三章③

   ◇◆◇


 明け方、夜花は目を覚ました。

 あたりはまだ暗いけれど、薄っすら窓の外が明るくなってきている。枕元のスマホを見ると、まだ午前四時すぎだった。

 慣れない部屋の、慣れないベッドではまだ深く眠れない。枕が変わって眠れなくなる性分ではないが、どこかまだ気持ちが高ぶっているのだろう。

 ゆっくりと起き上がると、その衣擦れの音に窓辺の壱号が半分、瞼を上げる。が、特に異変がないとわかると、また瞼を閉じた。


 昨晩の就寝前、夜花の頭の中では祖母との会話が、幾度も再生されていた。

 祖母の家を出たことを、後悔はしていない。ただ、どうしても引っかかるのは「今の夜花の行動を、亡くなった母が見ていたらどう思うか」と考えてしまうからだ。

 祖母に不義理をしているのではないか。もっと上手く関係を築けたのではないか。もっと話し合ったほうがよかったのではないか。

 そんなことばかり、ぐるぐると脳内を回っている。


(……眠れない)

 これもまた、眠りが浅い一因だろう。夜花はそっとベッドを抜け出し、部屋を出た。

 夜花の部屋は二階で、二階には二間ある。もう片方の部屋は千歳の部屋だ。まだ夜も明けきらない時刻、千歳の部屋も階下も静まり返っている。

 忍び足で、階段を下りていく。すると、リビングからかすかな物音を聞いた気がした。

(誰か、起きてるのかな)

 リビングの出入り口から、ぼんやりとした光が漏れている。照明の煌々とした光ではなく、夜明け近い外の薄明かりだ。カーテンが開いているのだろうか。

 不思議に思って光源のほうをのぞいた夜花は、その瞬間、息を呑んだ。


 リビングで一番日当たりのいい掃き出し窓。その近くに、見慣れない細長いシルエットの人影が音もなく佇んでいた。

(誰……?)

 人影は着流し姿で、背が高い。細身だが肩幅があるので、たぶん大人の男性だ。

 長い黒髪は艶やかで、光を白く反射していた。

 恐怖は感じない。それどころか、じっと見入ってしまう。夜光と曙光の混じり合う淡い光に照らされたその姿はあまりに神秘的で、美しかった。

 人影が、ゆっくりとした動作で背後の夜花を振り返る。その拍子に、鳥居のモチーフの耳飾りが揺れた。


「夜花。早いね」

 低く響く声に聞き覚えはない。けれど、そのしゃべり方や夜花を見つめる瞳には覚えがあった。

「……ち、とせ、くん……?」

 いや、そんなはずはない。千歳は中学生だ。目の前の男性はおそらく二十代前半から半ば。一夜にして人が十年分も成長するなんて、そんなことが起こるわけがない。

 だが、夜花は根拠もなく半ば確信を抱いて、思わずその名を呼んでいた。

 青年が目を丸くする。


「すごいな、まさか初見で見破られるとは。なんでわかった?」

 彼の仕草はいちいち千歳と同じだった。たとえ兄弟だって、ここまでは似ないはず。

 ただ、なぜわかったかと訊かれても上手く答えられない。荒唐無稽な出来事をすんなり呑みこめた理由が、夜花自身にもよくわからないからだ。

「なんとなく……?」

 そんな曖昧な返答をした夜花に、青年――千歳は、くすり、と笑った。

「なんとなく、ね。まあ、まれびとに怪異や神秘を見破れないわけないか」


 夜花はリビングに入り、千歳の隣に並んで立つ。寝る前は同じくらいだった背丈が、今は千歳のほうがずっと高い。

 高い位置にある顔を見上げ、夜花は千歳に問うた。

「というか、なんで、はこっちのセリフだよ。なんでひと晩で大人になってるの?」

「――夜花は、神って、本当にいると思うか?」

 質問に質問を返され、しかも脈絡のない急な問いに訝しむ。

「いるんじゃない? 私がまれびとになったのも、社城家があるのも、神さまや怪異が実在するからでしょ?」

「そうだな。なら、神は人にとって、善か、悪か、どちらだと思う?」


 神が善か、悪か――。難しい問いだ。

 世界の神話には、神々が明確に善悪に分かれているものもある。けれども、この国の神話はそうではない。いくつかの括りはあっても、善悪では区別されない。

 ましてや人にとって善か悪かなど、神々の知ったことではないだろう。


「……どっちでもない」

 千歳は、夜花の選択した答えに「俺もそう思う」と返した。そして、濃紺から群青へと変わりゆく空を窓越しに見上げる。

「社城家は立場上、彼らに触れる機会も多いけれど……神は、いつだって気まぐれだ。その時々で人を救いもするし、窮地に陥れもする。たいてい、善意も悪意もなく。……この身体はひとつの祝福がかけられ、ひとつの代償を支払っているんだ」

「祝福と、代償?」

 千歳はこくり、とうなずいた。

「そのせいで俺は不老不死になり、姿も幼くなった。でも新月の日だけは、こうして元に戻れる」

「待って、不老不死?」


 驚くべき単語が飛び出し、夜花は目を剥く。

 不老不死といえば文字どおり、年老いず、死なない身体のことだ。古代から世界中の人類が追い求めてきた、生命の究極の境地。追い求めて、追い求めて、しかし実現には至っていない、おとぎ話の代物だと思っていた。


「……ほんとに?」

 怪訝な気持ちで半眼を向けるが、千歳はどこ吹く風だ。

「本当、本当。これでも夜花より、夜花のばあちゃんより、ずっと長く生きてる。もしよければここで一回、死んでみせようか? すぐ生き返るよ」

「えっ……や、それは遠慮しとく……」

 死んでみせようか、とかいうパワーワードがもう怖い。夜花はドン引きして、激しく首を横に振った。もしや、うなずいたら死体を見せられるのか。想像しただけで寒気がする。

「それは残念」

 肩をすくめ、千歳は可笑しそうに喉を鳴らした。


(あれ?)

 彼の笑みに交じるわずかな違和感。愉快そうに笑っているのに、どことなく悲哀や寂寥を含んでいるようで。

 そういえば彼はさっき、『元に戻る』ではなく『元に戻れる』と言った。神は人にとっての善悪を意に介さない。ならば『祝福』は、人である千歳にとって真に『祝福』なのだろうか。

 だが、これでいろいろなことが腑に落ちた。

 千歳がやけに大人びて見えたのは実際に彼がそれだけの年月を生きているから。祖母よりも長く生きているなら、老成しているのもさもありなん。不老不死について、まだ半信半疑ではあるけれど。


(千歳くん、やっぱり謎な人だな……)

 会話が途切れる。二人はしばし沈黙し、夜の明けゆく様子をただ並んで見ていた。

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