第29話 庭、カエデと〇〇〇

 夜、カエデを呼び出した。


 五月雨家の小さな庭だ。俺とカエデはよくここで話してきた。


「どうしたの?」


 カエデはいつものクールな澄まし顔だ。


「大事な話がある」


 俺は一つ息を吸い込んだ。


「俺たち3人の今後の話だ」


「そう……」


 カエデは腕を抱きかかえるように立って足を組み替えた。


「…………」


「このままじゃだめだと思うんだ。聞いてるだろ。……シオンにも好きって言われた、キスもした」


 カエデは小さく頷いた。力強い眼差しで俺を見る。


「決めるのね」


 やはりこいつに隠し事はできないらしい。昔からそうだった。常に先回りして俺を導いてくれる。


「決めるよ。選ばないと」


「いつ?」


「明日にでも」


 カエデは悲しそうに微笑んだ。胸がチクリと痛くなる。でも必要な痛みだ。


「そんなに早く?」


「遅いくらいだ。もっと早くに決断しておけば傷も浅かったのに」


「そうかもね……」


「…………」


「どうしても、選ぶのね?」


「どうしても選ぶ。選ばないと」


「そう。分かったわ……」


 カエデが一歩距離を詰めてくる。手を少し伸ばせば触れられる距離だ。風呂上がりなのだろう、シャンプーの匂いが香ってきた。


「抱きしめてよ。今日が最後になるかもだから……それくらい良いでしょ?」


 そっと抱きしめる。細くて頼りない女の子の体だ。小さく震えているのが分かる。


「もっと早くに素直になっておけばよかったわ。抱きしめられるのってこんなに幸せなのに」


 弱々しい声だ。


「なのにすごく苦しい……」


 冷たい指先が俺の頬を撫でる。


「ごめんな」


「謝らないで。私だって分かってるの、ずっとこのままじゃいられないってこと。大人にならないと」


 そうだ。俺たちは大人にならないといけない。曖昧なままでいて良いのは子どもだけ。


「やっぱりカエデには敵わないな」


 カエデはちょっぴり口角を上げた。


「幼馴染だから」


「はは、なんだそれ」


「コウがどんな選択をしても、私がコウの幼馴染っていうのは変わらないからね。毎朝起こしに行くし、勉強も教えてあげる」


「カエデは世界最高の幼馴染だ」


 俺にはもったいない、とは口にしないでおこう。好きだとも言いたいし、愛してるとも言いたい。でもそれを言葉にしてはいけない。今はまだ。


 この幼馴染を愛している。幸せになって欲しい。幸せにしてあげたい。


 俺にできるだろうか。


 カエデの唇が開く。


「大好き」


「…………」


 俺はただ抱きしめることしかできない。どんな言葉も薄っぺらになる気がした。少しだけ腕の力を強くする。


「いつかこんな日が来るって分かってたの。初めてシオンと会った日から。コウはかっこいいから、女の子はみんな惚れちゃう。だから私は誰にも負けないように頑張ってきたけど……シオンには勝てない」


 カエデは視線を下に落とした。


「いつも明るく振る舞えて、みんなに好かれて、誰とでも仲良くできて、自分に正直で…… 髪も目も綺麗だし、女の子らしい服もよく似合う。おっぱいも私より大きい」


 俺はすごくすごく迷って、口を開いた。


「おっぱいは大きさだけじゃない」


 カエデはくすりと笑った。


「そこ? 慰めるでもなくて、否定するでもなくて、そこなんだ。――別に慰めてほしいわけじゃないから」


 小さな笑い声が愛おしい。なんで幼馴染ってこんなに可愛いのだろうか。一緒にいて落ち着く。重ねてきた時間が誰より長いのだ。


「どんなふうに言ったらいいのか分かんない。私ね、コウを好きなのと同じくらいにシオンのことも好きなの」


「分かるよ」


 二人は親友だ。俺とカエデの間にはない、俺とシオンの間にもない、混じりっ気のない友情だけがそこにはある。


「だからどうしたらいいか……分からないわ。どうすればいいんだろうね」


「どうすればいいんだろうな」


 カエデが体を離した。それだけでなんだかすごく肌寒く感じてしまう。まだ四月だ。空気は冬の裂くような寒さを残している。


 カエデは囁いた。


「どちらがDIOか、教えてほしい?」


 心臓がどきりと跳ねる。


 カエデはいたずら好きな子どもみたいなあどけない表情をしていた。


「教えてくれ」


「……教えたらキスしてくれる?」


 カエデは少しだけ首を傾げる。上目遣いも相まってとても魅力的だ。


 しかし俺は歯を食いしばってこらえた。


「だめだ。もうキスは……」


「お願い。さっきの催眠中のコウとのキスが最後になるかもなんて、許せないわ」


 唇を近づけてくる。甘い匂いがした。


「ね? いいでしょ?」


「……分かった。教えてくれたらキスしよう。実は俺もしたくて仕方がないんだ」


 カエデはまばたきもせずに俺を見つめた。俺もまばたきができなくなって、息もできなくなる。


「DIOは――シオンよ」


「……本当に?」


「本当に。あの子は時間停止能力を持ってる。だから――」


 カエデは震える声を紡ぎ出した。


「――シオンを選びなさい」


 俺の手足は棒のようになって固まった。その言葉がぐるぐる頭の中を巡って思考がまとまらない。口を開いて出てきたのはバカみたいな質問だけ。


「……なんでそうなる」


 カエデはすべて悟っているとばかりに、すぐに答えを返してきた。


「だって――DIOと結婚するんでしょう。"結婚しよう"って言ったらしいじゃない。ぜんぶ知ってるんだから」


「…………」


 あれは冗談の延長線上にある言葉のつもりだった。しかし、もはや俺にも分からない。冗談なのか本気なのか。


 DIOだから選ぶとか、そんなつもりはなかった。ただ正体は知っておきたいだけ。


 悩む俺をカエデは待ってくれない。


「そして――シオンにはあなたが必要なの。あなたに依存してる。まだ脆くて弱いから、選ばれない苦しみに耐えられない」


「…………」


 それは確かに事実のように思えた。


 シオンは俺に依存している。引きこもりだった彼女に寄り添って連れ出したのが俺だから。


「自分は耐えられるって言いたいのか」


 カエデは首を横に振った。


「少し泣くけど……泣くだけ。1時間もすれば踏ん切りがついて、いつもの私に戻るわ」


 ……本当だろうか。こいつは強がりなところがあるから、本心ではないかも。でも見抜けなかった。


「だからシオンを選んで」


 そう言ってカエデは唇を寄せてくる。


 味なんてまったく分からない。ただ熱だけを感じた。


 カエデの気持ちを考えて苦しくなる。どんな思いでキスしているのだろうか。もう言葉が出てこない。


 触れるだけのキスを少しだけ続けて、俺とカエデは黙って手を振り合い、家へと戻った。

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