弟▶︎妹 〜三兄弟長男の俺、本当は妹が欲しかったので弟に女装させて俺好みの妹にしてみてもよろしいでしょうか?〜

引きこもりチーズ

第1章 弟▶妹

 ピピピピピピピ––––––。

 携帯から発せられる軽快な電子音が、眠い意識を無理矢理に引っ張り上げる。微睡んだままアラームを止めて、すぐに眠気の波にさらわれる。

「––––––ゃん。–––いちゃん。起きて、お兄ちゃん」

 流れるように二度寝を決め込んだ俺を、嗜めるように優しい声で起こしてくれるのは我が妹。慈愛の満ちた瞳、聖母のような微笑みで見つめてくる俺がこの世で最も愛する人間だ。

「日向(ひなた)。いつも起こしてくれてありがとう。ご褒美におはようのチューを––––––」

 バチーン、と世界がひっくり返るような衝撃。

 おかしいな。

 俺は今優しい妹に起こされていたはずだ。ご褒美のチューをしてあげるはずだったのに。いつもなら喜んで受け取ってくれるはずが、今日返ってきたのは紛れもない平手打ち。これ以上ないほどのいい音を立てた、世界一のお手本となるようなビンタだった。

「きっしょ」

 そこにいたのは俺の“弟”。

 蔑むような目で俺を見下ろし、般若のように感情の読み取れない表情で捨て台詞を吐いて去っていく。

「なんで、なんで俺には妹がいないんだ––––––––––––!!!」


 俺の名前は真榎太陽(まなかたいよう)。人よりも『妹が欲しい』という熱意(おもい)が強いだけの、そこらへんにいる普通の大学生だ。三人兄弟の長男で、二人の弟がいる。

 意識をシャッキリさせるために洗面所に向かい、最悪な目覚めを払拭するように顔を洗う。それでも、完全には拭いきれず煮え切らない気持ちのままリビングへ向かう。食卓には、すでに朝食が並んでいた。

「おはよう、兄ちゃん。朝ごはんできてるよ」

 エプロンを外しながらキッチンから出てきたのは小柄な男の子。

 名前は葵(あおい)。

 パッチリとした大きい眼に、鼻筋の通った顔は女子と見紛うほどで、男と分かっていてもときめいてしまう。全体に纏うほんわか柔らかい雰囲気は、可憐さを際立たせ周りの空気を一瞬で和ませてくれる。赤ちゃんの頃に女の子に間違われるとはよく聞く話だが、葵は今でも女の子に間違われることがあるほどで、本人も困っていると口々に言っている。今日みたいに俺が何かを失敗した時には静かにフォローしてくれる優しい弟だ。

「寝坊してごめん。朝飯、ありがとな」

「んーん。大丈夫だよ」

 葵と向かい合って座る食卓には、二人分の朝食が用意されている。

 さっきも言ったが、俺には二人の弟がいる。朝食は俺含めて三人分なければいけないが、これは普段通りなので問題ない。

 なぜかと言うと、もう一人の弟はバスケ部に所属していて普段から朝練で家を出ていくのが早いのだ。そのため、一人だけ早めに朝食を済ませてさっさと出ていってしまう。

 その、もう一人の弟の名前は日向(ひゅうが)。

 キリッとした顔立ちの美男子で、本当に俺と血が繋がっているかと疑問に思うほどの完璧超人だ。と言うのは表向きの顔で、実はおっちょこちょいな一面があったりするかわいいやつだ。本人はおっちょこちょいだと思われるのが嫌でどうにか隠そうとしているが、兄の俺にはお見通しだ。一年生ながらバスケ部のエースとして期待されており、男女ともに人気のある自慢の弟だ。

 日向と葵は双子の兄弟で、兄が日向で弟が葵。この春から高校生だ。

 顔はほとんど同じなのに、何となくの印象が真反対で見分けが付きやすくて大変助かっている。

 そんな、文句の付け所のない二人の弟を持って幸せいっぱいだが、俺にはどうしても満たされない渇きがある。

 そう、それは“妹”。

 俺は、“妹“が欲しいのだ。

 でも、今更妹が欲しいなんて両親には言えない。だって恥ずかしいじゃん。

 ちなみに、そんな両親はというと、俺が高校を卒業したことをいいことに好き勝手に海外を飛び回っている。今でも夫婦仲良好、ラブラブなのは良いことだし羨ましいが、息子としては見ているのが少し恥ずかしい。

 そんな両親だからワンチャンあるかも、なんて淡い期待を抱いていた時期もあったが、今ではあまり期待していない。そもそも、今できたとしても如何せん歳が離れすぎていてなんか違う。

 つまるところ、俺は文句のつけようのない素晴らしい弟が居ながら、『妹が欲しい』という叶わない願いに苦悩する薄情な兄貴って言うことだ。

 そもそもの話、俺がなぜこれほどまでに妹を欲しがっているのかを話す必要があるだろう。

 あれはまだ俺が小学生の頃の話。夏休みの間だけと言って、親の友人の娘が泊まりに来ていたことがあった。その娘は年下で、日向たちと同じくらいの歳だったはずだ。その時に妙に懐かれてしまったのだが、俺も俺で世話を焼くのが楽しくなってしまって、ほとんどの時間を一緒に過ごしていた。

