ポットダイバー ヒキコモリ情報審判調査官の没入世界事件簿

米田淳一

第1話 名もなき墓標(1)

 十分遠い未来はほとんどの人には異世界と区別がつかないばかりか、読み手は想像力を厳しく試されるために話として広く支持されることは絶望的である。だがそれは話として描けない理由にはならない。

 2145年、意識のサーバ保存と感覚の通信共有が可能になって、物理的な距離に意味がなくなったけれど、それでもまだ人を隔てる境界がある、と言うよりさらに厳しく壁が増えてしまった未来。



「今時支給品の端末でこのメモリ容量はナイですよね」

 桐生(きりゅう)調査官は思わず口にした。端末、大昔で言えばパソコンやワークステーションと呼ばれていたであろうキューブ状の機械の輝きが鮮やかに明滅している。搭載された光学冷却半導体がアンチストークス発光で必死に急上昇した処理負荷の発熱を処理している。その様子は大昔のゲーミングPCのような派手な輝きである。メモリ容量不足で処理中枢が処理のために頻繁にデータを移し替えるはめになっていて苦しいのだ。そのリソースの逼迫状況がモニタパネルに表示されている。

「仕方ないわね。ここの予算もまだ十分ではないし」

 そういうのは七五三掛綾乃(しめかけ あやの)判事。線の細い読書が似合いそうな強い知性を感じさせる彼女はこの横浜初等情報審判院の主席判事である。とはいってもこの審判院の判事は綾乃のほかにはいない。本来なら判事補が1名いるのだが欠員だし、その下で情報犯罪審判の調査をする調査官もこの桐生颯太(きりゅう そうた)だけである。正直欠員だらけなのだ。

 少数精鋭だといいのだが、実際はそれに程遠いのはこの判事室で仕事をしている綾乃と桐生も深く自覚するところである。綾野に至っては仙台地方裁判所判事からの降格でここに来ているし、桐生は登校拒否の引きこもり状態から病の自助グループで知り合った先輩のつてで中途採用でここの調査官になっているのだから、キャリア的にはふたりとも普通に見れば??となってしまうのは否めない。

 そしてふたりともコーヒーに手を付けているが、ここは情報没入世界で実体は存在しない。二人は高精度のアバターでしかないし、飲むコーヒーも高精度の3Dオブジェクトでしかなく、飲む感覚はこの判事室のスペースを維持しているサーバの中で味覚処理が行われているだけである。

 二人の実体はこの世界のどこかのボディーセンター(BC)という要塞並みの防護が施された肉体保存施設に保護されていて、遅延を極限まで抑え込んだ通信で感覚だけが一緒に行動しているのだ。この審判院も横浜にあることになっているがそれは役所の管理上の話で、どこにあっても全く代わりに困らない。


 一見便利で進んでいる時代のようだが、そのかわりに肉体を物理的に移動させる『旅行』が本当に贅沢なものになってしまった。肉体の移動はボディーセンターから肉体を出すことになり危険なので義体を借りることになるのだがレンタル料が高い。それなら感覚だけ通信で送って義体で感じるのを諦めてアバターへの論理的な感覚で擬似的に旅行をしたほうがコストも安全性も高いという時代である。これなら感染症にかかることもないし、物理的な事故があっても壊れるのは義体か壊れないアバターなので安全性は高い。そういう触れ込みなのだが、実際にはボディーセンター事故やボディーセンターを狙ったテロで失われる命もなくはない。どっちにしろ命が脆弱なのはどんなに技術が進んでも変わりはしない。そして命が有限なのもかわらない。肉体は保護されほぼ完全なメンテをおこなわれるとしても、命は劣化して最後には崩壊してしまう。なぜそうなのかはこの22世紀でも完全な答えはまだ出ていない。だが命が絶対的なものではなく種を残すための乗り物だとする遺伝子理論からいえば、種の新陳代謝のためには死というプロセスは必要だし、また生命科学的にも死は進化の中で獲得されたものだと考えられている。


「予算も人も知恵も足りない。でも足りないから私達がいる意味があるってものよ。そう考えるしかないわ」

 綾乃はそう微笑む。彼女は非常に聡明なのだが片付けが苦手ときていて、この論理世界ですら書類や物理アイテムのアイコンを散らかしている。論理世界なのだからソート、並べ替え機能を使って一瞬で整理できるはずなのだが、それが追いつかないんほど綾乃は片付けが苦手だ。だから調査官の桐生が代わってこうして端末を使って整理している。でなければただでさえ多い仕事がさらに滞ってしまう。

「有能な人は片付けが得意、ってのはただの幻想なんですね」

 桐生がため息を吐く。

「え、有能な人って誰? もう一度言って」

 綾乃が冗談めかして聞く。

「嫌でございます」

 桐生もそう冗談めかして答えた。でも綾乃が司法修習生時代にいくつもの伝説を作った人物だという噂は桐生も聞いている。

「整理作業中ですが過去判事の起草した文章に21334個所のミスを発見しました。訂正の許可をお願いします」

 そう割って入ったのはシリウス。武装少女のイメージアイコンで表示される高度生成AIアシスタントである。この仕事には絶対に必要なのがこの種のAIアシスタントだ。疲れてパフォーマンスを低下させることのないAIは人間の生産性を大きく向上させたが、多くの人の仕事を奪った存在でもある。

「それ、後回しにできないかな。なんか今日、やる気しないのよね」

 綾乃が露骨に嫌がる。

「後回しグセは良い結果を生みません。それに昨日も、一昨日も判事はそうおっしゃっていました」

 シリウスは抵抗する。

「そう断定したものでもないと思うけど。断定はいいものではないわ」

 綾乃もため息を吐く。こんな論理世界の22世紀の横浜だが、港から吹く春の風もカモメの声も自然で、本当に実在するように感じられる。だが全てはバーチャルな、実在しない作り込まれたものだ。そしてその作り込んだ世界を作った人々の存在を誰も意識していない。


 そのときこの部屋の来客の呼び出しサインが鳴った。

「はい、どうぞ」

 入ってきたのは女性の刑事だ。といっても愛想の良い中年女性の姿である。アバター姿を自由に変更できるこの世界でこの姿になっているのはなにか理由があるのだろうか、と桐生は思った。

 ちなみに桐生のアバターはゲームの男主人公キャラだが、実際の姿とはかけ離れている。でもその姿はボディセンターにあって実際に見られる心配はない。物理世界に出るとしてもその時は義体を借りるだけだ。


「神奈川県警港署強行犯係の山本です。ちょっとお願いしたい案件がありまして」

 綾乃がうなずき、桐生が判事室の応接コーナーに案内し、シリウスがコーヒーをカップごと空中から生成して給仕する。

「この今報道されている漫画家の自殺事件がちょっと面倒なことになってしまって」

 刑事が見せた書類パネルに、綾乃は首を傾げた。

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