第21話 中庭、カエデと〇〇〇
カエデが隣に座った。
遠くから体育の授業のかけ声が聞こえてきて、開いた窓から教室の中のざわめきが漏れてくる。
「催眠、解けたみたい。放送聞こえてたわ。コウがやってくれたんでしょ?」
「俺は頼んだだけだ。何が何だかよく分かってない」
身代わりになったのだ。つまり俺に催眠がかけられているはずなのだが……
まったく実感はない。
「それでもありがと。助かったわ。――コウってぜんぜんかっこよくない」
唐突な罵り。カエデの瞳の中の俺は馬鹿みたいに目を丸くしていて、カエデはくすくす笑う。
「試してみただけ」
「急に罵倒されたらマゾになっちゃうよ」
「私のせいにしないでよ。もともとでしょう。そういう本を部屋にため込んでるの知ってるんだから」
「……なんで知ってんだ」
性的嗜好に関して俺のプライベートは存在しないらしい。いつからこんなことになってしまったのか、もしかするとずっと前からなのかも。
「幼馴染はなんでも知ってるの」
そんなものだろうか。そんなものかもしれない。別にすべてを知られていたって不快ではない。
カエデが手を重ねてくる。ひんやりとして冷たい。
「催眠術師に何かされなかった?」
「催眠をかけられた。明日の朝から効果が出るらしい。どんな催眠なのか分からないけど」
「解除方法は?」
首を横に振る。分からないことだらけだ。
「めんどうな催眠じゃないといいけど」
めんどうじゃない、なんてことはありえないだろう。俺は生贄にされたのだ。催眠というより呪いみたいなものだと予想できる。
ふと、肩と肩が触れ合った。そのまま体重をかけてもたれかかってくる。心地よい重さだ。髪の毛がくすぐったい。
「今私が何を考えているか、当てることができる?」
「見当もつきません、お嬢様」
「ふふ、なんでお嬢様?」
「お嬢様っぽいセリフだっただろ」
カエデはずいぶんと機嫌がよさそうだ。催眠が解けたことがよほど嬉しいのだろう。
「今、好きな人のことについて考えてたの」
スキナヒト。すきなひと。好きな人。好きな人っていうのは、好きな人のことだろうか。カエデの好きな人? 俺はそんな鈍感じゃない。たぶん俺のことだ。もし勘違いだったら人間不信になろう。
「とってもかっこいいのよ。いつもだらしないけど、いざってときは頼りになるの。昔からずっとそう」
「……カエデにそんなに想われるなんて幸せなやつだ」
「……ちょっと思わせぶりで、すぐ口説くっていう悪癖があるのが玉にキズなんだけど、まあ可愛げの範囲よね」
チクリと刺されたような気がする。
「誰のことだと思う?」
「心当たりはあるけど……」
「…………こっち見て」
俺たちはベンチに座ったまま向かい合った。
鼓動が天井なしに加速していく。
カエデは目をぎゅっと閉じたり開いたり、何度も深呼吸したりしてせわしない。緊張が伝わってきて、俺まで呼吸が浅くなってきた。
「大事な話があるの。ずっと言えなかったことを言わせてください」
「うん」
気の利いたセリフは出てきそうにない。俺はきっとかかしみたいに間抜けな面をしていることだろう。
「返事が欲しいわけじゃないの。どうしてほしいとか、どうしたいとかもない。ただ伝えたいだけ。だから私の話が終わったら『ふーん、そうなんだ』って言って」
「うん」
いつもクールな幼馴染が服の裾を握りしめて、前髪をいじいじと直し始める。可愛いなあと思う。でも俺のカラカラの喉から言葉が紡がれることはない。
「聞いてくれる?」
「聞かせてくれ」
カエデが目線をあげた。黒く輝くような瞳に意識がすいこまれる。生まれてから親の顔より見た顔なのに、今までのどの瞬間とも違った美しさがあった。
小ぶりな桜色の唇が意を決したように開かれて――
閉じられる。カエデは困ったように微笑んだ。
「あはは、なんか緊張しちゃう……」
「たぶん俺の方が緊張してるから」
「へんなの。……仕切り直しね」
もう一回。
今度はカエデはすっと背筋を伸ばし、俺の手を握りしめた。なんだかちょっと強気な感じだ。
そして言った。
「好きです」
それはどこか遠い世界から聞こえてくるようだった。
「ずっと前から好きでした。大好き」
カエデは恥ずかしさをごまかすように笑った。
ずっと前から好きでしたなんて言われれば、ずっと前から気付いてた、ということになる。気付かないはずがない。それでも俺たちは想いを伝え合うことなくやってきた。
たった今、境界線を越えてしまった。関係性はどうしようもなく変化していくことだろう。後戻りはできない。
「…………なんか言ってよ。困らないように、ちゃんと教えてあげたでしょ」
黙りこくってしまった俺の前でカエデはじれったそうに体を揺らしている。
ふーん、そうなんだなんて言えない。俺のカエデへの気持ちはそんな安っぽいもんじゃないはずだ。
思いが震える声となってあふれ出てくる。
「カエデ。俺……俺は――」
「だめ」
手で口を塞がれた。
すごく真面目な顔のカエデが俺の口を塞いでいる。
「それは言ってはダメでしょ」
なぜだろう。理解ができない。
「それを言ってしまえばいよいよ後戻りできなくなる。まだこのままでいいでしょ。私、今の感じが気に入ってるの」
塞ぐ手が離れていく。言うはずだった言葉はもう消えていて、絞り出そうにも行方が分からない。
ただ口がパクパク動いてしまう。カエデは女神みたいな微笑みを崩さない。
「昨日できなかったこと、してもいい?」
なんだか不思議な心地だ。夢を見ているような気分とでも言うのだろうか。カエデの誘いに対して、自分が頷いたのか黙っていたのか拒否したのか、どんな反応をしたのか分からない。
とにかく、俺たちは唇を近づけていった。
どちらともなく。
そして触れ合う。
甘酸っぱい味がした。もちもちで柔らかい。瑞々しくてぷるぷるで、きっと俺のそれとは大違いだ。普段からもっと気を使っておけばよかったと後悔が浮かんでくる。
目は開いたままだ。睫毛がぶつかるくらいの距離にあの透き通る瞳があって、視線が絡み合うと嬉しそうに細まっていく。
こんなに甘く幸せなものだったとは。
ちゅ、と軽いリップ音を立ててカエデが体を離す。
「あーあ、キスしちゃった」
「…………」
「なんだか夢見てたのとはちょっと違ったけど、でもこれでよかったのかも。忘れられそうにはないわ」
「……夢見てたのっていうと?」
「それは……燃え盛る花火の下とか、静かな夜の海岸とか、クリスマスのイルミネーションの真ん中とか?」
「……なら、そこでもしようぜ」
カエデは顔を真っ赤にして、俺の手を軽くつねった。
「そんな甘いことばっかり言って、ほんとにズルい。いつか刺されるわよ」
細い腕が俺を抱きしめる。そして引きずり込むように、俺はカエデをベンチに押し倒していた。いや、押し倒すように導かれたのだ。
真っ赤な唇が開かれる。
「もう一度しましょうか、キス」
抗うことはできない。結局、俺たちはチャイムが鳴るまでずっと、世界に二人しかいないかのように口づけを交わしていた。
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