 泊まりに来ていた娘のことはあんまり憶えていないのだが、この時の感情は今でも鮮明に想い出せる。

 かわいい妹のような存在と過ごした時間がとても好きで、これ以上ないくらい楽しかった。それなのに、どうしても満たされない飢えのようなものが俺にはあった。

 その正体に気付いたのは、この時から大分時間が経った後だった。

 俺は単純に、妹の“ような”存在では満足できなかったのだ。

 創作だとかでよく見る妹系幼馴染だとか、従姉妹とかみたいな偽物では意味がないのだ。そんなものは妹を騙る許し難き存在だ。

 赤の他人などではなく、この身に流れるものと同じ血が流れている妹が欲しいのだ。

 それが、俺の求める“真の妹”。

 存在していないはずなのに、愛してやまないもの。

 まるで、望むほどに辿り着けぬ理想郷のように、求めるほどに遠ざかっていく。

 果たして、俺は理想郷(そこ)に辿り着くことができるのか。

 これこそ、真榎太陽の生涯における最大の命題なのである。

「そういえば。ひなた、出かける時に少し不機嫌だったけど兄ちゃん何か知ってる?」

「え、いや……。な、何でかな」

 心当たりはあるが、何もなかったことにしよう。

 ただでさえ、日向には少し見下されている気がするのに、これじゃあ兄弟仲が悪くなる一方だ。昔は、「お兄ちゃんお兄ちゃん」って甘えん坊で可愛かったんだけどな。

 対照的に、葵とは昔から距離感が変わらない。ゆるい感じでいて意外としっかりしているから、小さい頃から世話の掛からない良い子だった。日向が甘えん坊だった分、あまり構ってやれなかった記憶があるが、同時に衝突した記憶もあまりない。仲が良いとは言えないかもしれないが、近く遠くもない絶妙な距離感だ。

「じゃあ、ボクももう行くね」

「おう。気を付けて行ってこいよ」

 俺の講義は昼からだしとりあえず部屋に戻るか。

 階段を上った先の2階。二つの部屋が並んでいる廊下の奥。そこの部屋が俺の部屋だ。もう一つの部屋は日向と葵が二人で使っている。

 昔、二人で同じ部屋は窮屈じゃないかと聞いたことがあったが、元々大きな部屋だからそうでもないと言われた記憶がある。双子なこともあってか、真反対な性質に見えて意外と気の合うところのある二人のことだから、本当に問題はないのだろう。

 開きっぱなしだった二人の部屋の扉を閉める時、ふと視界に入った室内を見てそんなことを思い出す。

 先に課題を終わらせておくか、と思い立ち自室の扉を開ける。

 

***


 朝練を終えて制服に着替える。更衣室を出ると、校舎は多くの生徒で賑わっていた。自分が来た時は時間が早いのもあってまだまばらだった生徒が、始業時間が迫っていることもあり人が増えている。

 人の視線を感じながら自分の教室まで移動する。

 スライド式のドアを開けると、教室内はいくつかのグループの会話で賑わっていた。

 窓際にある自分の席に座ろうと荷物を置いたとき、一人の男子が近づいてきた。

 双子の弟、葵だ。

「ひなた。お弁当持ってきたよ」

「ありがと。兄貴、なんか言ってたか?」

「? 何も……?」

 朝練でリフレッシュできたはずの曇った感情が、今朝の出来事を思い出してまたぶり返す。反射的に平手打ちをしたことに非は感じるものの、今朝の兄貴には怒りと失望が溢れ出しそうになる。

 いや、やめておこう。

 あんな奴のことを考えるだけ時間と体力の無駄だ。

「ひ・な・たくぅ〜〜〜ん。この前の試合も大活躍だったじゃないか。同じ一年の癖して、こいつはあ〜〜」

 暑苦しく背中に飛び付き肩を組んできたのは、クラスメイトにして幼馴染の男子。柳冬馬(やなぎとうま)という名前のそいつは、腐れ縁とも言える数少ない気の置けない友人の一人だ。が、どうしても気に食わないことが一つだけある。

