私はこうして生きていく ― forget me not ―

さくら

あなたを忘れない

「ありがとう。すごく癒された」


服を着ようとしてベッドから抜け出そうとしたら、さっきまで一緒に寝ていた、今回のお客さんからそう言われた。


その人の寝起きの気だるげな声が耳のすぐそばで響いて、思わず反応しそうになる。


おまけに布団から覗くその人の柔らかな肌が私の目に飛び込んできて、少し「きて」しまった。


下腹部が熱くなりそうなのを我慢しながら、私はその人の額にキスを落としてから、着替えを続ける。


すると、名残惜しそうに、その人の腕が私をとらえる。

少しだけ、その腕は震えていた。


「……悠里(ゆうり)さん。私こそありがと。また『買って』ね」

「……やだ。行かせたくない。もう一晩ここにいて。ね?」


懇願するような、か細い声。

さっき震えていたのは、気のせいじゃない。


きっとこの人も……ほかのたくさんのお客さんと同じなんだ。


寂しくて


満たされなくて


すり減って、無くなってしまいそうで。


だから私は、今度は着替える手を止めて、両腕でその人を正面から抱きしめてあげる。


「……ごめんね。今回は、これで『夢の時間』はおしまい。でも、絶対に私はいなくならないから」

「ユキちゃん……」


正直、こういうのは、辛い。


この人は……何度も私を買ってくれて


その度に、彼女はやつれていく。


だから、私を買ってくれて、一緒に過ごしている時間だけは、現実を忘れてあげさせたいんだ。


「……またね、悠里さん」

「……っ、ん……!」


寂しそうな彼女に、最後にもう一度私の唇を重ねた。


舌を絡ませて


そして、後を引く唾液を舐めとって、部屋をあとにした。


ドアが閉まる直前に、部屋の奥からすすり泣く声が聞こえた。


でも振り返りはしない。


だって、もし振り返ったら、私のほうが、彼女にすがってしまいそうになるから。


私は、風俗嬢だから。


女の人に、夢を売る仕事だから。


次に会う時は、誰であっても笑顔にしてあげる。


それが私の仕事で、プライドだから。


溢れそうになった涙を拭って、私はまぶしい朝日の下を歩いて行った。


― ― ― ― ― ― ― ― ―


その後出勤して、また別のお客さんから指名が入った。


いろんな人が、私たちを求めてくれる。


最初は、同性を相手にする風俗に対する抵抗というか、躊躇やとまどいみたいなものを、大抵のお客さんが持っている気がする。


分からないけど、そもそも異性間の風俗だって、利用するのって、きっとハードル高いんじゃないかなって思う。


でも、一度私たちと一緒に過ごしたら……添い寝したり、おしゃべりしたり、一緒にお風呂に入ったり、別に性的なことをしなくたって、みんながすごく満たされた顔をしてくれる。


