モノローグ(桜井)

     ◯


 一B 四限英語Ⅰ


 授業もそろそろ終わる頃合、けれど私は机に広げた英語Ⅰの課題プリントの最初の方、あの問題の所で立ち止まったまま進めない。


(2)日本海        大西洋

 Japanese (Sea)  Atlantic(Ocean)


 柳は、「海」という言葉に反応した。柳は、「海」をまだ見たことがないと言った、それには驚いた。柳には度々驚かされる……まあ今回のそれは私にとっては許容できる驚きではあるけど……って、別にそんな事で安堵?している訳じゃないけど。

 それにしても理解に苦しむ……何故「海」なのだろう。実際見たことがない海に関心があった、それだけの事なのか、それともまだ何かあるのか。どうしてまだ何かあると思うのか? こっちは(2)の問題そのものより、柳の思考が理解出来ない…… Sea と Ocean ……柳が納得していないこの答えで合っているのか? 

 少し前までは、私にとっての面白い話相手だった。ただ、柳と話していると、段々と分かってくる。私自身の事も、そして柳の事も……少しづつ。

 物思いに耽ながら簡単な英語に目を泳がせていたら……ふと、課題プリントの穴埋め問題の最後、(20)に目が止まった。


(20)小川のせせらぎ    

 the murmur of a(stream)   

   川の流れ

 the flow of a(river)


 小川と川、か。これも要はあの問題と一緒か……


 日本海       大西洋

 Japanese (Sea) Atlantic (Ocean)


 ……結局、またここに戻されてしまうのか。これを解答しない限りは次の問題へ進めないと? 馬鹿らしい……けど、やってやる。これだと柳から逃げた(負けた)事になるから。

 小に対する大……か。日本の小さな海とアメリカの大きな海洋。この違いが納得出来ない人間がいるとはね。柳のウチは海外旅行なんて縁がなさそうだし、海の世界なんて余りに大局的過ぎてしまうのかもね、海が世界全体そのものになってしまっている。でも……この(20)番、小川と川の問題だったらどうなる? せせらぐ小川なんて二級河川にも指定されはしないだろうから、固有の名称なんて基本まず付かないか……小さな川は皆小川。ある意味、日本海は小さいと言っても固有名詞で認知されているだけマシかもね。一応、「日本」の海として世界にその存在があるのだから。そこ行くとあの小川(ウチの学校の裏手にある川)は地理学的には無記名だろうから存在しないに等しいわ。さて、柳はどっちタイプかしらね、小さい「一つ」の存在する海か? 小さな「無き」に等しい川か? どう見ても海の男ってタイプではないからやっぱり……いや、アレは確か名前だけは大きかった、か。もし川だとしたら案外大きな川なのかも。大きな海は海洋だけど、ならば大きな川って何だろう? あの柳が世界のアマゾン川やナイル川に匹敵すると? まあ身の丈に合わせて、日本なら一級河川ってトコか。ココを流れる魚野川も国指定の一級河川だけど、その先で合流するのが……そう、あの全長日本一の一級河川、信濃川……


 ……信濃川! 記憶の流れを川の流れを遡る様に、それでようやく過去のある事件に突き当たる。……そうだ、川だ、信濃川。あれは社会、地理の授業だったか……私はすっかり忘れていた、あの出来事を。

 今思うと、あの頃から既に柳の特殊な個性、奇妙な思考に私は薄ら気付いていた……

 柳は社会科全般は得意としている。ただ、私より点数が良いのが引っ掛かっていた。つまり学年一番くらいなのだ。あれで馬鹿ではないのだ。もちろん社会科以外は、まあまあ良い程度みたいだわね。聞けば、社会科そのものの内容にはさほど興味がある訳ではないとか。むしろ興味だけなら、苦手な理科や音楽の方にあるみたいだ。じゃあ何で社会科の成績がずば抜けているの?の問いに柳は、答えが唯一つしかないから、とだけハッキリ言った。そう言えば天気予報の話の時も、似た様な事を言ってなかったか……まあいいけど。この場合、要は暗記科目だから覚えればいいだけって事だと思うけど、逆に私はそういうのは苦手と言うより面倒臭いから嫌いだ。英語だと、言い回しは一つって訳じゃないし、国語だって文章の解釈に必ずしも正解なんてある訳じゃない、川端とかになれば尚更でしょう。……でも数学とかだって答えは一つでしょ?と聞くと、柳は暗そうな顔で黙ってしまった。私は柳の内心が何となく読めていたし、まあ可哀想だから敢えて口には出さなかった。でも私としては、柳はそんな馬鹿っていう程でも……あっ、まあいいか。