 それは––––––––––––。

「オレのことをひなたって呼ぶなって、何度も言ってるだろ」

「ええ〜〜。でも、葵は呼んでるじゃんか」

 口を尖らせて抗議してくる幼馴染に、もはや恒例となった切り返しをする。

「葵は家族だからいいんだよ」

「いっつも思うけど、それ理由になってなくないか? な、葵」

「ボクに振らないでよ。あと、人の嫌がることはするべきじゃないよ」

 鞄から文庫本を取り出し読む姿勢になっていた弟は、面倒臭さを隠すこともせず溜息混じりに一蹴する。

 弟が心の優しい人間に育って嬉しい限りだ。まあ、双子だけど。

「それより、席についた方がいいんじゃない? そろそろ始まるよ、ホームルーム」

 やべえ、というように慌ただしく去っていく幼馴染に冷たい視線を送る。

 冬馬の騒々しさは時には頼りになるが、基本的には喧しくて敵わない。

「相変わらずだな、あいつは」

 葵も、無言の頷きで同意を示してくる。

 程なくして始業のチャイムが鳴り響いた。

 今日の一限は体育。

 そのためか、今朝のホームルームは連絡事項を伝えるだけという軽いものだった。

「朝練の後にすぐ体育とか大変だね。ボクだったら絶対やりたくないよ」

 更衣室までの移動の途中、葵が話し掛けてくる。

 葵にはこういうぐうたらな一面がある。決して運動ができないわけではないが、体を動かすことを嫌っている傾向がある。

「そんなことないさ。朝練のおかげで体が温まってるからむしろありがたいよ」

 返事の代わりに、うへえ、とあからさまに嫌そうな顔をしてくる。

 着替えを終えて、生徒が校庭に集合する。

 今日の内容は陸上競技。短距離走や長距離走がメインになるだろう。

「まったく……、走るだけに何の意味があるのか」

 あからさまに不機嫌な態度で悪態をつく弟に乾いた笑いしか返せない。

 クラスメイトたちが、白線で作られたトラックを駆け抜けていく姿を眺めながら順番を待つ。

「次、真榎(まなか)! 100m(メートル)、タイム測るぞ」

「はい」

「はぁい」

 オレたちの順番が回ってきて、先生に名前が呼ばれる。

 こういう場合、双子のオレたちは大抵一緒に走ることが多い。

 スタート位置に立って、姿勢をとる。

「体育の嫌いなところは、絶対にひなたと一緒にやらされるところなんだよなあ。ボクが勝てるわけないじゃないか」

「まあ、そう言うなって。単純な足の速さならあまり変わらないだろ」

「ボクには走り切るスタミナがないの––––––––––!」

 バンッ! と言い終わると同時に空砲が響く。

 ほぼ同時にスタートを切ったが、コースの半分を超えたあたりから二人の間には差が生じている。ゴールに着いた頃には、およそ人一人分ほどの差になっていた。

「はあぁ……、ふう–––––––––」

「……ぜえぜえ。……もう無理。立ってられない」

「大丈夫か? でも、ちゃんと走り切れたじゃん」

「もうバテバテ……、だよ」

 パンッ! と次の組みのスタートの合図が響き、ゴールに向かって駆け込んでくる。

 座り込んでしまった葵に手を差し伸べて無理矢理立たせ、邪魔にならないように脇の方に捌(は)ける。

「やっぱり速いね、ひなた。普段運動しているだけあるよ」

「そりゃそうだ。逆に、あれくらいの差しかない方が驚きだ。普段、ぐうたらしてるのに」

 実際、葵のポテンシャルには舌を巻く。本当は一緒にバスケとかしたいと思っている。ちゃんと練習したら優秀なプレイヤーになれるはずだから。とは言え、本人がこういう気質だから無理強いはできない。勿体無いとも感じるけど、仕方のないことだ。

 日陰までやってきて再び座り込んでしまった葵を見ながら、それでもやっぱり少し惜しいと思ってしまう。

 スタートの合図を告げる軽快な破裂音が再び響く。トラックの方を見ると、丁度冬馬が同じように100m(メートル)を走っているところだった。

 完走してすぐ、軽快な足取りでこちらに向かってくる。流石にオレと同じバスケ部に所属しているスポーツマンなだけあって、葵とは違いバテている様子は微塵も感じられない。むしろ、もっと走れるというような気概すら感じ取れる。

