五章⑤
家が見えた。あれは、まだ父が生きていた頃に家族三人で住んでいた家だ。
白い屋根が可愛らしい、二階建ての中古の家。薄っすらと覚えている。あの家の庭には、桃の木が植えられていた。まだ細くてか弱い、小さな木が。
父が生前よく言っていた。夜花が生まれたときに、一緒に大きく成長するように桃の苗木を植えたのだと。
『桃、いつ食べられるの?』
幼い夜花がそう訊いたとき、父は朗らかに笑った。
『夜花がもっと大きくなって、お姉さんになる頃だな』
くしゃくしゃと頭を撫でてくれた父の大きな手は、とても優しかった。
その庭で、夏には手持ち花火で遊んだし、冬には雪遊びをした。
家の中にも思い出が詰まっていた。ひどく叱られたときに夜花がよく隠れた押し入れ。父が頭をぶつけたリビングの扉。母が洗濯物を干していた二階のベランダ。数えだしたらきりがないくらいに。
『お父さん、帰ってこないの?』
ある日、出張のために車で隣県に向かっていた父は峠道で単独事故を起こし、死んだ。呆然とする母の、紙みたいに真っ白な顔は忘れられない。
『今日からね、ここがお母さんと夜花のおうちよ』
『……うん』
あの三人の家にはもう住めないのか、とは幼心にも訊けなくて、うなずくしかなかった。
新しく住み始めたアパートは少し古く、狭くて。あの広い家と、優しくて大きな手を失ったことを否が応でも思い知らされる日々だった。
小学校からの帰り道、あの家に寄り道をしたことがある。
かつて、夜花が家族三人で住んでいた家には、知らない家族が住んでいた。
庭の花に水をやる母親と、その母親に元気よく「ただいま!」と告げる、夜花よりいくつか年上の子ども。母親が「今日の夕ご飯は、パパのリクエストでカレーだよ」と言い、子どもが「やったあ」と答えて笑い合う。
庭にはもう、桃の木はなかった。
その後、どうやってアパートに帰ったか、よく覚えていない。ただあの日、心のどこかでなにかが壊れた気がした。
中学三年生のとき、母が死んだ。病気だった。
夜花を養うため、働き続けた母は、健康診断を先延ばしにしていたらしい。病気を発見したときにはすでに手遅れで、入院してから動けなくなるまであっという間だった。
ひとりのアパートは、それまで以上に空虚で。
母が入院したとき、母の死を予感して、ここも自分の家でなくなるかもしれないと思ったら、七年ほど住んできたアパートも急に他人の家のようによそよそしく感じられた。
夜花が出て行ったら、この部屋もまた、違う人が住む。
ここも、夜花の居場所ではない。夜花の帰りを待ち続けてくれる場所ではないのだ。
亡くなった母の遺品をすべて片付け、自分の荷物もまとめ終わったアパートの一室は、本当に、ただの他人の家でしかなかった。
祖母の家に移り住んでからは、荷解きもせず、できるかぎり家に自分の痕跡を残さないように暮らした。どうせ、ここも夜花の帰る場所にはなりえない。これまでの経験に加え、祖母の態度を見ていれば、その気持ちはますます強くなった。
仏壇の前に座ってばかりいる鶴の目には、先に逝ってしまった家族しか映っていない。
祖母の家も所詮は一時、間借りして世話になるだけの、雨風をしのぐ寝床。そこを自分の住みよいように整えるのももはや億劫だった。どうせ数年で出ていくのだから。
(私って、結局……なんなんだろう)
走馬灯のごとく流れゆく、断片的な己の記憶を眺めていた夜花は、ぼんやり思う。
家と家族を失い続けた夜花には、土台や根底というものがない。足元はいつも不安定に揺らぎ、なにかのきっかけで崩れそうだ。愛着、執着……なにもない。
――もう、いいのではないだろうか。
金銭を稼ぐと、少しは安心できた。学業を頑張れば、将来はどこかに自分の居場所を見つけられる気がした。まれびとだと言われて、なにかが変わると思った。早く自立すれば、自分の足で、自分の稼ぎで生きていけるようになれば、この不安定な土台も確固たるものになると信じた。
でも、そんなことをああだこうだ考え、苦しい思いをして頑張るより、あの鳥居の――門の向こうにいけば、手っ取り早く楽になれる。楽に、なりたい。
鳥居から漏れ出る光に手を伸ばす。もう少しで、届く。
本能が急かすままに、夜花は魂ひとつで門の向こうの異境へと真っ直ぐに流れていく。
――ああ、やっと楽になれる。
神秘の世界だという異境は、きっと美しく、暖かな楽園に違いない。亡くなった人々の強い怨念すら、あの門から放たれる光で浄化されていくのだから。
瞼を下ろし、流れに身を委ねる。けれど、その瞬間、声が聞こえた。
「夜花! まだだ。あんたがそっちに行くのは、まだ早い!」
それと同時に、魂か身体か、ぐん、と後ろに強く引っ張られる感じがして、一気に門が遠ざかり、見えなくなった。
閉じていた瞼を押し上げ、夜花は目を瞬かせる。
「あれ……私、どうして」
身体がひどく重い。身軽だった魂だけのときと比べ、ずっしりとした肉体の重みを意識してしまう。
しばし呆然として、ゆっくりと正気に戻ると、怒りを滲ませた千歳が目に入った。
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