三章④
七月六日、土曜日。
この日、夜花は午前十一時からアルバイトの予定が入っていたため、アルバイト先である駅前のカフェへ向かった。
ちなみに土曜日ということもあり、社城家では昨日の顔合わせに来られなかった序列者たちが、晴に会うためにひっきりなしに屋敷を訪れていた。
夜花は社城家の自転車を借り、その隙をこそこそと抜けてきたというわけである。
壱号は器用に夜花の頭の上で昼寝中だ。
「おはようございます」
「あ、おはよう」
「おはようございまーす」
店の裏口から中へ入る。更衣室では、夜花と同じく十一時から勤務の同僚が二人、すでに着替えていた。
二人は地元の女子大学生で、たまにこうしてシフトが一緒になる。
「ねえ、あの話。聞いた?」
話しかけられた夜花は着替えつつ、顔を上げた。
「あの話……ですか?」
「知らない? この間、今井くん、当日に急に欠勤したって」
今井とは、彼女たちと同じ地元の大学に通い、このカフェでも働いている男性だ。夜花も何度か同じ時間に勤務したことがある。
「当日欠勤ですか。具合が悪かったとか?」
「さあ。入りの時間ギリギリに、店長に『休みます』ってメッセージだけ送ってきたらしいわ。そのあと店長が電話をかけたら、話している内容が支離滅裂で会話にならなかったって。それでここ数日ちょっと話題なの」
「へえ……」
確かにそれはなんとも奇妙で気になる話だ。
「坂木さんも、欠勤するときは気をつけてね」
「はい」
夜花も、今日きちんと店長にアルバイトを辞す旨を伝えなければならない。その今井の欠勤の件で温厚な店長がナーバスになっていなければいいが、とやや心配になった。
土曜日ということもあり、昼近くになると店内はあっという間に客で満席となった。
夜花の仕事内容は主に給仕に会計、店内の美化で、客の出入りが激しくなると目が回るほど忙しい。
ひと息つく暇もなく働き、ようやく客がはけてきたのは、十四時近くになってから。そこから十六時まで、ゆるゆると仕事をこなして退勤する。
「お疲れさまでしたー」
タイムカードを押したあと、店長にアルバイトを辞めることを伝えてから挨拶をし、店を出る。
すると、ちょうどそこに、一台の国産車が走ってきて停車した。
「お嬢さん、乗ってかない?」
パワーウィンドウから顔を出したのは、圧倒的な美青年だ。艶やかな黒の長髪を緩く三つ編みにし、上は白いサマーニット、下は細身のジーンズで出で立ちも爽やか。妖しげな雰囲気を醸し出し、さながら人を惑わし籠絡する怪異のごとく。
夜花は助手席に乗り込んだ。
「……迎えに来てくれて、ありがとう。千歳くん」
「どういたしまして」
「ところで、ひとつだけ言わせて」
「なに?」
「『お嬢さん、乗ってかない?』はちょっと。おじさんっぽくて、やだ」
せっかく外見は若くて美しい青年だというのに、言動が残念な千歳なのだった。
二人はそのまま車で隣市のショッピングモールまでやってきた。
ここでひとまず夜花の生活に必要なものや、今晩の夕食の食材を仕入れるのが目的である。
土曜のショッピングモールは夕方でもかなり混んでいた。歩きにくい、というほどではないが、ざわざわとした喧騒に満ちている。
問題は、家族連れにカップル、学生――行き交う誰もが、一度は千歳に視線を向けること。
芸能人かと思うほど、大人の千歳はどこへ行っても注目を浴び、いたたまれないといったらない。
皆が千歳に夢中で、隣の夜花にはあまり注意が向かないのは不幸中の幸いか。
「千歳くん、車の運転できるんだね。どうやって免許とったの?」
夜花は雑貨売り場で日用雑貨を物色しながら、問う。
いくら社城家に権力があろうと、中学生の姿の者に運転免許を与えることはできまい。法の曲げ方がダイナミックすぎる。
買い物かごを持った千歳はその問いに、「ああ」となんでもないふうに答えた。
「昔、海外で飛び級して大学まで卒業したんだけど」
「は?」
「そのときに、今日みたいな新月の日を狙って運転免許の試験を受けた。国によってはわりと楽に免許とれるんだよな。こっちみたいに何度も教習に通う必要もないし」
「はい??」
思わずぎょっとして、夜花は後ろの千歳を振り返った。
耳がおかしくなったのかもしれない。彼は今、さらっととんでもない発言をしなかったか。そもそも突飛な情報が多くてすぐに処理できない。
しかし、当の千歳は飄々とした面持ちでセール品のカートをのぞいている。
「待って、ちょっと待って」
「あ、ちなみにパスポートは二種類持ってる。大人のと、子どものと。まあどっちも裏ルートで用意したやつだけど。実は俺、あんまり社城の屋敷にはいなくていろんなところを旅してる期間が長いから、なにかと必要でさ」
「……うん、わかった、もういい。ごめんね」
自分は訊いてはいけないことを訊いてしまったようだ。夜花は深く反省した。まだ世の常識の中で生きる一般人でいたい。
日用雑貨コーナーでの買い物を済ませ、夜花たちは次に食品コーナーを訪れる。
「夕飯、どうする?」
夜花が訊ねると、千歳は腕を組み、少し考える素振りを見せる。
千歳の家のキッチンは綺麗なものだった。千歳は料理全般がからっきし、松吉もサンドイッチとカレーしか作れないというのは本当のようで、これまでは出前をとったり、出来合いのものを買ってきたりしていたらしい。
「正直、出来たてのものならなんでもうれしい」
困ったように千歳が笑う。夜花は「うーん」と野菜売り場に視線をやった。
「出来たてね……でも、私もたいしたものは作れないよ」
「もちろん。手の込んだものは作らなくていいし、毎日料理する必要もない。冷凍食品や出来合いの惣菜だって、最近はかなり充実してるから」
千歳の言うとおり、夜花もそういったものにかなり世話になっていた。
スーパーやコンビニの弁当だと栄養が偏るが、おかずだけ買って家で米を炊き、味噌汁でも作れば、立派に一食になる。ただ、三人前となると買うより作ったほうが、コストパフォーマンスはいいだろうけれど。
「わかった。でも今晩はちゃんと作るよ。夏だから、夏野菜を使ったお料理がいいよね。調味料はどのくらいある?」
「どうだろう。塩胡椒とマヨネーズとケチャップくらいしかない気がする」
「じゃ、他に必要な調味料も揃えないと」
そうやって次々に商品を買い物かごに入れていくと、かなりの量になった。レジを通し、袋詰めし終われば、二つ持ってきていたエコバッグはすっかりパンパンだ。
その重たい荷物を、千歳は軽々と持ち上げる。
「大丈夫? 重くない? 私もひとつくらい持てるよ」
「いいよ。夜花には帰ったら料理してもらわないといけないからな」
夜花たちが駐車場に出る頃には、稜線の向こうに日が沈みかけていた。オレンジ色の西日が駐車場に並ぶ車の車体に反射して、まぶしい。
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