第4話 知ってはいけなかった名前
公爵邸では相変わらず、賑やかな社交が行われている。私たちふたりだけがこの薄暗い庭園で座り込み、会話を重ねていた。
話す内容は他愛のない雑談。今日出された料理のどれが美味しかったとか、お酒はどうかとか。(ちなみに彼は下戸で私は飲酒未経験で、全く盛り上がらなかった)鶏肉は揚げたものと蒸したもののどちらが好きかとか――あらやだ食べ物の話しかしてないな?
それもほとんど私がしゃべり、男は相槌すらろくに打たない。それでも彼が退屈していないのは伝わる。私は彼との会話を楽しんでいた。
途中、男が私に「本当にいいのか」と聞いてきた。何のことかと思ったら、あの壊れたイヤリングのこと。宝飾剣で『弁済』したのに、まだ気が済んでいないらしい。
「本当に安物のガラス玉なんですよ」
ハンカチーフに包んだそれを開いて見せたが、彼はまじめな声で言う。
「それならなおさら、金に換えられないものだったろう。他の女性はみな、宝石のピアスを着けていた。ガラス玉の、ましてや取れやすいイヤリングを着けてきたのは特別な意味があったのでは」
あら、意外とちゃんと見ているのね。それとも貴族としては欠かせない教養なのかしら。
母の形見で……と真実を言ってしまっては今度こそ腹を捌きかねない。私は髪を掻き上げて、からっぽの耳たぶを彼に見せた。
「それしか着けられるものが無かっただけです。私、ピアス穴が開いていないので」
「…………どうして?」
「どうしてって、開ける機会が無かったから?」
わざわざ聞くようなことでもないだろうに、私がそう答えると彼はやはり不思議そうにしていた。何か思うところがあるようだが、また言葉が浮かばないのだろう。私はもうこの話題ごと避けたかった。といっても私は平民の子、貴族社会など知る由もなく、あまり教養高い話をするとボロが出る。私が話せることで、彼と共有できそうな話題を探した。……そうだ、さっき月光華を見て綺麗だって言っていた。もしかしたら話をつなげられるかも?
「好きなお花って、何かありますが?」
彼はまた無言になった。たぶん、思い浮かびはしたが名前が分からないということだろう。
「分からなければ何か特徴を。咲いていた季節、あと色や形を言ってくれたら大体は当てられると思います」
「……青い……いや薄い紫のような小さな花」
ぼそぼそと話し始める。大好きな話題なので、私はウンウンと聞いた。
「夏の初め……十歳だった俺の背丈くらい、まっすぐ空に伸びていた。何もない平原にびっしり生えていた」
「土の質、はわからないか。生えていた場所は?」
私の問いに、彼は答えた。
「フィンドル伯爵領の入り口、穀倉地帯に入る少し手前だ」
「ああ、それなら亜麻(フラックス)ですね! あれは野生ではなく栽培してるんですよ、亜麻からは繊維や油や染料が取れるので」
平民でも領地の特産品くらいは知っている。まして私の専門分野、植物関係ならなおさらだ。嬉しくなって即答する私、そして彼の反応で己の失言に気が付いた。
「あなたはフィンドル領の住人なのか」
やばい。ここは王侯貴族のみ参加が許される公爵家主催の夜会、私は庭師の娘というド平民。正体がばれたら追い出されるし、我が主ことお嬢様が抜け出したこともバレてしまう。そんなことになったら、あとからどんな折檻を食らうか――ゾッと血の気が引く。
「わ、私は、その……ええと」
その時だった。カーン、カーンと高い金属音が聞こえてきた。十二時の鐘、夜会の終了を伝える合図だ。これ幸いと私は立ち上がった。
「あらいけないもうこんな時間、帰らないといけませんね、では失礼ごめんくださいませ今日は楽しかったですではっ」
足早に去りかけたのを、肩を掴んで止められた。無理やり振り向かされた先に、鉄兜越しのまっすぐな視線があった。
「行かないでくれ、まだもう少し話がしたい」
「そ、そんなこと言われても。ほらもう、時間ですし」
「では、またの機会を作る。あなたの家(なまえ)を教えて欲しい」
「……それは、できません。……マナー違反ですよ」
今宵は仮面舞踏会、現世の身分も名も偽って、あとは何もかも忘れる日――私はそういう意味で言ったのに、男は何か誤解したらしかった。ああ、と合点がいったように頷いて、己の鉄兜に手をかける。
「俺も仮面を被っていたのを忘れていた。人に聞く前に自らが名乗らぬとは失礼をした」
「そういうことでなく!」
止める間もなく、男は鉄兜を取り去った。冷たい金属の下から、甘やかな春の風を思わせる、桃色の髪が落ちてきた。
「うぉわっ」
思わず、変な声が出た。
野生の熊みたいな体型に、鉄兜で夜会に出ていた変人――その素顔は、想像とは真逆の造形(かたち)をしていた。
少しクセのある長めの桃金髪(ピンクブロンド)と、同じ色の長いまつげ、すんなりと筋の通った細い鼻。女性的というわけではない、男性以外の何物にも見えず、眉などきりりと太くて雄々しいのだ。だけど――美しい。そう、鉄仮面男の素顔は息を呑むほどひたすらに、美しかった。厳つい体格に似合わず、大きな目はどこまでも澄んで青く、桃金髪の髪だってちっとも違和感なんか無い。
鉄仮面男の素顔は、あまりにも…………良すぎた。
衝撃のあまり何も反応できなくて、絶句する。彼は自嘲気味に微笑んだ。
「……すまない、こんな見苦しい姿で……。今朝がた長い船旅を終え帰国したばかりで、散髪が間に合わなくて」
……いや……。その顔面なら、くるぶしまで長く伸ばしてもお似合いだと思いますが。
あまりの衝撃に、つい逃げだす足が止まってしまった。それを幸いと、鉄兜男もとい女神の化身みたいな色男は、私の前に跪く。あの、女王陛下への最敬礼だ。彼が出来る最大限の努力を用いて、彼は私に願う。
「どうしても名乗れないなら、俺の家を訪ねてほしい。――俺の名はラファイエット。ティモシー・エルンスト・ラファイエット」
「ラファイエット……」
お名前も凛々しい。美しすぎる顔が、私の指先に触れている。
「今朝、遠征から帰って来たばかりで、今すぐは無理だが、すぐに屋敷(やしき)を整える」
私は陶然としてしまった。頭がぼんやりして、桃色の霞に覆われていた。嬉しかったのだ、彼の言葉が、どうしようもなく。彼が素顔を見せる前から私はもう彼に惹かれていた。彼も私のことを? 嬉しくてドキドキして、舞い上がっていた。唇が理性を裏切る。
「わ……わたしは。私の名前は」
ラファイエット。
…………ラファイエット?
…………今朝、遠征から帰ってきた軍人侯爵。海外に出征中、ロマンチックなアプローチを知らない堅物の婚約者。幼少から兵舎で育ち、女性と話したことがないラファイエット。
ラファイエット……侯爵。ベルメールお嬢様の婚約者……。
私は悲鳴を上げた。
十二時の鐘はとっくに鳴り終わっている。偽りだらけの時間は解けたのだ。そのことにやっと気が付いて、私は彼を突き飛ばし、全力疾走でその場を逃げ出した。
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