私は、それがとても嬉しいんだ。

お客さんの、その表情を見ていると――頑張ろうって、思える。



でもね、実はこの仕事始めたのも、なりゆきだったんだ。

たまたまっていうか。


私は、同性愛者だって分かってから、必死に隠して生きていて……


好きな子がいたけど、告白なんか……したかったけど、勇気が、でなかった。


告白しないで、友達のままの関係を、ずっと続けたいと思ったから。

告白してしまうと、友達ですらいられなくなっちゃうから。


でもね、大学に進んで、その時に、初めての彼女ができたんだ。

もちろん嬉しかったよ。


でも、私は変に遠慮しちゃって……。ううん、遠慮っていうか、その子のことより、自分のことの方が結局大事だったんだと思う。

バレるとかバレないとか、世間体のことばかり気にしちゃって、それが原因で別れを切り出されて、それっきり。


めっちゃ辛かった。

こんなに涙が出るんだっていうくらい泣いたよ。


恋をするのって、こんなに難しいんだって思い知った。

そして、どれだけ私が自分勝手で、子供なのかっていうのも。


そんな時かな。

女の子を相手にする、添い寝のバイトを募集してるのを見て、やってみようかなって思ったの。


いろんな子と出会って、いろんな話がしてみたくて。

添い寝なら、ちょっといい関係にも、なれるかもしれないって、期待したりして。


まぁ、添い寝というか、本番もありだっていうのは、採用されてから知ったんだけどね。


でさ、初めての私のお客さんがさ。


今朝のあのお姉さん――悠里さんだったの。


優しかったよ。すっごく。

ベッドで私を包み込むように抱きしめながら、私の初恋のことも聞いてくれた。

思い出してちょっと泣いちゃって、そんな私を、ずっと抱きしめてくれてた。


それから、お互いの身体も、ちょっとだけ触りあって。


私は買われた側だったけど、すごく感動したんだ。

安心したっていうか、癒されたっていうか。


だから、今度は私がそうしてあげたいって、強く思うようになって。


それから、何度もその人のところに通うことになったんだ。

他のお客さんももちろん指名が入ったりするし、指名なしで接客することもあるけど、あの人に指名される頻度がすごく高かった。


だから私も……あの人に少しでも安らいでほしいって、そういう思いがだんだん強くなってきた。


苦しかったり、辛かったりしたことを忘れて、目いっぱい幸せな時間を一緒に過ごさせてあげたいから。


ほんとは、お客さんにあんまり入れ込んじゃダメって言われるんだけど……


正直に言うとね。


ほかのどのお客さんよりも、悠里さんが、好きなんだ。


― ― ― ― ― ― ― ― ―


それからしばらく、悠里さんからの指名が入らない日が続いた。


どうしたんだろう。


お家に行ってみようかな。


そんなことを迷いながら、他のお客さんの指名を受ける日が続いていた。



それから、たぶん1か月以上経ってからかな。

久しぶりに、悠里さんから指名が入った。


他のお客さんには悪いけど、すごく嬉しかった。

久しぶりに会える。


いつもよりも気合を入れてメイクして、一番お気に入りの服を着て、悠里さんの家に行った。



出迎えてくれたのは、見たことないくらい、綺麗に着飾ったその人だった。


「わ……悠里さん、綺麗……」

「ふふ、ありがとうユキちゃん。今日はね、どうしても綺麗に見せたくて。気合い入れちゃった」

「……私も、気合い入れてきたんだよ?」

「じゃあお揃いだねぇ。ふふ」


最近の悠里さんは本当に辛そうで……だんだんやつれていってるのが、私にも分かってた。

今日も……辛そうなのは変わらないけど、それでもそんなこと感じさせない明るさと、美しさがあった。


「おいでユキちゃん」

「うん、ありがと」


悠里さんに誘われて、柔らかなソファにもたれかかる。

彼女が、私の肩に頭を預けるようにもたれかかってきた。


「いつも来てくれて……ありがとうユキちゃん」

「ううん、それは私のセリフだよ。久しぶりに会えて嬉しい」

「ふふ、そっか。ついにユキちゃんからその言葉を引き出せたね」

「だって……普段より、ずっと間隔が空いちゃってたから、どうしたんだろうって……」

「私の作戦勝ちかなぁ。ふふ」


甘い、悠里さんの香水が香る。

今日は、なんだかいつもの私のペースを乱されてる気がした。

すごく……ドキドキしてしまう。


