第10話 嘘しかない別れ

 この日、私はたくさんの嘘を吐いた。

 きっと後にも先にも、こんなに嘘を吐く日はこないだろう。


 私の父は、平民の庭師だ。母が早くに亡くなって、貴族の教養どころか女らしい所作すらも知らず、粗野な娘に育てられた。

 私はお嬢様のように、足をあまり開かずに歩くことはできないし、音を立てずにスープを飲むこともできない。言葉遣いも、気を抜くとすぐ乱暴な単語がこぼれ出る。

 だけど正直に生きるようにと言われていた。他人に嘘を言ってはいけない。他人を信じることが出来なくなるから。自分の気持ちを偽ってはいけない。その嘘は言った人のなかにもしみ込んで、自分自身を騙してしまうから……と。



「これで、わたくしがあの日の『彼女』だと信じていただけましたか?」


 テーブルに置かれた宝飾剣を、男三人は息を呑み、じっと見つめていた。

 あれからすぐ、お嬢様と私は賓客室へと取って返し、宝飾剣を侯爵様の前に差し出した。慰謝料の増減について交渉していた三人は、その瞬間ピタリと沈黙。

 伯爵とロイさんが侯爵を見上げ、侯爵は黙ってそれを手に取った。じっとそれを見つめ、頷く。


「たしかに……これは俺があの夜、彼女に贈ったものだ」

「ほ、本当ですかラファイエット様……」

「なんと! ベルよ、おまえこれを一体どこで!?」

「いやねお父様、侯爵様から頂いたとさっきから言っているじゃない!」


 ホホホと明るく笑うお嬢様。お嬢様には嘘をついているという罪悪感も、バレたらどうしようという恐れも何もない。演技には見えない――いや演技ではないのだろう。お嬢様は当たり前に、侯爵の妻になるのは自分だと信じているのだ。


「二、三ほど確認させていただいてもよろしいですか?」


 言い出したのはロイさんだった。口下手な侯爵様の代弁者役なのだろう。お嬢様は扇子をそよがせながら、笑顔で「どうぞ」と頷いた。


「お二人が出会ったキッカケは?」

「急いで駆けてきた侯爵様と、庭を見ていたわたくしが強くぶつかったのですわ」


 お嬢様は即答する。

 その情報は、私が近くでたまたま見かけたということにして、お嬢様にすべて伝えていた。私は嘘をつき、真実の情報をお嬢様に流し、お嬢様はそれを、自分の嘘にして答える。


「まず侯爵様はお詫びとして、花を贈ろうとなさって、わたくしは思わず怒鳴りつけて止めてしまいましたの。あの時は本当に失礼なことを言ってしまって、お詫び申し上げますわ」

「……その時のいでたちは」

「侯爵様が鉄兜、わたくしは髪を軽く巻いてからアップにしておりました。ドレスは赤」

「着けていた仮面の詳細を。ご自分で用意したものなら、細部までよくご存じですよね? 闇の中、遠目では見えないところまで」

「金のレリーフで縁どられた、金属製の美しい仮面ですわ。左側の目元に涙粒を模した小さなダイヤモンドが三つ。水の都ヴァレンチーノで流行のデザインですの」


 すらすらと答えるお嬢様。そう、まさにご自分で用意したものだから答えられる。お嬢様が私に渡したものと、よく似ていた――そう私がお嬢様に伝えているから。


「わたくしがデザインを考え特注したわけではないので、あんまりにも細かいところはご容赦くださいませ」

「……いや……こちらも、女性の衣裳の細部などよくわからない。正直、色と形しか覚えていない……」


 案の定、ラファイエット侯爵はそう言った。私たちの目論見通りに。

 黙り込んでしまった侯爵を、ロイさんが渋い顔で見つめる。


「どうします。会話の内容を再現しますか」

「……いや……俺もすべてを覚えているわけじゃないし、確かにこう言ったはずだと主張されたら、否定しきれない」

「言い張るってなんですの?」


 ベルメールお嬢様は、むっ、と機嫌を悪くしてみせた。


「ひどいですわっ。どうしてお二人とも、わたくしのこと信じてくださらないの? こちらにはこれだけ証拠が揃っていて、そちらには否定する材料が何もない。それでしつこく問答を続けるのはなぜですの。……そんなに、このベルメールが『彼女』であって欲しくない……と……?」


