第2話 慮る必要のなかった相手

 というわけで私は今、公爵邸の庭園、夜会会場にいる。明かり用の灯があちこちに焚いてあったけど、あくまで屋外。肩出しのドレスが猛烈に寒く、そしてお腹がペコペコである。仮面は目元だけを覆うものなので飲食は可能だけど、食べ物の置かれたテーブルには人がたくさん集まっていて、あまり近づきたくなかったのだ。テーブルマナーもろくに知らないし、話しかけられたら何て答えたらいいか分からない。


――リナも気に入った人がいたら――。


 ふと、お嬢様の言葉が思い出される。そんなこと、あるわけないのだが。

 私はひたすらぼんやりと、時間がたつのを待つばかりだった。


 それにしても……ふしだらな夜会だなあ。


 遠目に眺めながらぼんやり思う。


 真面目に政治の話をしている人なんて誰もいない、それどころかあっちでもこっちでもイチャイチャして、テーブルの下で手を繋いだり足を擦り合わせたりしている。

 ……おや、あの肩幅と足運び、あそこにいるのは去年結婚したばかりの男爵では? あちらにいる谷間が規格外のご婦人は子爵夫人。この間フィンドル家に、可愛いお子さんたちを連れてお茶しに来ていたのに。


 お嬢様の言った、この日ばかりは羽目を外して……というのは、ここにいる全員の総意らしかった。

 貴族の結婚はお互いの恋愛よりも親同士、家同士の結びつき狙いで縁組されるもの。一夜の恋が唯一のときめきというわけだ。

 だけど顔も名前も分からないんじゃ、恋ですらない。ただの快楽だ。

 私ももう十六歳、年ごろの乙女だから、恋愛に興味が無いわけじゃないけど……。


 何処からともなく「ああんっ」と甘ったるい声が届き、思考を遮る。ああ居心地が悪い。


 私はその場を離れることにした。広い庭園だ、人の集まる建物付近から距離を取っても、敷地から出たことにはならないだろう。照らされる範囲に人の気配が無くなったところで、やっと人心地着く。もうしばらくは、ここで時間をつぶさなければならない。

 人気のない庭園でやっと人心地つき、私はブラブラと花を見て歩いた。さすが公爵邸、庭園庭師はいい仕事をしているようだった。土の材質や枝ぶりを見てため息をつく。


「いいなあ。私もこんな庭を作ってみたい……」


 私は十二歳まで、庭師の父に見習って作業していた。だけど女手が足りないからと無理やりメイドにされ、さらにお嬢様に見いだされ、専属の侍女となった。お嬢様の身代わりとして――同じ年齢で体格や髪色がよく似ていたから。

私はこれまでにも何度となく、お嬢様の身代わり、影武者をさせられてきた。面倒な行事から抜け出すときや、お嬢様が壊したものの犯人役、面倒な習い事を受けさせられ、その流れで宿題までやらされた。

 結果として貴族しか得る機会のない高等教育や、美味しいお菓子をいただくこともできたけど……。本当はあのまま庭師として生きていきたかった。侍女の仕事は、肉体的には楽だけど、気持ちが華やぐことはない。

 やっぱり私は庶民なのだ、パーティーもお酒も興味が無い。このドレスも似合っていないだろうし……。

 耳元にそっと手を当てる。そこには母の形見のイヤリングがあった。お嬢様にお仕着せ、もとい貸していただいたドレスと違い、私が持っているものの中で唯一のアクセサリーだ。安物のガラス玉だけど、遠目にはダイヤモンドに見えなくもない。

