15.言えない言葉

 リシャールの仕事を見に行っていたら、ランウェイの上でリシャールよりも体格のいい男性がリシャールの腰に手を回したり、肩を抱いたりしていた。正直面白くなくて、苛立ちを押さえられなかったときに、全身に悪寒が走って吐き気を催すような強い威嚇のオーラがリシャールに手を出している男性から放たれて、アリスターは倒れそうになった。


 ランウェイの上でリシャールがセクハラされていてもアリスターは助けることができない。

 見せつけるようにリシャールの耳に口元を寄せた男性は間違いなくDomだった。

 見たくなくて顔を逸らした瞬間、ランウェイの上からリシャールが駆け下りてきた。かなり高さがあるので危ないとは思ったが、グレアのせいで声を出すことができない。

 まっすぐにアリスターのところに駆け寄ってリシャールは優しいコマンドを囁いてアリスターを助けてくれた。


 コンドミニアムに先に帰って休んでいると、仕事と買い物を終えたリシャールが戻ってきた。顔を隠すために着けていたサングラスを入り口で外して、ソファに寝転んでいたアリスターに駆け寄ってくる。


「アリスター、まだ調子が悪いの? ごめんね、仕事中で十分なケアをしてあげられなくて」

「いや、もう平気だよ。少し休んでただけだ」

「苦しいところはない? あいつはモデルから降ろされたし、被害を受けたSubのモデルが訴えるって言ってるから、もう大丈夫だよ」

「リシャールが来てくれたから平気だよ」


 そういえばランウェイの上で蹲っていた美しい女性がいた気がする。その女性に全く構わず、リシャールは真っすぐにアリスターの元に駆けて来た。解かれて真っすぐになっていた長い黒髪が走る速度に後ろに流れて、とても美しかったのをぼんやりと覚えている。


「リシャール、あいつ、リシャールの腰に触ってた。肩も。耳に何か囁こうとしてた」

「あいつは僕をSubだと思って、アリスターをDomだと思ってたみたいなんだ。僕を従わせるコマンドでも囁こうとしてたんだろう。そんなの意味ないのに」

「あいつに、口説かれたのか?」


 見目もいいし性格もいいリシャールだ。体付きも肉感的でものすごく魅力的なのだ。モテないはずがない。

 リシャールはDomで、相手もDomだったのなら、相性的には最悪なのだが、それでも相手はそれを知らずにリシャールをSubだと思って抱きたいと思ったのかもしれない。


 リシャールを抱けるのは自分だけだと思っていただけに、アリスターは頭を殴られたようなショックを受けていた。


 こんなに美しい男性なのだ、リシャールは。抱きたいと思う相手がいてもおかしくはない。

 Domで抱かれたい性質のものが少ないだけで、リシャールの第二の性ダイナミクスを別にしてしまえば、リシャールは引く手あまたなのは分かりきっていた。それでも、リシャールを抱けるのは自分だけで、リシャールは自分以外を受け入れないと勝手に思い込んでいた。


 第二の性の欲求に従って性欲を解消しているだけで、リシャールは第二の性に捉われなければどれだけでも相手は選び放題なのではないだろうか。


 アリスターにとってはリシャールは初めて抱いた相手で、特別で、今後こんな相性のいい相手に出会えるはずもないと思い込んでいるが、それが自分だけの考えで、リシャールはどれだけでも相手を選べるとしたら……。

 考えるだけで耐えられなくて、アリスターは口元を押さえて黙り込んだ。


「アリスター? 気分が悪いの? 吐きそう?」


 心配そうにリシャールがアリスターの顔を覗き込んでくるが、アリスターは返事をできずにいた。

 リシャールの青い目がうるりと潤む。


 ソファの端に体をねじ込んだリシャールはアリスターの体を横抱きにしてその肩に顔を埋めた。


「苦しくて喋ることもできないくらいなの? 僕はアリスターに何ができる? ミルクを温める? それともお水がいい? 疲れてるならベッドに運ぼうか? アリスター? 君のためなら何でもできるのに」


