『夫が最近おかしい』から書き出された、とある専業主婦の日記
ぴのこ
『夫が最近おかしい』から書き出された、とある専業主婦の日記
2024年8月13日(火)
夫が最近おかしい。とある人物の話ばかりするのだ。その人は、夫の職場に今月から中途で入社してきた50歳の男性なのだけど、夫の語り口はすこし異常だ。なんというか、熱が入りすぎている。
あの人はすごい。あの人は本当に仕事ができるんだ。あの人ほど完璧な人は見たことが無い。あの人に会えて、俺は幸せな人間だ。
口を開けば、こんな話ばかり。正直うんざりしてきたところだけど、それだけ夫がその人のことを尊敬しているってことだろう。夫は26歳だから、その人は夫よりふた回りも年上ということになる。転職前も同じ業界だったのだろうか。それほどのベテランならとても仕事ができるだろうし、夫が尊敬するのもまあわかる。今は大人しく、話を聞いてあげよう。
あれほど自己肯定感の強い夫が、「あの人に比べれば俺はゴミだ」なんて言っていたのは、なんだか心配になったけれど。
2024年8月15日(木)
昨日も今日も、仕事から帰ってきた夫は例の人の話ばかり。私が話をしようとしても、それを遮って例の人の話をする。さっきはつい苛立ってしまって、夫の話を遮ったら、夫は顔を真っ赤にして怒り出した。
意味がわからない。怖い。
2024年8月16日(金)
アイツ。そう、アイツでいい。名前もこの手で書きたくない。気味が悪い。アイツのことは、夫から毎日聞いているはずなのに、どうも実態が掴めない。
50歳の男性であること。顔が整っていること。声がとても良いこと。機械的な仕事ぶりで、とても優秀なこと。中途入社したばかりなのに即戦力になっていて、他の社員みんなに尊敬されていること。そこまではいい。
だが、そんな人間に、50歳の男性に「女子高生のような可憐さや、妙齢の女性の妖艶さを併せ持っている」なんて印象を抱くだろうか?
もうここまで来ると、実際にアイツの姿を見たい気持ちにもなってきた。どんな奴だっていうんだ。
2024年8月18日(日)
土日は、友達と遊びに行くと嘘をついてどちらも外出していた。どうせ家にいても、夫の話はアイツのことばかりだと思うと、夫とは距離を置きたかった。
昨日の夜、23時くらいに家に帰ると、夫の姿はリビングにも寝室にも無くて、夫の部屋に明かりがついていた。その時点でもおかしいと思ったのだけど、その夜は疲れていたから、シャワーも浴びずメイクも落とさずに寝てしまった。
今朝も夫とは会わなかった。夫は朝も部屋に閉じこもっていて、鍵がかかっていたから様子を伺うことはできなかった。まさか倒れてるんじゃと心配になって、扉をノックしながら「大丈夫?」と聞いたら「大丈夫」と返ってきた。返事があったので少し安心したけど、今日も家にいたいとは思えなかったから支度して外出した。
帰宅したのは21時半くらい。私が家に帰ると、夫は寝る準備を済ませて寝室に向かうところだった。随分とクマが酷かった。夫はおやすみ、とだけ軽く挨拶して寝室に行ってしまった。私が土日、どこで何をしていたのかなんて全然興味が無い様子だった。
こっそり、夫の部屋に入った。悲鳴をあげそうになった。
夫の部屋には、アイツと思われる男の絵が壁一面に飾られていた。精細なタッチで、何枚も。短く切り揃えられた黒い髪に、切れ長の眉。鼻筋はよく整っていて、人懐こそうな大きな目と爽やかな笑みは、思わず親近感を抱かせる。そんな絵だった。私も絵を描く人間だけれど、あんな風には描けない。あんな、執念に満ちたような絵は。
机の上を見ると、原稿用紙も何枚か置かれていた。その内容を読んでしまったけど、正直読むんじゃなかったと思っている。それは小説だった。アイツが主人公で、アイツの活躍をこれでもかと描いた小説。アイツがいかに素晴らしい人間かと、アイツのことを賛美するために書かれたような小説。
もう意味がわからない。夫はどうなってしまったのだろうか。考えるのも疲れた。寝る。
2024年8月19日(月)
私が起きた時には、夫はもう出勤していた。私はといえば、一晩寝たら元気が湧いてきて、腹が立ってきた。なんでうちの夫があんな奴に滅茶苦茶にされなきゃいけないんだ。夫は、明らかにアイツに洗脳されている。会社で何を吹き込まれてるのか知らないけど、一言文句を言ってやらなきゃ気が済まない。これから夫の会社に行く。
なんなの。あれ。
会社、そこらじゅうにあの人の写真が貼ってあった。エレベーターに乗って、夫の会社が入ってるフロアに着いて、エレベーターの扉が開いた瞬間にあの人の写真がデカデカと。心臓が飛び出そうになった。
オフィスもそう。あの人の写真だらけ。もう本当何。意味わかんない。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
夫の姿は、ガラス張りになってるオフィスの外から見えたけど、なんかヨダレ垂らしながらパソコン打ってた。もうやだ。
でも、よかったな。
帰ろうとして、エレベーターに乗った後で、「なにかご用ですか」って一瞬聞こえたけれど。
あの声は、ほんとうに素敵だったな。
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