意識、してるのかな……悠里さんを……


そんな私のことを分かっているみたいに、体勢を変えてソファに寝転んだ悠里さんは、私の膝に頭を乗せて私を見上げてきた。


「もう悠里さん……今日は甘えんぼだね」

「うん。たくさんユキちゃんに甘えるんだ。でね、ユキちゃんにも、いっぱい私に甘えてもらうの」


悠里さんの腕が……私の頬を包み込んで

私たちは、そのまま口唇を重ねた。


明かりを消す。

私は握っていた悠里さんの手を離し……それから、彼女の首筋をそっと指でなぞる。


彼女から、甘い吐息が漏れ始める。


悠里さんともう一度唇を重ねて……私は、彼女とひとつになった。



情事の後、悠里さんと一緒にお風呂に入って、いろんな話をした。

今までのことだったり、昔の悠里さんのことだったり……

いつも以上に、悠里さんと繋がっている気持ちになれた夜だった。


ベッドで、今度は私が悠里さんを後ろから抱きしめながら、彼女の体温を感じていた。

こうしている時間が、ずっとずっと続いてほしいのに。


いつも私は、仕事としての「距離」を置いて接していたけど、今日は、今日だけは無理だって思った。


彼女を、悠里さんを愛しいと思った。


背中から回している腕に、少しだけ力を込めて、悠里さんを抱きしめた。


「……悠里さん……大好きだよ」

「……っ!」


悠里さんは、何も言わなかったけど


彼女の震える背中が、答えてくれていた。


私はその体温を感じながら、眠りに落ちていった。


― ― ― ― ― ― ― ― ―


翌朝になり、私にはもう時間が来てしまった。


そう。「夢の時間」が終わるんだ。


いつもは、私の方が余裕を見せていて、「また『買ってね』」なんて言っていたのに。


どうして、どうしてこんなに苦しいんだろう。

心が、痛い……。


悠里さんと、こういう形でしか会えないのが、こんなに辛いだなんて。


玄関で、私を見送ってくれる悠里さん。


いつも私を引き留めているのは彼女の方なのに、立場が逆転してしまったみたいだ。


困ったような笑顔で、悠里さんが私に言う。


「ユキちゃん、いつものやつ、言わないんだね。『また買ってね』って」


それに対して、私は……言わないでおこうって思っていたことを言ってしまっていた。


「だ、だって!私……自分の気持ちに、気づいちゃったから……いつもいつも、私を指名してくれて、私を買ってくれて、たくさんたくさん私にお金を使ってくれて……私を、求めてくれて!」

「うん……」

「私は、好きになっちゃダメって言い聞かせてた。でも……初めて私を買ってくれた夜から、ずっとずっと私だけを指名し続けてくれて……そんなの……そんなの、ずるいよぉ、悠里さん……もう、誤魔化せないよ……」


悠里さんが、優しく抱きしめてくれた。


「ユキちゃん。私ね、あなたとの時間が、すごく好き。あなたとおしゃべりするのも、ご飯を食べるのも、ソファでごろごろするのも……身体を重ねるのも、全部全部、大好きだよ。だから……」


その声を遮るように……私は言ってしまった。本心を。


「なら!そうなら……私、私は……もう、ほかのお客さんを、取れないよ!私は、あなただけのユキでいたいの!あなたにだけ、私をささげたいの!だから言って、悠里さん!『風俗なんか辞めて、私のものになれ』って!お願い!悠里さん……好きなの……あなたのことが……」

「ありがとう……ありがとう。その言葉が聞けて……私、頑張ってよかった。ユキちゃんに、そう思ってもらえるなんて、私、嬉しいよ。すごく。私も、ユキちゃんのこと、大好きだから。」

「な、なら……」

「でもねユキちゃん。ユキちゃんはね、みんなにとっての癒しなの。私だけが独り占めしちゃダメなんだ。だから、今の関係のままのほうが、いいんだよ」

「ど、どうして!?い、今まで通り、お金で、わ、私を、買う方が、いいの?」

「……うん。その方が、いい」

「うそ!うそだよ!ならどうして悠里さんもそんなに泣いてるの!お金なんて関係なしに、仕事なんて関係なしに、ずっと一緒にいようよ!私、風俗辞めるよ!」

「……ダメだよ……辞めちゃったら、私はユキちゃんを買えなくなっちゃう。私に『夢の時間』をくれるユキちゃんは、どこにもいなくなっちゃうから。私の……私だけの時間に来てくれる、その時間だけは私が独占していいユキちゃんのままで、いてほしいの。私は……私には……その『夢の時間』が、すべてだから……」