「やあやあ、お二人さん。相変わらずだねえ」

 いつも通りの調子の良いような声でよくわからないことを言ってくる。

「相変わらずって、何が」

「?」

 オレと葵は反応の仕方こそ違えど、同じ意図の返しをする。

「相変わらずモテてますなってことだよ。まったく、羨ましい限りだねえ」

 冬馬の視線の先を見ると、チラチラとこちらの様子を伺っている女子たちの姿があった。

 体育の時間は男女別で、どちらかが校庭を使用し、もう一方は体育館で行うことになっている。

 うちの学校の体育館は二階に存在するため、校庭を見渡すことができる。

「はあ……。お前なあ」

 この手の話はあまり得意じゃない。

 恋愛だとか、正直興味ない。興味のない話なんて、誰だって苦痛だと思う。

 それに、興味がどうとか以前に今のオレにとってはバスケが一番だ。そんなものに現(うつつ)を抜かしている暇はない。

「とうまぁ〜。そんなことより、この前言ってたゲーム、どこまでやった?」

 オレのことをよく理解してくれている葵は、この手の話題が始まろうとした時、すぐに別の話題にすり替えてくれる。全く、ありがたい限りだ。

「ああ、あれな! 全然進んでねえよ。葵は?」

「ふふーん。ボクはもうほとんど終わったよ。今はコンプ目指してるとこ」

「ちなみに、葵の推しは誰だ?」

「ええ〜。全然進んでないんでしょ〜? ネタバレになるから言わな〜い」

「なんだよ、それぇ」

 かと言って、この二人が集まってする話といえばテレビゲームのことが大半だ。

 体を動かす方が好きなオレにとって、テレビゲームはどうしてもつまらなくて続かない。

 だから、この話題にはついていけない。

 楽しそうに話す二人を眺めながら時間が過ぎる感覚に身を預ける。

 数少ないのんびりできるこの瞬間が、確かに好きだと感じていた。

 そんなこんなで一限は終わり、次の二限は数学の小テストだった。

「くっそ〜。抜き打ちとか聞いてねえよ。最悪だ〜」

「普段から勉強してないからそうなるんだぞ〜」

 情けない声で文句を垂れる冬馬に、容赦のない正論をぶつける葵。

「そんなこと言ったって〜。てか、葵だって普段勉強してないの知ってんだぞ。なんで、お前はできるんだよ?」

「なんでかなあ。ちゃんと授業聞いてればわかると思うけどなあ〜」

「お前、授業中だって寝てるじゃんか! 不公平だ〜」

 癇癪を起こした子供のように嘆く冬馬。

 葵は葵で異常だが、やればできるだろうとも思う。

「まあ、オレから見ても葵の要領の良さは異常だけど、文句を言ったって始まらないだろ」

「そーだそーだー」

「うるせえ! 日向だってできるからそんなこと言えるんだ! 裏切り者!」

 別に、裏切ったつもりはないが。

「今度、暇があったら教えてやるから勘弁してくれ」

「言ったな! 約束だからな。あとで忘れたとか言うなよ!」

「はいはい」

 このやりとりも、中学からの繰り返しで慣れたものだ。

 この後、冬馬が小テストに惨敗したことは想像に難くない。

 なんてトラブル(?)がありながらも、午前の授業を乗り切った俺たちは昼休みを迎えていた。

「はあ〜。やっと昼休みだ。腹減った〜」

 言いながら鞄から昼食を取り出す冬馬に続き、オレたちも弁当を取り出す。

 同時に机の上に置かれた二つの弁当箱を見ると、冬馬は不思議そうに首を傾げた。

「あれ、お前らの弁当、なんかいつもより地味じゃね?」

 その問いには、オレではなく葵が答える。

「兄ちゃんが寝坊しちゃってさあ。今日はボクが作ったんだよ」

「ああ、それでか。てか、いつも太陽さんが作ってくれてんの?」

 こいつが“太陽さん”と呼ぶのは、もちろんオレたちの兄である真榎太陽のことだ。

 それほど面識があったような記憶はないのだが、なぜだか冬馬は兄貴に尊敬の念を抱いているように見える。

 心底不思議なのだが、どうせくだらない話だろうから聞いたことはない。

「いつもと言っても、ここ最近の話だ」

「いーなー。俺も妹に作ってもらおうかな〜」

「妹って。とうまの妹、まだ小学生じゃなかった?」

「そうだけど?」

「いや、そうだけどって……」

 冬馬の兄馬鹿っぷりは相変わらずだな。

 この感じが妹に鬱陶しがられていることは誰が見ても一目瞭然なのだが、当の本人は気付いていない。

 もし、知ることがあったらショックで死んでしまうんじゃないか?

 口が裂けても俺からは言えないな。

「あ、あの! 日向くん。ちょっといいかな?」

 三人で昼食を食べているところに、同じく三人組の女子が話し掛けてくる。

 一人の女子が前に出て、他の二人は見守るように一歩引いた位置にいる。

 後ろの二人が、「ほら、言っちゃいなよ」、「きっと大丈夫だからがんばって」などと前の女子を煽るように声援を飛ばす。

「い、今、いいかな? 話したいことがあるんだけど……」

 経験上、この後の展開は大体わかる。

 とはいえ、おざなりな対応をするのも後味が悪い。

「うん。大丈夫だよ」

「じゃ、じゃあ。校舎裏で待ってるね」

 言うや否や、小走りで去ってしまう。

 残った二人は、きゃあー、と自分のことでもないのに騒ぎながら後を追っていく。

「ひなた––––––––」

 心配そうに声を掛けてくる弟に、口元に人差し指を当てる仕草で制止する。

「大丈夫だよ。行ってくる」

 ひとり席を立ち、指定された校舎裏に向かう。

「相変わらずなあ。一人くらい俺に告ってきてもよくね?」

「そんなこと言ってるからダメなんじゃない?」

 背後からは、残された二人のそんな会話が聞こえた。

 校舎裏に行くと、後ろにいた二人の女子はおらず、ひとりだけが待っていた。

「ごめん。待たせた?」

「ぜ、ぜんぜん!」

 そこで会話が終わってしまう。

 もじもじと黙り込んでしまう女の子を前に、しかし、何も言葉を掛けられない。

 こういう時、葵はどうしてるんだ?

