鬼の王と笑わない勇者

第1話 旅の始まり

「おい、あんた、笑わないらしいな？」

目の前に立つ酒場の男が不機嫌そうにそう言った。ゼクスは彼を一瞥（いちべつ）したが、答えることなく手元の食事を続けた。彼の無表情な顔には何の感情も浮かんでいない。酒場は賑（にぎ）やかで、笑い声が響き渡っていたが、ゼクスはその騒々（そうぞう）しさに全く興味を示さなかった。

彼はここに来た目的を忘れたわけではない。ただ、旅の途中の腹ごしらえに過ぎなかった。彼の脳裏（のうり）には、故郷を襲った鬼の王ガイムの姿が焼き付いていた。

ゼクス「そうだ」

ゼクスは生まれてこの方、笑ったことがなかった。感情がないわけではない。ただ、笑うことがどんな感覚かを知らないのだ。それが彼にとっては特に不便でもなく、ただの事実だった。

鬼の王ガイムが村を襲撃した時、ゼクスは一人だけ生き残った。彼の両親も、友人も、すべてが炎と共に消え去った。あの日から彼は復讐のために旅をしていた。無表情のまま、淡々と。しかし、彼にはひとつの問題があった。

ガイムを倒すために必要な武器、笑いの剣。伝説によると、この剣は持ち主が笑うことで真の力を発揮する。しかし、ゼクスが笑えない限り、その力は封印されたままだった。

酒場の外で、冷たい風が吹き抜けた。ゼクスは静かに立ち上がり、酒場を後にした。彼の次の目的地は、伝説の火炎（かえん）魔法使い、フジ老人の住む村だった。フジ老人はこの世界で最も賢く、そして最も変わり者とされている人物だ。彼が何か知っているかもしれないと、ゼクスは賭けていた。

ゼクスがフジ老人の村にたどり着いた時、日はすでに落ちかけていた。村は小さく、静かな佇まいで、住人たちは彼に好奇の目を向けた。老人の家は村のはずれにあり、周囲には古い魔法の道具が散乱していた。

ドアを軽く叩くと、しばらくしてドアが軋（きし）む音と共に開いた。中から現れたのは、白髪で小柄な男、フジ老人だった。彼はゼクスを見て、にやりと笑った。

フジ老人「ほう、久しぶりの客だ。冷たい風が骨に染みる。早く入ってくれ。」

ゼクスは無言で家の中に入る。フジ老人の家は雑然としていたが、不思議な温かさが漂っていた。老人は椅子に腰を下ろし、ゼクスに目を細めた。

フジ老人「お前、なかなか面白い顔してるな。何があっても笑わないって顔だ。」

ゼクスは黙っていたが、フジ老人はそれを楽しむかのように続けた。

フジ老人「お前さん、笑いの剣を手にしたのだろう？　だが、それを扱うには、お前さん自身が笑わなければならん。笑うことはできたか？」

ゼクス「…笑うことができない。」

ゼクスは静かに答えた。それは彼の長年の悩みであり、フジ老人もそれを察したようだった。老人は少し考え込み、やがて言葉を続けた。

フジ老人「笑いというのは、感情の一種だ。だが、感情は時に自分でも制御できない。何が笑えるかなんて、人それぞれだ。だからこそ、剣の力を引き出すためには、まずお前が自分を知ることが必要だ。笑わない理由を、深く掘り下げてみな。」

ゼクスはその言葉に耳を傾けたが、まだ自分の中で何かが動いた感覚はなかった。しかし、フジ老人が真剣に語る言葉には何かしらの重みがあった。

フジ老人「まずは旅を続けることだ。笑いの意味を見つけるためには、いろいろな経験が必要だろう。そうだな…もしよければ、この村で数日過ごしてみるといい。お前のような冷たい顔をしている奴にも、何か得るものがあるかもしれん。」

ゼクスは少し考えた後、村に滞在することに決めた。彼にとっては、今すぐにでもガイムを倒したい衝動があったが、フジ老人の言葉には妙に説得力があった。彼は旅を続ける中で、少しでも自分を知る手がかりを得たいと感じ始めていた。

その夜、ゼクスはフジ老人の家で休んでいた。彼の脳裏には、これまでの旅の記憶が断片的に浮かび上がっていた。だが、どれも感情を動かすようなものではなかった。彼にとって世界は冷たい場所であり、感情を抱（いだ）く理由も見つけられなかったのだ。

翌朝、ゼクスが目を覚ますと、フジ老人が彼を呼んでいた。

フジ老人「ちょうどよかった、紹介したい奴がいる。」

外に出ると、若い女性が立っていた。彼女は背が高く、鋭い目を持ち、旅装束（たびじょうぞく）を身にまとっていた。

フジ老人「こいつはラクス。この村で一番の冒険者だ。」

ゼクスはラクスを見つめた。彼女もまた、無言で彼を見返していた。やがてラクスが口を開く。

ラクス「あなた、笑わないんでしょ？　それって結構面倒くさいんじゃないの？」

ゼクスは答えずに頷いた。彼女の挑発的な態度にも、彼の表情は変わらなかったが、ラクスはそれを気にも留めず続けた。

ラクス「そうね、あなた腕は立つそうじゃない。ちょうど前衛（ぜんえい）が欲しかったし、一緒に来なさいよ。私はこの村にもう用はないし、あなたがどうやって笑うのか興味あるわ。」

こうして、ゼクスとラクスの旅が始まった。二人はフジ老人に見送られ、村を出発した。ゼクスはまだ、自分が笑う理由を見つけていなかったが、彼の旅は新たな仲間と共に進んでいくことになった。

だが、彼らの前には恐るべき敵、鬼の王ガイムが立ちはだかっていた。