モノローグ(柳)

               ◯


昼休みの終わりを告げる予鈴と共に、校門を出る。サボり、ではもちろんない。脇にはクロッキー帳、制服ポケットには2B鉛筆二本と消しゴム。

 五限美術の授業内容が写生の基礎、という訳である。基礎、であって実践まで行かないという事で、画板やケント紙は不要なので、ほとんど手ぶらでサボりに近い感覚だ。実際、中学の頃も昼休み明けにサボる生徒が多い、他所の学校でも中途半端な生徒は概ねそうなのだろう。現に自分も今、そんなサボり気分に浸っているのが分かる。

 きちっとしたスーツに革鞄、右脇には「スーパー定期預金」とプリントされたカタログを抱えた、銀行の営業らしき人物と擦れ違う。自分が今、営業だったら絶対出世できないか……昼の一時過ぎにヒマそうに街を歩いている手ぶら営業なんて時間潰しでしかない。……だから社会科が得意な人間ほど、社会に出ると駄目扱いされるのよ、だったか……桜井。


 柳……と、遠く背後から声が掛かる。こんな田舎道、人通りなどたかが知れている。さっきの営業が勧誘?まさか……でも何で自分を知っているのか?と思ったら、桜井だった。女声とは言えども、大人びた男性的な物言いだから、本当にあの営業の方かと勘違いした。


 美術はA、Bクラス合同であるので桜井が校外にいても不思議ではないが、一緒に描こうとか、そんな約束などしていない。

 どうせ魚野川でしょ……と、桜井は言いながら、早足でもないのにもう自分を追い越して行くが……何で行き先が分かったんだ?とは尋ねなかった。自分の行動範囲の狭さを桜井は分かっているのだ、故に「どうせ魚野川でしょ」なのだ。

 桜井は描く場所決まっているのか?と、聞いても黙ったままだし、何かどんどん遠ざかって行くので、訳も分からず後を追いつつ、気が付けばもう魚野川の川岸を歩いていた。瞬間移動は言い過ぎにしても……いつの間にか着いていた、そんな感覚である。自分から見て桜井は早足には見えないが、ならば歩幅が広いとでも? いや、行動力、実行力……それを目の当たりにした気がした。脇目もくれない無言の歩行がそれを証明していた。


 目的の場所まで、もうちょっとね……と、桜井は前を向いたまま口を開いた。全てお見通しだから話が早いのだが、しかし……どこまでお見通しなのか。写生の目的地までか、それともその先の、目的か。

 桜井の凄さなんて今更だ、一を聞いて十を知る人間だ。だから、それを承知で一言。

 ……気付いていたのか?との問いに、桜井も一言。

 どうせいつもの奇妙な考え事でしょ?と。

 自分としては、いい機会だと思った。今までの経験通り、自分から湧き起こる奇妙な疑問。これはやはり桜井の前に出ない限りすっきりしない。桜井の言う通り、自分はあの場所で考えていた、ずっと……ずっと…… ただ、この考え事は自分でどうにかしなければならないと決めてもいた。

 桜井は、今まで自分のどんな疑問にも、ちゃんと決着を付けてくれた。ふと魚野川に横目をやると、信濃川と千曲川を連想してしまう……今思い返すと他愛ないあの感情的な質問。そんな質問にすら桜井は余裕綽々と——

 信濃川の「信濃」って昔の長野県辺りの呼称でしょ?つまり「信濃」川は「長野」川って言っているのと同じでしょ?長野川(信濃川)全長367キロメートル日本一、これに対して長野県民は何が不満で不公平?

 あの質問は、質問と言うより自分の幼稚で感情的な不満じゃなかったか? そんな質問にすら、いと鮮やかなオチ?で決着を付けてしまう、もはや凄いなんて言葉じゃ言い足りない頭のキレッぷり。

 だけど、そんな桜井でも答えの出ない問題に答えを出せるのだろうか? 自分では未だに答えは出せない。目的地までもう少し、この機会を逃せば答えは出ない、しかし答えは出るのか、それ以前にこれだけは桜井には頼れない、自分自身の「命題」じゃなかったか?


 もう既に考え事?……と、桜井の呼び掛けで我に返る。ま、目的地に着けば後は自然の流れだ。今は美術、写生の基礎、それだけだ。


 桜井は何描くんだ?と聞けば、柳と同じよ、と一言だけ。

 ……困るなあ、同じだと比較されて自分の下手さが目立つんだよ、だから川はやめてくれ、と桜井に返す。

 桜井は、じゃあ私が川で柳は山、と勝手に決めてくれた。

 山かあ……と、ほぼ目の前の坂戸山を見つめる。正直、山を描くのは苦手なんだよ……と言ったら、じゃ私が山で柳は川で文句ないでしょ、と妥協してくれた。

 川かあ……と、再び横目で魚野川に目をやる。正直、川を描くのは本当に苦手なんだよ……と言った。桜井は、…………かなり長い間を経てこう言った。

 柳って冗談言っている様で本気だったりするからタチが悪いのよね。 ……いいわ、どういうことか苦手な理由っての両方聞かせなさいよ、まずは川から。

 自分は、魚野川を流れる、何色ともつかない水の色そのものを目で透視するような感覚でじっと凝視しながら、桜井に自分の昔話を始めた……


 昔さ……小学生の時さ、だから桜井がこっちに来る前の話だけど……図工の時間にクラス全員で水槽で飼っている金魚を描く事になったんだよ。でさ、その時描いた絵が先生に褒められたんだよ、先生っていうか、教師に褒められたのは今までの学校生活で、それが唯一なんだよ。