 沈黙に耐えるのにも限界だと思った時、目の前の女子が深呼吸をし始める。

「あ、あの!」

 急な大声に体が跳ねる。

「そ、その……日向くんのことが好きです! 私と付き合ってください!」

 深々と頭を下げる女の子。

 でも、答えは最初から決まっている。

「ごめん。恋愛とか、あまり興味なくて。だから––––––––」

 言い終わる前に、女の子は走って行ってしまう。

 この瞬間だけは、何回やっても慣れない。

「はあ…………」

 自然と溜息が溢れる。

 結局、後味が悪いのは変わらないのだ。


 午後の授業も軽くこなし、六限の終わり。

 つまり、一日の授業の終わりを告げる鐘の音が響く。

 放課後の時間が訪れ、バスケ部に所属しているオレは練習に向かおうとする。

「じゃ、ボクは先帰るから。部活、がんばってね」

「うん。そっちこそ気を付けて帰れよ」

 教室を出る際に葵と別れる。

「じゃーなー、葵」

 後ろから追ってくるように冬馬が教室から出てくる。

 葵に別れを告げると同時にオレを逃さないように肩を組んでくる。

「すぐに練習始まるだろ? 早く行こうぜ」

「とりあえず、痛いから離してくれないか」

 冬馬のこの無理矢理な感じには呆れ半分、諦め半分といった感じだ。

「あのぅ〜。少しいいでしょうか、お二人さん」

 部室に向かうため歩き出そうとした時、唐突に背後から声を掛けられる。

 振り向いたオレたちは、全く気配も感じずに現れたその存在に、反射的に仰け反ってしまう。

 そこに立っていたのは、丸眼鏡と三つ編みに結った黒髪が特徴的な女の子だった。

 驚いたのは、何も急に話し掛けられたことだけではない。話し掛けてきたその相手にも驚きを隠せない。

 なぜかというと、クラスメイトではあるが彼女と話したことは一度もなかったからだ。たいして話したこともない人に急に話し掛けられたら誰だって驚くだろう。

 そもそも、オレは普段女子とは碌に喋らない。女の子に告白されることは多い方らしいが、日常会話となるとほとんど記憶にない。遠巻きからの視線はよく感じるが、ちゃんと関わったことのある女子の方が少ない。

 ましてや、彼女のような雰囲気の女子とは特に喋った経験がない。派手めな雰囲気を纏った女子とは何度か話した事がある。会話というよりは、捲し立てるように投げ掛けられる言葉を聞いていただけなのだが。正直、そういう人間はあまり得意じゃなくて困る。だからと言って無口で喋ってくれなさそうなおとなしい娘も苦手だ。

 どちらにしろ、学校では葵と一緒にいる事が多いから、こういった手合いの対応は任せっきりにしている。

 もっと言うと、本当はオレは人と関わるのが得意な方じゃない。能力的にできないと言うわけではなく、好き嫌いで言うところの“苦手”だが。

「どうした? なんかあった?」

 葵ほどとは言わないが、なんだかんだでオレのことを理解してくれている冬馬は、こう言うときに頼りになる。本人がお喋りなのもあるが、オレがあまり喋らないことを察して率先して会話を回してくれる。

「いえ。柳くんは今日、掃除当番です。勝手にどこか行かないでください」

「ええ!? ちょっと待ってよ、部活が–––––––」

「そんなことはみんな一緒です。一人だけサボりとか許されませんよ」

「ああ、そんな殺生な! 助けてくれー、日向(ひゅうが)あぁ〜〜」

 オレは、遠くなる声を背にひとり、部室へ向かうのだった。

 

 放課後になってからそれなりの時間が過ぎた頃。日も傾き始め、空が朱色に染まっている。

 バスケ部の練習も終わり、帰るために部室に置いた荷物をまとめていると、携帯に通知が一つ。

『太陽:悪い。今日、帰るの遅くなる』

 兄・太陽からの、葵も含め兄弟三人のグループチャットに送られたメッセージ。

 続けて、通知がもう一つ。

 葵が了解の旨を伝えるスタンプを送ったらしい。可愛いのかどうかもわからないゆるキャラ風なキャラクターというチョイスが、あいつらしくて不思議と笑みが溢れる。

 自分も『了解』とだけ短く返す。

 兄貴も今年から大学生になって新しい環境に身を置いている。去年まではまだ両親が家にいたことから、炊事洗濯など家事全般には困らなかったが今年からは違う。人に頼ってばかりではいられない。