 私にはこれくらいがちょうどいい。


「はあ。庭仕事がしたい。土に触りたい……」


 そう呟いたその時だった。

 ドン、と強い衝撃で体が揺らぐ。前からきた男性にぶつかられたのだ。それもとびきりの大男が、完全に余所見をしていたのだろう、相当な勢いで突進された。


「ああっ、イヤリング――!」


 衝撃でポロリと落ちたイヤリングに手を伸ばす。捕まえるより前に、大男が私の体を捉まえた。空中で空振りする私の手、さらに運悪く、落ちたところが硬い石の床だった。

ピキィン……と澄んだ、ガラス玉の割れる音。慌てて拾い上げる。砕け散ってこそいないものの、やはり大きなヒビがはいっていた。


「そんな……!」


 母の形見……私の持つたったひとつの宝物が……。


 私はギロリと男を睨んだ。

 男は、何も言わずにただ立っていた。私の手にある壊れたイヤリングを見下ろして、ぼんやりしている様子。私はさらに頭に血が上った。

 この夜会にいるってことはきっと貴族なのだろう。だからって人にぶつかって、さらに大事なものを壊しておいて謝りもしないなんて許せない。そうだ、この夜会はみな仮面をつけていて正体も身分もわからない。相手にとっては、私もどこかの上級貴族令嬢だ。たとえ貴族が相手でも、少しくらい強気に言ったっていいだろう。私は彼に詫びを求めようとした、その前に。彼はその場に膝をついた。


「えっ?」


 私の手を取り、額を押し付ける。まるで騎士が神に祈るように、女王に慈悲を乞うようにだ。庶民の私は、こんなことをされたのは生まれて初めて――いやベルメールお嬢様だって、侍従以外に跪かれたことなどないだろう。さっきまでとは違う意味で顔に血が集まり、くらくらする。


「そ、そんなふうにしろなんて言ってないわ」


 彼は顔を上げた。

 間近でその造作を見て、私はギョッとした。


 彼もまた、この夜会のドレスコードである仮面をつけていた。しかしその造りが、なんというか――兜だ。普通、私含めて参加者たちが付けているのは、羽を広げた蝶や鳥を模したきらびやかな飾りの仮面だ。ところがこの男の仮面ときたら、飾り気のない鋼鉄製。戦場の兵士が被るような、鉄兜(ヘルメット)なのである。そりゃあ、それで顔は隠れているけどさ……。口元が見えるだけ頑張ったと言えよう。


 何だろう、変な人だ。関わらないほうがいいのかも。

 私がじりじりと距離を取っていると、男は困ったようにあたりを見回した。そして急に立ち上がるなりのしのしと大股で進み、またしゃがんだ。

 ……つい気になって、後ろから覗く。彼が伸ばした手の先に白く美しい花が咲いていた。男が茎を指でつまんだ瞬間、私は悲鳴をあげた。


「やめて! その花を抜いてはだめっ!」


 男が動きを止めた。私は慌てて駆け寄り、男の手を掴む。


「その花は月光華、年に一度しか咲かないの。つぼみになるまでだって何年もかかる。土や水の世話も難しいし、公爵家の庭師はずいぶん苦労してやっとそれを咲かせたのよ。貴族の気まぐれで手折っていいようなものじゃないわ!」


 男は私の口上を、ポカンと口を開けて見上げていた。

 ……しまった、熱が入りすぎた。私ったらつい、庭師の血が騒いでしまった。普通の貴族は、庭の花など、綺麗だなあと眺めはすれど名を覚えたりしない。男が気軽に折ろうとしたからって、ここまで怒鳴ることは無かった。


「ごめんなさい、言いすぎました」


 私は素直に謝った。すると男は今度こそ挙動不審になった。大きな手で、自分の体をバシバシ叩き始めたのだ。なんだろう、ゴリラの真似?

 それでも彼が思う結果は得られなかったらしい、諦めたように肩を落とすと、そのまま動かなくなってしまった。

 ……しばし流れる、気まずい沈黙。そこで私はふと、ある可能性に気が付いた。


「あの、もしかして口が利けないかたでしょうか?」


 そうだ、派手にぶつかったとき悲鳴も上げなかった時点で、その可能性に気付くべきだった。だとしたら謝罪を求めるほうが無茶というもの。もしかしたら耳も聞こえていないかも? だったら私が何を怒っているのかすら伝わっていないかもしれない。

 どうフォローしたものかと悩んだ挙句、私は地面にしゃがみこんだ。適当な小枝を拾い、土に字を書き込む。

『私の声は聞こえますか。ここから先は筆談で』

 書き始めた手を掴まれた。


「……いや、すまん。…………俺は、無口なだけだ…………」


 鉄兜の大男は、体型にそぐわぬ野太い声でそう言った。

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