゃんのおかげだよ。望音ちゃんの優しさに、私、とっても救われてる」

「……ふぅん、そう」


 私の素気ない相槌に、彼女は「そうだよ」と頷く。彼女のが伝染うつって、私も少し笑みが零れた。優しいのは彼女の方だというのに、まったく、お人好しだ。


「あなたも物好きね、歌留多」 


 歌留多は、やはり植え付けられた異様さを払拭できていない。それを浮世離れと呼ぶか怪奇と見なすかは人それぞれなのだろうが、忘れかけていたときに限って強烈な印象を残していく。そうであるものだから、私はその度に言葉に詰まってしまうのだけれど、それでも彼女の本質は、ひたすらに眩しい年相応の少女だった。

 流行りのものや可愛らしいものに目を輝かせ、幼子が如く目を輝かせながら憧れている。その姿を一目見れば、少し前の強烈さはあっという間に和らいで、見つめていると何だかどうでもよくなってしまうのだ。

 何がどうであれ、今の彼女はここで生きている。根拠こそなかったが、その事実さえあれば、難しい話は後でどうにでも出来るような気がしていた。




「星を見に行こう、望音ちゃん!」


 下校途中に寄った公園で、無垢な笑みを浮かべた少女がにこりと笑んだ。ブランコが軋んで、何だか全てが莫迦みたいに思えるほど美しかった彼女が、それでも確かに質量のある物体であることを証明していた。


「私の故郷は、星が凄く綺麗に見えてね、だから夜が一番好きだったんだ。いつか、行こうよ。きっと感動するから」


 歌留多からの「『好き』の共有」が、私にとって生き甲斐みたくなっていた。今だって、彼女の言う「いつか」までは死ねない、と寿命が延びたも同然である。一体、いつから、こんなことになっていたのだろう。いちいち重い奴みたいで嫌だったから、私は今日も冷めた態度でいる。

 特別何か感じるわけでもなかった「どうでもいいもの」が、塗り替えられていく。その変化は決して悪いものではなく、むしろ楽しかった。グリザイユみたいに、彩が上塗りされていくようだった。


「分かった。そんなに言うなら、期待しておくわ」


 夕焼けのせいで視界が少し霞み、私は目を細めた。黒い髪の先が橙に染まりかけていて、頬の産毛が白く輝いていて、彼女とその周りだけ絵画みたいだった。そういえば、クロード・モネは印象派の画家で、その印象派は光を描くのがどうとからしくて、天沢歌留多はあまりにも眩しいから、私は出会うべくして彼女に出会ったのかもしれないと、頭の隅で連想ゲームが始まって終わった。

 父への反骨心か、あるいは他と同様の無関心か、クロード・モネの名前を辛うじて知っている程度で、作品など何一つ覚えがない。だが、芸術とかそういった類に疎いのは、想像以上に勿体ないことなのかもしれない。

 隣の少女は、不思議そうな表情を見せてから花が綻ぶように笑んだ。

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