第29話 馬車での思い出
マシューの馬車は広かった。
マシューは私と対角線上の窓の方に行って、身を縮こませていた。そこに甘い匂いを漂わせた菓子が置いてあり、彼は頬張った。
「たべぇる?」
口を動かしながら、マシューが言った。
「結構です。演技の仕事に差し支えますので」
マシューと反対側の窓を見ていた。やがて、馬車が動き出す。
タウンゼントの屋敷がどんどんちいさくなっていく。
それに何も感じないことに驚いた。
離れた方がお互いのためなのかもしれない、とすら思った。
この感情の動きは何なのか、じっと考えていた。
マシューは飽きもせず、菓子を食べ続けていた。
――こんなこと、前にあったなぁ。
バチェラーの初日に殿下が馬車で迎えに来てくれたことを思い出す。同じように対角線上の端の方で外を見ていた。そういえば初めて乗った馬車はパーティションがあった。あれから殿下は徐々に私への恐怖を克服してくれていたように思う。目をそらさなくなったし、近くによっても汗をかかなくなった。
それはどうしてだ。
――歩みよろうと、してくれたからだ。
なぜ、最初にあった時に、悪役令嬢が嫌いだとか、私のことを愛することはないと言ったのか。
――私は令嬢の演技の比較対象として呼ばれたから、傷つけないためだった、とかなのかな。
私が選ばれることはないのは、すでにわかりきっている。それでも私の演技を信じてくださったり、家族の問題に怒ってくださったり、不思議な方だった。私がバチェラーのルールを破ってしまったし、二度とお会いすることは叶わない。
目を閉じると、殿下のことが浮かぶ。笑っている殿下。馬車に乗って、遠くを見ていた殿下。妹のことで本気で怒ってくださった。演技を褒めてくださった。洞窟で一夜を過ごした殿下のおおきな手のぬくもり。キスされるかもって思って、わたわたしながらも、結局しないんかい!!! 知ってたわ!!!! ってなんかもやもやしたり……。
「アニマァ。だいじょうぶぅ。どぉぉぉしたのぉ」
口をもぐもぐ動かしながら、マシューが興味なさそうにたずねた。
気がつくと、私は泣いていた。肩が痙攣し、胸が苦しい。嗚咽はとまらなくて、しゃくりあげてくるものをおさえることができなかった。
「さびしぃぃよねぇぇ。家族ぅと屋敷からぁ、離れるのぉ」
菓子が口から飛び散る。マシューの唇は菓子の油でテカテカとしていた。
涙を拭いても、拭いても、とめどなくあふれる。
「いえいえ。マシュー様からいただいたチャンスです……。ちゃんと、バーナード家で役立てるように頑張ります。これは、その涙です……。悲しいのではありません」
マシューにあたまを下げると、マシューは眉を寄せた。
「いい子だねぇ。アニマァは。頑張ってよねぇ。でも、喉はぁ、気をつけるんだよぉ。喉は大事ぃ。菓子、食べるぅ?」
「結構です」
――急に悲鳴が聞こえた!
手綱をにぎっている従者と、馬の悲痛をおびた
馬車に強烈な横揺れが走って、止まった。
そして、静寂がおとずれた。
「大丈夫ですか」
マシューにたずねた。
「のの、喉が、だ、大丈夫じゃない」
顔にぬるぬるのクリームがべったりとくっつき、喉に菓子が詰まったようだ。残っている紅茶を飲ませた。
「ぐ、ぐはぁ……僕の喉がぁ……」
「外を見てまいります!」
「お……おいていかないでぇ。ごふっっ……の、喉」
外に出ようとしたら、逆に扉が開け放たれた。
「ケガはありませんか。アニマ嬢!!!」
「どうして……」
真っ白のタキシードがこんなに似合う人はいない。
トパーズの瞳は、まっすぐに私を見つめていた。
そのお顔を見て、私は、また、泣いてしまう。
「殿下……どうして……ああ、殿下」
強く抱きしめると、殿下は私の背中をそっと、さすってくれた。
「ケガは、大丈夫ですか?」
「ええ……。ええ……。問題、ありません」
からだを離し、至近距離で私の泣き顔をのぞきこむので、髪で隠し、しまいには顔を腕で隠した。
「どこかケガを?」
「ケガはいいのですが。その……殿下が私の顔が怖いかと思いまして。あと、あまり女性の顔をお近くでのぞきこむのは趣味がよくないです」
顔を背けると、殿下も照れたように少し目をそらした。
「それで。なぜ泣いているのですか? あいつに酷いことをされましたか?」
殿下が顔の半分以上がお菓子になって、喉をおさえているマシューを冷徹な目でにらむ。
マシューは首をふるふる、と振りまわしている。
「あ、ああー。馬車が急に止まって、びっくりしてしまって。それに殿下もなぜ来たのか驚いて。それで、ちょっと出てしまいました」
涙をふいて、殿下に笑いかけた。
「わかりました。すみませんが、すこし待っていてください」
殿下は微笑むと、すぐにおぞましい形相に変化した。
「おい! マシュー! いまアニマ嬢は、俺との、バチェラー中なのだ。おまえは俺の妃候補を横からかっさらっう泥棒ってことでいいのか!!!!!」
殿下は怒声をあげ、マシューの菓子が飛び散った胸ぐらをつかんだ。
「ひぃぃぃぃぃぃ! すびばせぇぇぇんんんん! よく事情をじらなくてぇぇぇ。ごべんなさぁぁぁぁい」
菓子が喉につまってうまくしゃべれないマシューは、椅子から降りて土下座した。
「おまえごときが、アニマ嬢と一緒になろうなどとおこがましい。二度とアニマ嬢に近づくな!!! わかったか?」
馬車の窓に押しつけられ、マシューの菓子だらけの顔がさらに醜くなった。
「は、はひひ! わかりましたぁ。すびばせぇぇぇぇん!!!!!」
マシューは何度も、押しつけられた窓に額を打ちつけ、うなずいた。
殿下はそれを見て、マシューの胸を離した。
ほっとしたマシューの口にさらなる追撃が打ち込まれた。
「菓子が余っているぞ。もったいないから食え!」
殿下が喉に菓子を突っこんだ。
「ぐぶぶっっっ。の、のど、のどど……がほほっ」
マシューの顔が青くなってしまったので、しかたがなく、残っている紅茶を飲ませようとした。
「アニマ嬢。こいつに触れないでください。俺がやります」
そういって、紅茶をむりやり飲ませた。
「も、もももも、もう、喉を、いじめるのは、やめてください! 大切な器官なので! 喉を疎かにする者は!!!! 喉に泣くんだよ!!!!!」
マシューが馬車から逃げた。
息が荒れている殿下が落ち着くのを待って、言った。
「殿下、もう何度目でしょうね。あたまに?マークが灯っております。なぜ、来てくださったのですか」
「そうですね。まずは、この汚い馬車を出ましょう。あいつの吸った空気をアニマ嬢に吸わせたくはないので」
そういって、馬車の扉は開け放たれた。
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