 少なくとも、兄貴がこういった連絡をしてくるのならきっと夜ご飯は自分たちで済ませてほしいということだろう。まあ、これに関しては帰ってから葵と相談するか。

 葵との個人チャットに、帰り際に何か買っていった方が良いものがあるかどうかを聞く旨のメッセージだけ残して校舎を出る。

 程なくして、葵から返信。

『葵:大丈夫。何もいらない』

 じゃあ、まっすぐ帰るか。

「日向ぁーー!」

 大きな声で呼び止めて、全力ダッシュで近づいてくる幼馴染。

 まるで、犬だな。

「途中まで一緒に帰ろうぜ」

「近所迷惑だから、もう少し声を抑えろ」

 今日の帰り道は退屈しなさそうだ。

「今日の練習もキツかったなあ〜」

「そうか? レベルが高くて楽しいだろ」

「え〜、毎日毎日、先輩に扱(しご)かれて大変だろ。日向はそんなことなさそうだけど」

「そんなことないだろ。オレだって同じだ」

「同じかあ〜? 俺なんて今日大変だったんだぜ? 先輩がさ––––––––––––」

 気付けば、冬馬の愚痴大会になってしまった。

 よくもまあ、そんなに喋ることがポンポン出てくるものだ。こういうところは少し羨ましく思う。

 オレは、会話を続けるのが苦手だから。

「それで妹がさ–––––––。ああ、俺こっちだ。じゃあな」

「また明日」

 いつの間にか、冬馬の妹自慢に話題がすり替わっていた。

 どういう反応をすればいいかもわからず、微妙な相槌ばかり打っていた気がする。

 そんなオレのことも気にせず、気持ちよく話せるのはあいつの長所の一つだろう。

 そんなこんなで、もう家の近くだ。

 すっかり暗くなった空を眺めながら、人気(ひとけ)の少ない住宅街を歩いていく。

「ただいまー」

 家に帰ると、夕食のいい匂いが玄関まで漂ってきていた。

「おかえり。夕飯、もうすぐできるから、お風呂入っちゃいな」

 リビングからひょこっと顔だけを覗かせる葵。

「そうさせてもらう。で、何作ってるんだ?」

「カレー。市販のルー使えばそんなに難しくないし」

 そんなこといいから早く入っちゃいな、と言うようにジェスチャーをする頼もしい弟。

 お言葉に甘えて、さっさと済ませてしまおう。

 風呂を上がってすぐ、手伝うことはないかとリビングへ向かうが、すでにソファでくつろぎながらテレビを見ていた。

「やっと来たぁ〜。早く食べよ。もうお腹ぺこぺこだよ〜」

「任せっきりにして悪いな。片付けはオレがやるよ」

 二人だけの食卓。

 思えば、こんなことは初めてかもしれない。いつだって、オレたちのそばには兄貴がいた。

 オレと葵は、自分から喋るタイプじゃないし兄貴がいないとこんなにも静かなんだな。

「そういえばさー。今朝、ちょっと機嫌悪かったけど、何かあったの?」

 テレビの音のみだった空間に、葵の声が響く。

 まさか、聞かれるなんて思わなかった内容に一瞬体が強張る

 今朝、か。

 思い出したくもない出来事だ。忘れられるのなら早く忘れたい。…………考えるだけ時間の無駄だ。やめておこう。

「別に。何も」

 俺は、葵の方を見ずに答える。

「ふ〜ん。そっか」

 なんとなく、納得していないような様子の葵。

 何がそんなに気になるのか?

「兄ちゃんと何かあった?」

 図星だった。

 さっき以上に体が強張る。あからさまに反応を示してしまったことを、葵は見逃さない。

「やっぱり。最近、仲悪くない? 昔はベタベタだったのに」

 何かあれば相談に乗るよ、と優しく言ってくれるが、こればっかりは兄貴とオレの二人の問題だ。葵は巻き込めない。

「葵には関係ないよ」

「関係ないって何さ。ボクだって、同じ兄弟なんだけど」

 いつもならある程度のところで引いてくれる葵が、今日はいやに頑固だ。

 一体、なんだって言うんだ?

「急に突っかかってきて、そっちこそ何かあるんじゃないのか?」

「なにそれ。まあ、ひなたがいいって言うんならいいけどさ」

 でも––––––、と続く。

「本当にいいの? 仲悪いままで。もう少し、素直になったら?」

「別にいいよ。今日までだって、何も苦労なかっただろ」

 反射的に、葵から視線を切る。

「そ。じゃあ、ボクが甘えてもいいんだ?」

 予想だにしない発言に、三度目の硬直。

「ひなたが甘えないなら、兄ちゃんだって寂しいだろうし、ボクが貰っちゃうよ」

「寂しい? 兄貴が? 本気で言ってるのか?」

 どうしてそんなことを言うのか、理解ができなかった。

「ほんとに、寂しがってないと思う?」

 本当のところは、わからない。

 兄貴の考えてることなんて、わかったことなんて一度もない。

 それが、余計に腹が立つ。

 オレの答えは変わらない。

 兄貴は、オレたちに見向きもしないだろう。

「思うね。葵は葵の好きにすればいい。そんなの、オレには関係ないだろ」

 皿に残っているカレーを全て平らげ、立ち上がる。

「ご馳走様。片付けはオレがやっておくから。風呂、入ってきな」

「……ん。そうする」

 最後の声だけは、いつも通りの穏やかさで、このことはもう先には持ち越さないというメッセージが込められているようだった。

 なら、オレももう忘れて、なかった事にしよう。


***


 時刻は、十四時半。

 課題を終わらせた後、のんびりとゲームをしていたらいつの間にか家を出る時間を過ぎていた。大慌てで支度をして、結局道中で走る羽目になってしまった。

 講義にはギリギリ間に合ったが、集中なんてできるわけもなくて頭には何も入ってこなかった。

 今朝も寝坊するし、散々な一日だ。厄日なのかなあ。

「真榎(まなか)氏〜〜。こちらですぞ〜〜〜」

 大学の敷地内の一角。少しおしゃれなカフェのようになっている休憩スペース。学食とは別に、生徒の溜り場的な存在として重宝されている学内屈指の人気スポット。屋内だけでなく、屋外のテラス席まで用意されているにも関わらず、ほとんどの席が埋まっているほどに混雑している。

 そのテラス席の端。まるで、小島のように少し離れた場所に設けられているテーブルに座る人物が、遠目からでもわかりやすいようにブンブンと手を振りながら俺のことを呼んでいる。

 そいつの名前は、佐伯孝(さえきこう)。

 それなりに仲良くしていた高校時代の友人で、示し合わせたわけでもないのに進学先から選択した講義までもが被っていたという奇跡を起こした不思議な縁がある。きっと、感性が似ていたんだろう。それからは、前よりも深い親交を持つようになり、今では大学での一番の友人と言える。