 お嬢様の声が詰まり、青い目がじんわり濡れていく。侯爵はハッと息を呑んだ。


「い、いやすまない、確かに礼を欠く行為だった」

「それを言うなら、婚約破棄の時点で不愉快でございます」


 伯爵も強い口調で言った。怒りと悲しみで拳を握り、それでも礼儀としてグッと抑えている……そんな演技で。


「手前は娘が生まれた時からずっと、おまえは将来、ラファイエット侯爵の妻になるのだよと教え育ててきました。遊びたい盛りの少女に、侯爵の妃教育は辛く感じたことでしょう。それでも親は心を鬼にして、時に厳しく折檻をして、あなたのために教育をしました」

「うっ……そ、そうなのか」


 そうじゃないです全部うそです。お嬢様はベタベタに甘やかされたお転婆ワガママお姫様で、しかも男好きで夜ごと遊び歩いております。

 ええそうですとも、とコクコク頷くお嬢様。


「淑女の教育は厳しいものでしたが、わたくし投げ出そうとしたことなんてありませんのよ。だって楽しみだったから。あなたの妻になれる日が」


 気持ちいいくらいに全部嘘です。小一時間前まで、あなたのことを河馬だのゴリラだの言ってました。今こうして傾いているのも、あなたの顔面が美しかったからです。

 お嬢様はもともと、美男子であればどんな輩だってすぐ惚れます。侍従の若い美男子は、だいたいお嬢様の御手付きです。


「おおベルよ、この父だけはわかっておるぞ。おまえほどけなげで一途に侯爵を想う娘はおるまいて」


 伯爵はそんなお嬢様を叱らずに、侍従の男子を追放するだけです。彼らはあなたを善良な人だと見て取って、泣き落としにかかってるだけなのです。


「亡き妻も、ベルメールとラファイエット侯爵の結婚式をなによりの楽しみにしておりました」

「……亡き……母親」


 侯爵は呟いて、俯いた。彼の視線の先に、ハンカチに乗せられた硝子屑があった。亡き母親の……私の母の形見。病の床、毎日少しずつ細くなっていった指で、私の手の平に乗せてくれた。