 その得意の社会科、地理の授業で、柳が教師を質問攻めしたことがあったらしい。あの柳が、である。その質問内容から、クラス中、いや学年中に「信濃川データ詐称事件」?として結構波紋を呼んだ。波紋を呼んだのは、その質問内容そのものよりも、柳の質問に教師は全く答えられなかったから。

 その授業内容はもちろん日本の地理であるけど、そこで日本を流れる主な河川が取り上げられた。となれば、あの信濃川に話が及ぶのは自然の流れにして当然の帰結。何せ地元新潟県を流れる一級河川にして、日本一長い大河川だから。

 もちろん地元の中の地元、ここ魚沼一帯を流れる信濃川の支流、魚野川にも触れられた。授業内容についての柳の話を聞くと、もうこの魚野川から疑問が芽生えていた様だ。魚野川は最終的に信濃川と合流するが、結局一続きの川である、なら魚野川だって信濃川と呼称すべきだ、とか何とか。結局さっきの海と海洋、あれと同じ事を言っている。海は一つしかないから、日本海も大西洋も同じだ、だったか。アバウトな境界を嫌い、いっそ一つにしてハッキリさせたいのが柳の考え方の癖みたいなものだと、今改めて分かる。

 まあ、その後日談で柳には、魚野川と信濃川とでは川の始まり、つまり源流が違う筈でしょ?スタート地点が違うなら名称が違って当然よ、と言ってやった。柳は、あっ確かに……源流が下流の果てにある海ならばスタート地点は一緒だけど、そんな訳ないしなあ、成程……でも桜井よく気付いたなあ、やっぱり凄い、とか言って一応納得はしていたが、この程度で凄いと言われても、逆に私が馬鹿っぽく言われた気がする。赤ちゃんが字を読めて、まあ凄い、お利口さん、みたいに。

 本題はそこから先だ、その新潟県を流れる信濃川を遡ると長野県に入るが、ここから何と違う名称に変わるのだ。長野県では信濃川ではなく、千曲川という名称になる。魚野川は信濃川とは完全に枝分かれしている支流だから名称が違って当然だが、千曲川は信濃川本流そのものなのだ。私もそれを聞いて最初、千曲川は長野県における信濃川の俗称であって正式な名称ではないのかも、と思ったが、そういう訳でもないらしい。やはり資料地図で明記されているなら正式名称だ。柳が教師に質問したのは、まさにここだった。私と柳とはクラスが違っていたから、詳細は又聞きではあるけど、まず最初の質問内容は言うまでもない。何故同じ一つの川なのに、途中から名称が違うのか? そして次に信濃川が367キロメートル全長日本一なのはどうしてか?

 これには私も柳に同意だ。特に後者、信濃川の全長だ。信濃川367キロメートル全長日本一なのは、富士山3776メートル標高日本一に次いで広く知られる一般教養だ。しかし、厳密には信濃川153キロメートル、千曲川214キロメートル、でも同じ一つの本流であるので信濃川367キロメートルであるという事。当然理由はあるのだろうけど、信濃川、千曲川の名称区分も含め、その辺は地理院とかの国土行政に聞くしかないと思えた……が、手っ取り早く教師に聞いた柳。まあ当然かも……私だってそうする。

 だが……教師は全く答えられなかったらしい。柳の質問自体、特に難問って訳ではない、ごく素朴な質問だったからいけなかった。クラスの皆も柳のもっともな疑問に同調して、期待の目を教師に向けるのも当然。ところが、である。教師の憎しみとも怒りともつかない濁った表情、そのせいで、クラス全体に気不味い空気が流れたそうだ。柳の際どい質問のせいで、教師としての面子を潰され、生徒全員の前で赤っ恥をかかされた、そんな所か。柳の心中を察する。柳は悪くないわね、決して意地悪な質問でもなし、これは素朴な疑問なのだから。問題は教師だけど、教師にも融通の利くタイプも中にはいる。いやあ柳、なかなか鋭い質問だなあ、ちょっと待ってろ、次回までに調べてくらあ、まあお前も人任せじゃなく図書室で調べまくってみろよ、勉強ってのは「他人」じゃなく「自分」がやらなきゃ自分のモノにならないだろっ、いいこと言うだろ俺、みたいな教師(アイツ名前何だったっけ……変な教師だったのは覚えているけど)。だが大抵の教師は堅物だったり、事なかれ主義だったり、最悪私より勉強しない(出来ない)教師とか……科学や語学などに熱中した事などありませんが、安定志向で理科や英語の教師になりました……と、さも顔に書いてあるみたいに。だから授業もつまらないし、本気で教える気概も情熱もない。