 そんなやつの手には携帯型のゲーム機が握られていて、画面には際どい格好をした女の子が写っていた。

「おー、おはよう。佐伯(さえき)、もしかしてそれ、この前言ってた新作か?」

「左様ですぞ。これこそが、つい先日発売された大人気シリーズ『俺と彼女(マドンナ)とLOVE(ラヴ)ロマンス』略して『マドラヴ』の三作目。その名も、『俺と彼女(マドンナ)とLOVE(ラヴ)ロマンス 3shine(サンシャイン)』ですぞ。真榎氏にはまず、『マドラヴ』シリーズについて解説した方が良いでしょうな」

 まずは–––––、と楽しそうに『マドラヴ』シリーズとやらの遍歴を話し始める佐伯。

 こういう話って、興味深くて面白い時もあるけど如何せん佐伯の知識量と熱量が半端なくてちょっと怖い。

 正直、聞いていてもよくわからない。

 テレビゲーム自体は嫌いじゃないし自分でも遊ぶが、如何せん上手くできなくてライトな楽しみ方がせいぜいだ。そういうこともあって、あまり熱中してできないのだ。なんで、社会現象になっているようなものは別だが、基本的にゲームには明るくない。

 ましてや、女の子ばかり出てくるゲームは自分から遊ぼうと思わない分、なおさら詳しくないのだ。

 ていうかなんだよ『マドラブ』って。『◯ブラヴ』かよ。

「残念ながら、内容はどちらかと言うと『と◯メモ』ですなあ」

「勝手に心を読まないでくれ」

 ふひひ、と不敵に笑う読心術者は、手元の女の子に夢中で俺の声なんて聞いちゃいない。

 しばらくすると、優しく抱きしめるようにゲーム機を胸に寄せる佐伯。

 その瞳には、一粒の雫。

「いやぁ〜、これには涙を禁じ得ません。まさか、前作の衝撃を超えてくるとは思いませんでした。さすがは、『マドラヴ』製作陣といったところですな」

 ずずっ、とわざとらしく鼻を啜り余韻に浸っている。

 あまりにも幸せそうな顔に水を差すような気にもなれない。

「おや、真榎氏。何やら物欲しそうな顔をなさっていますな。わかりますぞ。『マドラヴ』にご興味がおありなのでしょう?」

「え? いや、全然全然」

「何を恥ずかしがっておられるのか。何もやましい事などございませぬ」

「いや、別に恥ずかしがってねぇって」

「そんなこと言って、拙者にはわかっておりますぞ。『マドラヴ』、やりたいのでしょう? お貸しいたしますぞ」

「いや、いいって。なんか悪いし」

「いえいえ、遠慮めされるな。最初の一歩を踏み出せない新人の背中を押すことも、先達としての責務ですから」

「だから、興味ねえって」

「いえいえ、絶対、気に入ると思いますぞ」

「しつこいぞ。お前」

「それに、『マドラヴ』と言えば妹ヒロイン–––––––––––」

 そのワードが聞こえた瞬間、俺の手は、意思に反してゲームへと伸びる。

 佐伯が差し出しているそれを、神速をもって掠め取るのだった。

「おや?」

「わ、わかったわかった。そんなに言うなら、借りとくよ」

 無言で見つめてくる佐伯。その口元は、何か言いたげにニヤついていた。

「な、なんだよ」

「いえ、何も?」

 別に、妹キャラに釣られたとかじゃないから。

 画面の中の妹なんかに興味ねえよ?

 本当だよ?

「とりあえずは、気の赴くままにプレイするのがよろしいでしょう。感想、待っていますぞ」

 なんて、別れ際に言ってたっけな。

 まあ、借りちゃったものは仕方ないし、遊ばずに返すのも申し訳ないから一通り遊ぶか。

 家に帰ってからできるかわからないし、帰りの電車で少し進めておこう。

 妹に早く会いたいとかじゃないから!

 ゲームを起動して、ニューゲームを選択。次の画面では、自身の分身である主人公の名前と誕生日の入力をする。入力を終えるとすぐに本編が始まった。

 ゲーム内容としては、典型的な恋愛シミュレーション。選択肢や自分のステータスによってルートが分岐して、最終的な目標はヒロインと結ばれること。

 アクションゲームと違って、プレイスキルを求められないのは気楽でいい。

『おはよう。太陽。今朝もだらしない顔ね』

 ゲーム開始後、最初に出会ったのは隣家に住む幼馴染。

 おそらく、メインヒロインってやつだろう。

 玄関を出てすぐのエンカウントは、隣に住んでいるからこその特権か。

『詰まってるだろ。早くどけよ、バカ兄貴』

 どかっ、と押しのけられたような効果音が鳴る。

 なんだ、こいつは。腹立つな。

 主人公の弟らしいけど、生意気すぎるだろ。

 主人公も主人公だ。もっとガツンと言わなきゃ舐められるだけだぞ。

 もし、俺が実際に日向や葵に同じ態度を取られたらな……。悲しくて泣いちゃうかもしれない。

『相変わらず、陽人(はると)くんと仲悪いの?』

『▼はは……。どうだろう

  そうなんだ。どうすればいいかな?』

 まあ、いい。

 オレが求めているのは“妹”だ。

 弟なんて、リアルにいるだけで十分だ。そっちの方が可愛いしな。

 さて、誰を攻略しようかな。

 いやほら、実際やってみたら妹より好きになるキャラだっているかもしれないしさ。

 とりあえず、色々な女の子と出会うところから始めよう。

 気付けば夢中になって遊んでしまっていて、降りるはずだった駅を乗り過ごしてしまった。

 これ、めちゃくちゃ面白いな。

 そろそろ、ゲーム内時間で一年が経ちそうだ。

 ていうか、ここまで妹キャラ出てきてないぞ。

 これ、本当に妹キャラ出てくるんだよな…………?