 ――これはわたしたちの結婚式の時、おとうさんが贈ってくれたものなのよ。リナが結婚するときは、これを使ってね――。


「……これは確かに、あなたが母から譲り受けたもの、なんだな?」


 そうです。かけがえのない、たった一つの私の宝物でした。


「そうですわ。見ての通り安物の、子どものオモチャですけどね」


 お嬢様は笑って言った。



 侯爵はじっと……しばらく、お嬢様を睨みつけていた。しかしふと、顔を上げる。

 そして突然、声を遠くに投げた。後ろにいた私に話しかけたのだ。


「君はこの家の侍女か?」

「えっ。は、はい……、そう、です」


 声は、自分でもびっくりするほど小さかった。泣き声だと悟られないよう、必死で震えを抑え込んだせいだろう。


「名前は?」


 どくんっ――大きく心臓が跳ねる。思わず偽名を口にしかけたが、隠す必要はないと思い直す。

 私はニッコリと、なんでもない微笑みを浮かべた。お嬢様ほど上手には笑えないけど。


「リナと申します」

「リナ……ではリナ。君もあの夜、仮面舞踏会会場に来ていたか?」

「は、はい。私はお嬢様の侍女ですから」

「だったら知っているな? このベル嬢が本当にあの場にいたかどうか。俺が出会った女性は、本当にこのベルメール嬢なのか」


 私は頷いた。


「はい。間違いありません。その通りです」

「……わかった。信じよう」


 侯爵は立ち上がった。イヤリングを再び丁寧にハンカチにくるみ、ポケットへ戻す。

 そしてテーブルへにある、婚約破棄の書類を取り上げた。


「フェンデル伯爵、この度はたいへん失礼を重ねてしまった。なんとお詫びすればいいのかわからない。これからは誠実に、ご令嬢と向き合っていきたく思う」

「お……おお、では婚約は継続ということで!?」

「わたくしと結婚してくださるのね、ティモシー様!」

「……うん。結婚しよう、ベルメール」


 頷く彼。伯爵とベルメールお嬢様はが跳び上がって喜んだ。ロイさんは肩をすくめ、やれやれという表情で嘆息。伯爵は歓声を上げながら部屋を飛び出し、メイドやフットマンの背中を叩いてげらげら笑う。侍従たちからもお祝いの声と拍手が上がり、ベルお嬢様は、ラファイエット侯爵の腕に抱きついた。まるでお祭りのようだった。

 私もずっと笑顔で拍手をしていた。


 ……これでいい。

 ……始まりは、あの嘘だった。私がお嬢様の身代わりになるべく偽った『貴婦人』だ。ラファイエット侯爵の心に小さな灯りを燈(とも)したのは、『私』ではない。

 そしてラファイエット侯爵は、お嬢様の婚約者だ。二人が結婚することは、私たちが出会う前から決まっていたこと。

 私は両親を敬愛していた。父は母を慈しみ母は父に尽くし、死がふたりを分かつまで、夫婦は愛し合っていた。それを横から、部外者が引っ掻き回そうなんて、嘘を吐くよりも罪深いことだった。

 ……これが、正しい道なのだ。


 その後。すぐにでも婚姻を成立させたがる伯爵と、自分の部屋に泊まるようにゴリゴリ推すお嬢様を、ロイさんが笑顔の圧で一所懸命沈黙させた。黙り込んでしまったラファイエット侯爵の代わりに、彼が喋るのが定例らしい。


「今日は話をするために来ただけです。婚姻締結はまた改めて……まだ顔を合わせたばかりですからね。これからゆっくりお互いを知ってから――」

「あらあ、わたくしとしてはいつでもあなたの子どもを授かる準備が出来てますのよ!」

「ははははは、頼もしいぞベルメール!」

「ほほほほほほほほ」

「ふ――本当素晴らしい、たいへん育ちのいいお嬢様ですねえはははははは、ははははは」


 あ。やばいロイさん、目も顔も笑ってないのに声だけめちゃめちゃ明るい。侯爵の凛々しい眉毛もどんどん中央に寄ってきている。私は慌ててお嬢様たちの前に出た。


「こ、侯爵様っ、あの、今日は遠いところをお越しいただきありがとうございました! 私いまからダッシュで門扉までいって、御者さんに馬を入れるよう言ってきますね!」

「ん……」

「えーもうお帰りになりますの? もっとごゆっくりなさっても、なんならお泊り頂いてもよろしいですのにー」

「はははははははは」


 ロイさんだけが笑う。ああああお嬢様、せっかく私がごまかそうとしているのに墓穴掘りを加速しないでーっ。


 冷や汗を垂らして、ラファイエット侯爵を振り返る。やっぱり彼は渋い顔を――いや、微笑んでいた。戯言を吐いたお嬢様にではなく、私に。そしてゆっくりと、手を伸ばしてくる。


 ……大きな手だ。私が知る他の誰よりも大きな手のひら、長い指が私の顔に近づいて……一瞬、視界が陰る。侯爵の手が、私の目元を隠したのだ。


 え……何を?


 それは一瞬のイタズラのようだった。侯爵はすぐに手を離し、私たちに背を向けた。


「それでは、今日の所はこれで。……またすぐ、近いうちに」


 異国で数万の軍勢を率いていたというラファイエット侯爵の声は、有無を言わせぬ威厳があった。


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