 ……成程ね、確かに教師からしたら、柳は模範的な生徒ではないかも。つまり教科書通りではない、一風変わった考え方されるとやりづらいって訳。で、そんな柳が、教師に?……って事は逆に何かありそうね……と、桜井。

 ……その通りだ桜井、だって水槽の金魚描いた後、色とか塗るだろ? でも自分、金魚とかはオレンジ色で塗ったけど水槽の水は全く何色も塗らなかったんだ、なのに先生は何故かそこを褒めるんだよ、ちゃんと観察してるわねって。その一方で……自分の隣の子は逆に怒られたんだ。その子は水槽の水を絵の具の水色で塗ったんだよ、それを見た先生は、よく見なさいよ、水槽の水はそんな青い色してないでしょうが、とか何とか嫌味ったらしく言ったんだよ。まあ、川を描くのが苦手っていうのは、透明だけれど無色にも見えない水をどう表現したらいいかって事。でも桜井これってどう思う?と、聞いてみる。

 桜井は少し怒ったような表情で、いるいるっそういう教師、それに基本、絵なんてのは何描こうが塗ろうが各自で勝手にやるのが大前提なのよ、皆が同じの描いて同じ色塗ったら絵描く意味全くないじゃない、そんな基本的な絵描きの基礎の基礎も分からないの?と、捲し立てる。

 ……頼む桜井、こっちに当たらないでくれ。桜井が落ち着くのを見計らって話を続ける…… 何色にも塗らなかったその水槽の水は結局は透明でも無色でもない……つまりただの真っ白な白紙そのまんま、それだけ。それを見て未完成の不安定さ、というよりはっきりしない不安感みたいなのを感じたんだよ。だって自分は本当は無色透明を表現したくて何色にも塗らなかった訳じゃ決してない、むしろその逆だったんだよ……と、一息ついたその時。

 桜井の顔つきが、急に変貌する……深刻そうな表情で一言放った。

 ……どういう事?

 ……自分は話を続ける……つまり自分の外側に色が見えなかったから色を塗れないんじゃなく、内側に色が見えたからこそ逆に色を塗れなかったんだ。というのはさ、水槽の金魚、そのオレンジ色ただ一点だけを見ていたら、逆に何故か実際に目に映らない周りの水槽の色が、自分の内側に見えた?様な気がしたんだ。だけどそれは実際に目で見えた色って訳じゃないし、だから絵の具で塗ろうにも塗れなかった。でも確かに、自分の内側で、金魚のオレンジ色が……まるで太陽の光みたいに……その水槽の水を照らした様に見えた。ほら、真っ白な紙だと何も見えないし分からないけれども、真ん中に赤丸を描くとその真っ白な部分も含めて日本の国旗に見えて分かるみたいな? 頭の中の自分の絵空な「想像」が金魚のオレンジ色の光をきっかけに、写真の「解像」みたいにはっきりくっきり見えたんだ。まるで、ただの真っ白い紙が、真ん中の赤をきっかけに一瞬で日本の国旗だとはっきり分かって、ああ、この真っ白い色はそういう部分だったのかって……そんな感じかな。

 だから例えばさ、極端な話、もし日本の国旗の白い部分を塗りなさいって言われたら、今の自分なら迷わずに塗れるだろうな……そう、アメリカの星条旗カラー、赤と青を使ってさ。だってさ、日米日米って最近……いやいつもか?とにかくテレビや新聞でこのフレーズ見聞きしっ放しで頭がゴッチャでさ、桜井もそう思わないか?


 ……桜井は、黙ったまま。何か様子が変なのは気のせいだろうか……とその時——


 ……柳、美術なんてサボっていいわ、私が保証する。

 ……は?と、自分。その後、再び桜井の一言。


 ……柳のそれは、特別な画家のみが持つ……芸術家の心眼みたいなモノ……なのかも、ね。

 桜井は重たい口唇をゆっくり開く様にして、そう言った。まるで八月十五日の降伏宣言の様に……重々しく……響いた……

 まるでアメリカ?が負けて?日本?が勝った?みたいに??


 自分は、ただ、桜井の背中を見つめ、とぼとぼ歩くしかなかった。桜井が、「自分の外」からどんどん遠ざかって行く……

 ……どんどん桜井が、小さく、さらに小さく、見えた。ふと一瞬、あの桜井が、「自分の中」で、本当に、「小さく」見えた?

 ……これが、桜井が今言った、芸術家の心眼……ですか? 

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