第9話
シュンシュンと和室に切った炉に乗せた釜のお湯が音を立てている。
炉を使うのは秋の終わりから春まで。五月からは
スッと音を立てて茶をすい切り、口が触れた茶碗の縁を懐紙で拭うと、見越は茶碗を回してそれを眺めた。
「楽焼のいい茶碗ですね」
茶を飲んだ後は、茶碗を眺めるのも作法のひとつ。
「この手捏ねの風合いが、実に温かみがあっていい」
ひととおり眺めてから、それを畳の縁へ置く。
亭主を勤めた幸恵が正座のまま、すっと茶碗に手が届くところまで
「恐れ入ります」
両手の指を突いて頭を下げ、幸恵は空いた茶碗を引き上げた。
「ところで、先程ここに到着した時、赤い髪の娘さんに会いました」
幸恵が酌でお湯を茶碗に注ぎ、それを建水に捨てたところで、見越が口を開いた。
白い手拭いの下から、はらりと落ちた髪を、彼は見逃さなかった。
「室生家の杷佳さんですね」
ちらりと見越が幸恵の顔色を見ると、彼女は硬い表情で酌を使って茶碗にお湯を注いでいた。
「住職もそのような名前を口にされていました。室生家と言うと、江戸の頃から薬種問屋をされているお宅ですね」
見越は単に自分が知っている情報が正しいのを確認したいのか。それとも他に意図があるのか。
幸恵は濯いだ茶碗を茶巾で拭き、考えるより先に身に付いた所作で仕舞っていく。
「それに確か何年か前、ご令嬢が神隠しにあっという騒ぎが…」
見越が全て言う前に、シュッシュッという衣擦れの音と共に、住職が障子を開けた。
「すみません。せっかくお越しいただきましたのに、お待たせして」
入口のところで膝を突き、住職は見越に向かって頭を下げた。
「お気になさらず、奥方の美味しいお茶を堪能しておりました」
「そうですか」
住職は頭を上げると、ほっとして炉の前に座る幸恵の方を見た。
「お話はもうよろしいのですか?」
「ああ、香苗さんの供養を頼まれたんだよ」
住職はすっと優雅な所作で部屋に入り、見越の隣に腰を降ろした。
「本当は最後に一目会いたかっただろうが、あまり良い状態のご遺体とは言えなかったからね。あ、失礼客人の前で」
「構いませんよ」
「供養? どなたが対応を?」
幸恵が抹茶を茶碗に入れてから、僅かに眉を顰めて住職の方を振り返った。
「照栄に頼んだ」
照栄はいずれは国へ帰って実家の後を継ぐ予定の、住職の弟子の一人だ。
「あの子もそろそろここに来て三年だ。いつも私に付いて通夜や告別式のことも良く知っている。そろそろ一人で取り仕切ってもいいだろう」
「そうですわね」
幸恵もそれでいいと思ったのか、納得したように頷いた。
そしてそのまま茶碗に湯を注ぎ、茶筅で茶を点て始めた。
「修行の一貫ということで任せた。見習いが修行のために勝手に教をあげたことにしておこう」
「そうですわね」
自分ではなく、弟子に取り仕切らせるのは、弟子に花を持たせるだけの意図でないことを、幸恵はわかっていた。
寺の総代の室生家を気にしてのことだ。
杷佳に乞われ、ここで住職自ら教を上げたとなれば、それが智之の耳に入ったらどんな不興を買うかわからない。
「その杷佳とおっしゃるお嬢さんは、もしやあの時の…」
見越がその場の重苦しい空気を破るように、口を挟んだ。
住職と幸恵は互いに顔を合わせ、そして同時に嘆息した。
「…隠しても仕方がありませんね。そうです。小百合さん…室生家のお嬢さんが生んだ子供が彼女です」
「『鬼子』なるほど」
見越がボソリと呟いたが、そこにはからかっている素振りはなかった。
「子供に罪はありません。どのような子でも、仏の子です」
幸恵が先に声を出した。
「あの子のことを知りもせず…」
「妻は、先代のご当主に頼まれて、茶や華を教えておりました」
幸恵が杷佳について話す口調が、やけに力が入っている理由を、住職が説明する。
「なるほど、愛弟子というわけですね」
「教えていたのも二年ほどで、先代が亡くなってすぐに、稽古も断られましたけど」
長治郎の通夜も終わらない内から、今後杷佳のことは一切構うなと智之から宣言されたことを、住職は今でも覚えている。
「香苗さんが亡くなったなら、もうあの家であの子を気にかける者はいないだろうね」
これからの杷佳の室生家での暮らしを考えると、住職も頭が痛くなった。
「おいくつになるのかな?」
「どうだったか」
「確か…十七になるかと…」
見越に問われ、住職が首を捻って考える仕草をしたが、幸恵が先に答えた。
「十七…そうですか」
見越は顎に手を当て、何やら思案げに呟いた。
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