第30話

「おはようございます、杷佳さん」


 その声で、杷佳ははっと目を覚ました。


「え、私…」


 目に写ったのは、昨日も見た天井の木目。


「杷佳さん? 起きていらっしゃいますか」

「は、はい。おはようございます」


 杷佳からの返事がないので、襖の向こうから怪訝そうに常磐が確認してくる。

 慌てて起き上がって、少し乱れた胸元を正して答えた。


(私、いつ眠ったのかしら)


 なぜか頭に靄がかかっていて、はっきり思い出せない。


「あら、どうされたのですか」


 部屋に入ってきた常磐が、きょとんとしている杷佳の顔を見て、小首を傾げた。


「あの、常磐さん」

「はい?」


 何かを忘れている気がする。奇妙な感じだ。

 

「いえ、何でもありません」


 熱でもあるのだろうか。頭がすっきりしない。


「さあさあ、顔を洗ってお召し替えをいたしましょう。若様もお待ちですよ」

「若様?」


 常磐の言葉に、寝床から立ち上がった杷佳が、驚いて振り返った。


「常盤さん、今、なんておっしゃいました?」


 信じられない思いで、彼女は常磐に問いかけた。


「はい?」

「誰が、待っていると仰いました?」

「もちろん、若様、杷佳さんの旦那様の柊椰様です」

「…え?」


 当然のようにそんなことを言う常磐に、杷佳は何て言えばいいのかわからず戸惑う。


「あの、常盤さん、柊椰様は…」


 「柊椰様は既に亡くなっている」そう言いかけて、口を噤んだ。


 彼が亡くなっていることは、常磐だって知っている。

 なのに、まるで生きているかのように、彼が杷佳を待っていると言う。

 

(一体どういうこと?)


 訳が分からない。


「どうされました? 悪い夢でも見られましたか?」

「夢?」


 ぱちくりと目を大きく瞬かせて、呆然と常磐を見つめる。

 

「とにかく、早くお仕度なさって参りましょう」


 常磐に急かされるがまま、杷佳は着替えを済ませて部屋を出た。


(何か、忘れている。とても重要なことを)


 顔を洗った時、肌に触れる水の感触はいつもと変わらなかった。

 夢だとしたら、そんな感触はわからないはずだ。

 ではこれは夢ではない。


「あの、常盤さん」

「はい、何でしょう」


 常磐の後ろを歩きながら、話しかける。


「その、柊椰様って、ご病気は…」

「何を仰っているのですか。柊椰様のご病気は、すっかり良くなっていらっしゃいますよ」

「え…」


 病気が治っている? 信じられず杷佳は目を瞠る。


「どうされたのですか、今朝はおかしいですよ。確かに以前はご病気を患っていらっしゃいましたが、もうとっくに克服されたから、杷佳さんが嫁いで来られたのですよね」

「……」


 常磐の話に、杷佳はどう答えて良いかわからなかった。

 まるで狐に摘ままれているとしか思えない。

 

 北辰柊椰が生きている。


 彼が亡くなって「冥婚」の花嫁として、杷佳が選ばれたのだ。


 なの、その彼が生きている話になっているのだ。


 一夜の間に、まったく別の世界に来た感じだ。


「失礼します。柊椰様、杷佳様をお連れしました」


 彼が待つという部屋の前で、常磐が声をかける。

 俄に杷佳の体に緊張が走り、ごくりと唾を呑み込む。

 まだ一度も顔を見たこともない、自分の夫になる相手。

 本当に柊椰なのか、彼女には確認する術がない。

 

「やあ、おはよう。今朝はゆっくりだね」


 開いた襖の向こうから、こちらを向いて座っていたのは、浴衣を着て長い黒髪を後ろでひとつに結わえた男性だった。

 彼は微笑んでこちらを見ている。

 既に膳が並べられており、そのひとつに彼が座っている。


 北辰柊椰。自分の夫。

 その瞬間、杷佳の脳裏にある場面が浮かんだ。

 人形の花婿。

 そして常磐や柾椰が横たわるすぐ横に立ちすくむ、一人の人間。

 杷佳の前に来て、彼女の顎を捉え唇を寄せてきた男。



「…どうして、どうしてあなたが…本当に、あなたがしゅ、柊椰様?」


 震えながら杷佳がそう呟くと、男の笑みがすっと消え、目が細められる。


「常磐」

「はい、若様」

「暫く二人きりにしてくれ」

「あ、は、はい」


 戸惑いながらも、常磐は「失礼します。杷佳さん後はお願いします」と言って、杷佳と彼を置いて、襖を閉めた。


「ここに座れ」


 男は空いた座布団を示し、命令する。


「で、でも…」

「立ったままでは話しにくい。説明がほしいのだろう?」


 脇息に肘をかけ、彼は杷佳を見上げそう言った。


「あなたは…どなたですか?」


「私は正真正銘、北辰柊椰だ」

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