 柳も不憫だなあ……と思いきや、……でもさ桜井、これじゃ長野県民の怒りが収まらないだろ、とか言い出した。

 だってさ桜井、長野県じゃ信濃川じゃなく千曲川って名称なんだ、でも千曲川367キロメートル全長日本一とはならない。これだと新潟県贔屓じゃないか? もし自分が長野県民だったら、凄く不公平に感じるぞ、信濃川(153キロメートル)に無償で千曲川(214キロメートル)を譲ってやったのに見返りなしみたいなさ。

 ……しばらく唖然。他の連中とは違う、奇妙な人間だと思ったのはその頃からか。けど、教師の件を引きずっていない、その曇りのち晴れ?みたいな表情が、逆に何となくこっちを嬉しい?気分にさせた。間違いなく、柳にとってその授業は苦渋に満ちた後味の悪いものだと分かっていたから尚更に。この私を良い気分にさせてくれる人間もそういない、だからその見返りはキッチリしてあげようじゃないの、なんて思いながら柳に向き直る。

 ……でもさ柳、信濃川の「信濃」って長野県辺りの昔の呼称じゃない? つまり「信濃」川は「長野」川って言っているのと同じでしょ?長野川(信濃川)367キロメートル全長日本一、これに対して長野県民は何が不満で不公平?

 柳は、長い沈黙を経て一言。

 …………桜井、凄い、いや本当に凄い。

 どういたしまして。しかしその後すぐ——

 でもさ、信濃川が長野川と同義なら新潟県はどうなるんだ? 自分は新潟県民だから今度は本当に不公平に感じるぞ? 信濃川は新潟県にも流れているのに。新潟の昔の呼称は「越後」だから「越後信濃川」に改称しなければ自分ら新潟県の存在がうやむやに……

 ……こいつは本当に起き上がり小法師だ。だけど七転び八起きの健気な起き上がり小法師なんかじゃあない。諦めが悪いと言うか、転んでもタダでは起きないムカつく起き上がり小法師だ。


 これが「信濃川データ詐称事件」の全容……って、何で英語の授業中に社会科のお勉強なんかしてるの? 今、社会科の授業中なのは確か柳のクラスでしょうが。英語Ⅰと英語Ⅱがゴッチャになっている様な馬鹿やってるから、私も釣られてゴッチャになったじゃないの……ハア、どうも柳には事あるごとに調子を狂わされて……これで私のスタンスがいつも崩れてしまう。

 ……でも、それからだったか? この一件を境に柳が魚野川に架かる橋でよく川面を見つめている様になった……まあ登下校時に必ず通る橋だから、そこに立ち寄るのは自然な流れだし、魚野川に愛着があるのもそれとなく知っている。

 しかし、楽しそうな雰囲気でもなし、かと言って太宰氏みたく入水する様な危うさも全くない。……あれは疑問の顔だ。柳との話が深く込み入って来ると、なかなか納得しないで……必ず見せるあの顔、表情。今まで何度となく見てきたけ……そして今日だって「海?」である。

 私も疑問だ。何故、その顔を魚野川で見せるのか……しかもそれはあの時から始まりずっと……延々と……367キロメートル(日?)すらも過ぎ去って……そう、今でも続いている……

 「今でも」…………!と、その言葉で、一瞬の内に霧が晴れる感じと共に、「今朝」の一連の流れがフラッシュバックした。


 今朝、あの橋の真ん中で車のドア越しに見かけた、ウチの学校の生徒?……ああ、あれはじゃあ……

 ……だとしたら、私は、あの疑問の顔、表情を総理解しない限り、次のページには進んではならない ……いや、進めない?

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