第36話 大脱走

 窓を叩く、雨の音しか聞こえない。



 静まりかえった室内の、リンジーの周りにだけは、幸せの萌芽があった。




 姿勢をくずし、椅子にもたれかかった。

 


 終わった。約束のお金をもらって帰ろう。そのお金でどこかに部屋を借りて、また演劇をしよう。



 大丈夫。私は、大丈夫だ。




 燃え尽きたような状態から、急に心臓を突きさす、痛みがやってきた。


 からだじゅうを細かく切り裂き、血みどろにするような痛みが襲う。




 ――まさか……まさか!!!!!



 

 もしかしたら、自分が選ばれるかもしれないって思っていたのか?



 首を何度も、ふった。




 この顔で? この生まれで? こんなに貧乏で?





 笑いがこみ上げてくる。




 たかが、演技を褒められただけで?




 キスを……されたから?






 もしかしたらの、もしかしたら。選ばれるかもしれないとどこかで思っていて、それを傷つかない為に、ずっと気づかないように蓋をしていたってことなの……。





 痛みの次にわき起こってきた、全身を駆けめぐるぞわぞわとしたものは、強烈なかゆみをもたらす虫刺されのようで、たまらなくなった。






 立ち上がり、殿下とリンジーにあたまを下げた。

「おめでとうございます。素晴らしい妃の誕生の席にご一緒できて、光栄です」


「ありがとう。これから終演パーティーがありますので、参加をお願いします」

 殿下は笑顔で言った。


「すみません! このまま帰ります!」

 目を合わせず、お辞儀カーテシーをして、裾を持ち上げ、全力で出口へむかった。



「帰るってどこへ? アニマ嬢! 待ってください。話はまだ終わっていない。止めてください!!!」

 殿下は従者に言った。


 従者が2人立ちふさがったが、私は逆に加速する。その両肩に手を置いて、それを軸に頭上を回転して、飛び越えた。


 リンジーの口笛が聞こえる。

「高度な訓練を受けた令嬢は、絶対に下着が見えない!」



「アニマ嬢は体操選手なみの身体能力です! 絶対とめてください!!!」



「もう私のことは放っておいてください!!!!」

 私が押すと、扉はあっさりと開いた。




 転がるように外に出ると。控えていた騎士の方々が立ちふさがった。

 10人はいた。



「アニマ様。お止まりください!」

 騎士の1人が言った。


「いまの私はだれにも止めることはできないでしょう。なぜならば、私が、この私が!!!! 止まることをよしとしませんので!!!!!」


 お辞儀カーテシーをした。騎士が一瞬、気を抜いたのがわかった。



 その瞬間、駆け抜ける。正面にいた騎士にまっすぐに向かっていく。

 そして、急に立ち止まる。


 右にフェイントをかけ、左からスライディングして抜ける。その後ろにいた騎士を相対する。フェイントにひっかかった騎士の背中を、三角飛びの要領で蹴って、勢いで飛び越えた。騎士を5人ほど抜いた。



「なんだあのすごい動きは? ドレスを着ている令嬢の動きじゃない! 東洋に伝わるニンジャか」

「コンラッド。気をつけろ。特別な訓練を受けているに違いない!」


「私のことは放っておいてください!!!!!!!!!!!!! 傷心の令嬢を殿方が寄ってたかってなんなのですか! デリカシーがありませんね!」


 コンラッドと呼ばれた騎士が両手を広げて、通せんぼしようとする。



 私は足のすき間からスライディングで突っ切っていく。


 騎士は恥ずかしそうに股間をおさえた。


「いや、私のほうが恥ずかしいですよ」

 私は背中越しに言った。


 壁際に追い詰められた私は、騎士の包囲を受ける。



「ちょっと待ってくださいね。いま、降ろしますから」

 騎士にまってもらうようなポーズをした。


 騎士がにじり寄ってくる。



 からだのなかに入ってくる感じがあった。ドラクロアにしてもらった美しいメイクを突きやぶり、顔の造形が、いびつに、険しく変わっていくのが筋肉の動きでわかった。



 騎士が一斉に、飛ぶように後ろに逃げた。



 うつむき、小さく笑った。その笑い声は徐々におおきくなった。

「お待たせしました。皆様、こんなにか弱い令嬢を、10人以上の騎士様で囲んで、いったいどうしようというのですか。許してくださったら、お茶会にご招待いたします。それでどうでしょう」



 一歩進むたびに騎士は後ろに下がった。


「愉快です。こんなにかよわい令嬢が怖いですか。私がもつのは武器ではなく、紅茶や茶菓子です。よかったらお食べになりませんか。美味しいですよ」

 

 走って逃げても、だれも追ってはこれなかった。




 王城の正面扉から、外に出る。


 土砂降りのなか、走り続けた。



 顔を殴るような雨に打たれ、雨なのか、涙なのかわからないものが、あふれだした。




 叫んだ! 何度も、何度も。




 雨の音が私の叫びをかき消しても、叫び、雄叫びをあげた。






 ――私は、こんなにも殿下のことが好きだったんだ!!!!!!!!!!






 こんなにも、こんなにも、心に殿下がいる。苦しい。こんなに息ができなくて、死にそうなのに。私は、生きている!!!





 涙を拭いても、雨が顔を叩く。




 その場で立ち尽くし、叫んだ。口に雨が入り、ドレスが雨で重さを増していく。





 その時、肩を叩かれた。



「アニマ嬢!!!!」



 殿下だった。ずぶ濡れだ。肩で息をし、にぎった私の肩に、力をこめた。


「待ってください……。まだバチェラーは……終わっていません」

「えっ? 終わっていない」

 声が裏返った。


 殿下の後ろから、ハーマイオニーとドラクロアが走ってきた。そのはるか後ろを、リンジーとヴィヴィアンがへろへろになって歩いてきている。


「バチェラーの真の目的を、どうか、聞いてください……」

 殿下は息があがった苦しい顔を、むりやり笑顔にした。

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