「やだ!やだよ!私、もう風俗辞める!辞めてお姉さんと一緒に暮らす!」


お互いが、意地を張りあっていた。

こんなに、お互いを好きなのに。

どうして、こんなにも遠いんだろう。

こんなに近くにいるのに。


悠里さんが、泣きながら続ける。


「……ダメなの。一緒には、暮らせないの。どうしても」

「ど、どうして!な、なら、ふ、普通に恋人になろうよ!こ、これからも、悠里さんの家に通うよ?」


悠里さんは……静かに顔を振った。

涙が、ずっと止まらなかった。私も……悠里さんも。


「ユキちゃんには、綺麗なままの、私を覚えていてほしいから。

ユキちゃんにだけは……ユキちゃんにだけは、私の綺麗じゃないところは、見せたくないから」

「悠里さんは、綺麗だよ!誰よりも!どんな人よりも、綺麗だ!」

「ごめん……ごめんね。いつかまた……ユキちゃんを買うから。それが、私の……あなたへの愛だから。綺麗な私を、愛しに来て。もう……それしか……ないの……」

「やだ……やだよ!ずっと一緒にいたい!ひ、ひょっとして、た、体調良くないの?な、なら一緒に病院に行くよ!?つ、連れて行ってあげる。薬だってもらってきてあげる!だから……!」


どうして。

こんなに、愛は遠いんだろう。


どうして

愛しい人は、こんなにも哀しげなんだろう。


哀し気な表情のまま

悠里さんは、私を抱擁してくれた。


甘い、彼女の香水が香った。


「ユキちゃん。私だけのユキちゃん。綺麗な私を、どうか覚えていてね」

「ひっく……やだぁ……行きたくないよ……離れたくないよぉ……」

「……ふふ、いつもと、逆だね……今日は泣き虫さんだね」

「悠里さん……私、あなたを愛してます。ずっとずっと、いつまでも忘れない。あなたを、ずっと忘れない。ずっと愛してるから!」

「……うん。うん。ありがとう。ありがとう。私ね……幸せだったよ。ユキちゃんと今まで過ごせて、ユキちゃんを独り占めできて。ユキちゃん……大好きだよ。私も……私も、ユキちゃんを愛してる」


それから、永遠とも思えるくらい、長いキスをした。


それが……悠里さんとの、最期の逢瀬だった。


― ― ― ― ― ― ― ― ―


悠里さんが末期がんだったと知ったのは、彼女の葬儀だった。

私は全然実感がなくて、ただただ、茫然としていた。


悠里さんが、頑なに拒んでいたのも

そして、「綺麗な私を覚えていて」と何度も、何度も言っていたのも


全部、悠里さんには分かっていたからだったんだ。


今更そう気づいても、もう彼女は帰ってこない。


自分の愚かさに


愛しい人を失った悲しみに


生前の彼女の写真が、本当にそこにいるようで


ただただ涙を流した。



それから、私はしばらく仕事を休んで……悠里さんの、家族の人に頼み込んで、彼女の部屋に、少しだけいさせてもらった。


まだ、悠里さんを感じていたかった。

優しく抱きしめて、あの声で、私の名前を呼んでほしかった。


でも


でも、もう彼女は、いない。


それが辛くて、受け入れられなくて、悠里さんの声を、姿を、香りを――


どこかにまだいるんじゃないかと思って、部屋の中で、ずっと過ごした。



「……あれ……何か、ある……?」


ずっとずっと泣いて過ごして、少しだけ落ち着いた頃、ふと彼女が使っていた机の上に、1通の手紙と、花が置かれているのに気付いた。


震える手で、手紙を開く。


そこには


震える、乱れた字で、ただ一言、


ごめんね いつまでもあいしてる


そう、書かれていた。


「あぁ……悠里さん……悠里さん……!」


花は、1輪だけ摘まれた、勿忘草(わすれなぐさ)だった。



それから私は、仕事に戻った。


お客さんと触れ合うのも、添い寝するのも、すべてが悠里さんを思い出させるから、本当に辛かったけど、でも耐えられると思えた。


私には、悠里さんとの約束があるから。


だから、私は、私を買ってくれる人を、幸せにしたいって思えるようになった。


悠里さんに、「夢の時間」をあげられたように。


同じように、私は「夢」を与え続けたいって、思えるようになった。


それが――きっと悠里さんへの恩返しだから。


「悠里さん。ありがとう」


自分の部屋に飾った勿忘草(わすれなぐさ)を見て、行ってきますのあいさつをして家を出る。


今日も私は、誰かに買われる。


その人を幸せにしてあげたいから。


Fin




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