 君は何も言ってくれない。


 悲し気なリシャールの呟きに、アリスターは息を吸った。喉が鳴って、ひゅっと音が出た。

 喉がからからに乾いていて、何か飲みたい気持ちもあったけれど、まずはリシャールで満たされたかった。


「ご褒美が欲しい」

「何をすればいい?」

「コマンドを……キスをしたい」


 キスをしてとコマンドを言ってほしい。そうすればアリスターはリシャールに従って、リシャールはそれを褒めて、アリスターは満たされる。


「それでいいの? アリスター、『キスをして』」


 リシャールに促されてアリスターがリシャールの頬に口付けると、リシャールの青い目が色の濃さを増す。

 リシャールを抱いたときもだったが、リシャールは興奮すると目の色が変わるのだ。


 医学部で習ったが、そういうタイプの人間は少数だがいるようだ。

 リシャールの場合は、元の青い目に毛細血管の赤が混じって紫色になる。紫色の目になったリシャールは、アリスターをぞくぞくとさせた。


「違うよ、こっち」


 唇を指差されて、口付けると、リシャールが口付けを深いものに変える。舌を絡めて息もできないほどお互いの唇を貪り合うと、やっとアリスターは解放された。

 リシャールの大きな暖かい手がアリスターの金色の髪を撫でる。


「『上手』だね。『いい子』」


 褒められて体の芯から痺れるような幸福感に包まれる。

 膝の上に抱き上げられた状態でしばらくついばむようにキスをして、じゃれ合っていたが、アリスターは耐えられなくなってリシャールの膝から降りた。リシャールの目はもう穏やかな青に戻っている。


「喉が、乾いて……」

「水がいい? 温めたミルクがいい?」

「冷たい水がいい」


 甘えてしまうことにしてリシャールに言えば、リシャールはすぐに冷蔵庫からペットボトルを出してグラスに水を注いで差し出してくれた。

 水を一口飲めば、どれだけ乾いていたかを実感する。一気に飲み干してしまうと、素早くリシャールがお代わりを注いでくれる。それも半分以上飲んで、やっとアリスターは渇きを満たせた。


「あの男のグレアは最悪だった……。リシャールのコマンドはこんなに心地いいのに」

「自分の不機嫌なオーラを垂れ流すだなんて、最悪のDomだよ。DomのグレアによるSubへのパワハラは社会的問題にもなっているのに、本当に意識が低い。あんな奴、モデルを降ろされて当然だ」


 温厚なリシャールが珍しく怒っているようで、その青い目が濃さを増している。

 紫色の目は自分を見るときだけにしてほしかったので、アリスターはリシャールの膝の上に自分からよじ登った。リシャールも抵抗なく受け入れてくれる。

 こんなことをしたのは初めてだったので恥ずかしさもあったが、アリスターがリシャールの胸にすり寄ると、髪に手を差し入れてつむじと額に口付けを落としてくれる。


「アリスター……大好きだよ」

「リシャール……」


 ベッドの中にいるわけでもないのにリシャールの口から出る「大好き」の言葉にアリスターは答える言葉がない。リシャールは世界的に有名なモデルで、相手などどれだけでもいるはずなのだ。アリスターだけが特別ではない。

 それが分かっていても、アリスターにとってはリシャールは初めて抱いた相手で、心を許して過去のことも話した相手で、小さいころから支えにしてきた相手で、誰にも代えられない特別なのだ。


「リシャール……」

「何?」

「リシャール」


 愛していると言って何の意味があるだろう。

 リシャールにとってアリスターは欲望を満たすためだけの相手で、第二の性が暴走しないようにするための仮のパートナーでしかない。本当のパートナー契約ができるはずがない。


 何より、正式なパートナー契約はDomから申し込むものであって、Subはそれを受けるか最終的な決定権はあるが、申し込める立場ではない。


 パートナー契約クレイムしたいなど、言える立場ではないのだ。


 リシャールを独占して、自分だけのものにしたい。

 体の相性もあれだけよかったのだから、リシャールもアリスターがお願いすれば考えてくれるのではないか。

 淡い期待をアリスターは飲み込んだ。


 小さなころベッドの上で布団にくるまって苦しい熱を乗り越えているときにだって、誰も助けになど来てくれなかった。

 助けを期待した時期もあったが、それも諦めに変わった。


 リシャールとの仲もどれだけ続くか分からない。

 フランスから帰ったら新しいパートナーを見つけて、別れを切り出されるかもしれない。


 せめてフランスにいる間はリシャールと恋人のようにして過ごしたい。


 アリスターは切実に願っていた。

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