夏雪かずらのアーチ
nishima-t
第1話
福井県嶺北地方海岸沿いにある三国サンセットビーチからわずかに東側、小高い山の中腹に八重園花梨の義父、八重園初男の霊を供養する寺がある。緑の風が熱さにうだる七月の休日に合わせて、義父の一周忌が慎ましく行われた。
身内と親戚数人程度が八重園家に集まって法要を済ませ、レンタルしたマイクロバスに乗ってその寺まで向かう。義父の墓参りをして、そのあとでごく簡単な食事会をする予定であった。
「お父さん、先にバスへみなさん連れていってあげて。バケツと柄杓、戻してくるわ」
「おう、わかった」
水汲み場に向かう花梨に頷いて、夫の浩司は慎二とともにバスへ戻っていった。
花梨は石畳の階段を降り、所定の場所にバケツを戻す。花梨のほかに人影はなかった。まだら模様に陽を落とす木々の向こう側には、境目のない空と海の青い景色が見えていた。潮の匂いがかすかに風に混じる。肌にこびり付くような潮風が夏の喧騒を運んでいた。太陽の恵みを喜ぶ小鳥たちの歌と木々の葉擦れの音が心地よく、花梨は空気を肺いっぱいに吸い込んで、疲労でくたびれた身体をしばしの間癒した。
途端に去年の景色が色鮮やかに脳裏によみがえる。義父を失った悲しみと脱力感は、この一年の間に随分と薄れていった。何事もなく平穏無事で生きられることの、なんとありがたいことか。しかしそのありがたみも、ここ最近は日常の一部と化してしまい失われつつある。手のひらに掬い取られているはずの当たり前の幸せというものは、掴んでいる感触をいつまでも実感し続けるというのがなかなかに難しい。
心に沁みるような静寂もかすかな海の匂いも、義父が生きていたころと何も変わらない。それは大人たちもそうだ。喪失感と悲しみが胸にあるかないのか、ただそれだけの違いだった。
変わったのは慎二だ。我が子の身長、身体つき、そして大人びた表情。子どもの成長というのは、なんと素晴らしく神秘に満ちたものか。祖父の死を虚ろに見つめていた息子の瞳には、一年という月日を得て、再び幾多もの希望の光が瞬きだしていた。あまりにも眩いその光は、まるで夜空に浮かぶ星のような煌めきを放ち、灯台となって慎二の未来への船出を照らしているようでもあった。
そして先ほど聞かされた慎二の一言が、花梨の心をざわりと乱す。まさか息子の口から、あんな言葉が出ようとは。
「お母さん、お願いがあるんやけど。進路希望先は京都の大学にしたいんや。R大学にな、競技かるたの成績優秀者で行ける推薦枠があるらしいんやって」
義父の墓前で突然もたらされた息子の嘆願に、二人の親は共に虚を突かれて一瞬声を失った。慎二は話を続けた。京都のR大学には文化・芸術方面に優れたものを対象とした特別選抜入学試験がある。全国規模の大会で入賞したり活動実績を収めたりしたものには特別枠の推薦資格があると。慎二は高校二年生で競技かるた全国高等学校選手権大会において個人戦優勝を果たしているため、その資格を有しているということであった。
「学部は産業社会学部にする。キャンパスの近くにかるたの練習場があるさけえ、それも便利や」
花梨はやや憤慨を持って慎二を見た。
「あんた、かるたのために大学を選んどるんか。それならやめとき」
「ほういうわけではないって」と、慎二は慌てて首を振る。「大学で学ぶのはあくまでも学問や。大学で何を学ぶのか、ちゃんと考えとるさけえ」
「推薦は他の大会で優勝した子も来るやろう」
「大丈夫、次の個人戦でも優勝するつもりやし。二回も優勝すれば文句もないやろ」と、慎二は事も無げにさらりと言う。
「……で、なんや、その推薦は他にはないんか。福井大学にはないんか」
「ないと思う。かるたの推薦は、他には東京のW大学、K大学あたりかな。福大の推薦枠はいくつかあるとは思うけれども、かるたで推薦ができるなんて聞いたことがない」
「ほうなんけ。金沢は?」と、代わりに浩司が訊く。
「それもない」
「ほうけえ……福井なら、ありそうなんやけどのお」
「福井は足羽会が強いさけえ、かるたをする人はみんなそっちへ行ってしまうんや。大学にもかるたサークルはあるけれども、そんなに規模の大きなもんではない。ほやからかるた推薦がないんやと思う」
なるほどのお、と二人の親は同時に頷いた。
「東京でもいいんやけどお、交通費のことを考えると東京よりも京都の方がいいかなって。R大学は大学の選手権大会でも入賞するくらいの実力やからの。強い人がいっぱいおるみたいやしなあ、楽しみやなあ……」
ジジ、という蝉の声で我に返った。慎二はもうすでに受験に合格した気分でいる。気楽なもんだ。鼻を膨らまして陽気に喋る慎二の表情を思い出して、花梨は思わずため息をついた。
地元がダメだというのなら、せめて金沢の方がいい。京都、大阪方面へは敦賀で乗り換えが必要だが、金沢なら電車一本で行けるから随分と助かる。兎にも角にも京都となると、親にもそれなりの覚悟が必要だ。いの一番に頭に浮かぶものは、何といっても……
「やっぱり、お金やねえ……」
シビアな問題が鉛のように体に重くのしかかり、花梨は再び、大きくため息をついてうなだれるのであった。
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