 もしかして、佐伯に騙されたか?

 いや、そうと決めつけるのはまだ早い。隠しヒロインとかかもしれないしな。

 とにかく、早く出てきてくれ。

 でないと、もうどうにかなっちまいそうだ!

『バイトが思ったよりも早く終わってしまった。この後どうしようか?

 ▼やることもないし、帰るか

  せっかく時間があるんだし、どこかで遊んでいこう』

 急に、知らないイベントが挟まったぞ。

 なんだ、この選択肢。

 バイトは、同じバイト先に勤務しているヒロインとのイベントを楽しむものだろう。勤務中ならいざ知れず、帰り際になんていつもは碌なイベントがなかった。ましてや、選択肢まで提示されるとは。

 他のところに遊びにいくと、その先で出会ったヒロインとのイベントが起こるのだろうか。見てみたい気もするが、すでに誰を攻略するかは決めてある。

 もちろん、妹だ。

 妹以外のヒロインなんて興味ねえんだよ!

 まさか、家の外で妹との出会いなんてあり得ないだろう。

 それに、色々な女の子と関わると不利な状況になることもあるし、ここはスルーが安定か。

『▼鍵が空いてる?

  陽人がいるのかな?』

 お、直帰を選択したのにイベントがあるのか。

 この感じだと、あの生意気な弟とのイベントか?

『▼ただいまー。

  陽人、いるのかー?』

『げ、兄貴!? 今日はバイトのはずじゃ!?』

『 それが、早く終わっちゃって

 ▼陽人こそ、今日は帰りが遅くなるって言ってなかったっけ?』

『わっ、やめろ! 兄貴、入ってくるな!!』

 主人公が部屋に入っていくと、そこには綺麗な女の子(・・・)が立っていた。

 否。女の子ではない。それは、可憐な少女の姿になっていた弟の陽人(・・・・)だった。

「はあ?」

 思わず、声が漏れる。

『兄貴のバカ! 入ってくるなって言ったのに!』

 涙ぐんで訴え掛けてくる美少女(弟)。

『▼陽人、だよな?

  一体、何が起こっているんだ?』

 流石の主人公も困惑せざるを得ない。

『早く出て行ってくれ!!』

 泣きじゃくりながら物を投げてくる乙女(弟)。

『▼わかった、わかったから!

  ご、ごめんな』

 すかさず暗転。

 おい、イベント終わったぞ。

 本当にこれで終わりか?

 絶対続きあるだろ、これ。

 と、とりあえず状況を整理しよう。

 丁度、週末のターンだ。情報屋(同級生)に今の攻略状況を聞こう。

 てか、結局妹出てきてないじゃん!!

『よお、お前か。今日は何が聞きたいんだ?』

『 女の子の情報

 ▼女の子との関係』

「な––––––––––––––」

 次の画面を見て、俺は声を上げて驚きそうになった。

 危うく、電車の中で奇声を上げるところだったがどうにか堪えることができた。

 そこは、ヒロインとの好感度を確認できる画面で、攻略の指標となる重要なものだ。

 そのはずなのに、本来いるはずのない名前が表示されていた。

 今まではなかったそれは、紛れもない弟・陽人の名前だった。

 お前、ヒロイン(攻略対象)なのかよっ!

 いや、いやいやいやいや。待て。

 だって、男だろ? 

 そんなのありなのか……?

 ありなのか。

 ていうか、もしかして妹キャラってお前……?

 そこからは、さらに夢中になり再び駅を乗り過ごしたことに当分気付かなかった。

 とりあえず、日向たちには帰りが遅くなることを連絡しておいて続きをやろう。

『兄貴。オレ、本当は女の子の格好するのが好きなんだ』

『 そっか。よく話してくれたね

 ▼大丈夫。似合ってるよ』

『に、似合ってるって……。兄貴の……ばか』

 赤面して照れるヒロイン(弟)。

 これを可愛いと思い始めている自分がいることに驚く。

 ま、まあでも、外見は女の子みたいに可愛いしなっ!

 言い訳じゃねぇよ?

 本当だぞ!!

『お兄ちゃん。オレ、嬉しかったんだ。こんな格好するオレを受け入れてくれて』

 明らかに今までとは違うイベントシーン。

 それもそのはずだ。ゲームの終盤。エンディングである告白シーンなのだから。

 感動的な音楽に煽られ、電車の中であるにも関わらず涙が溢れるのを抑えられない。

『だ、だから……オレ……』

 あと少しのところで言い淀んでしまう弟(ヒロイン)。

 しかし、一呼吸おいて、その顔からは迷いが消えていた。

『お、お兄ちゃんのことが好きだ! 大好きなんだ!』

 ……無意識に口元が緩んでしまう。

 なんて、破壊力なんだ。

 もうこの際、男でもいいや。

 いや、お前は女だ! 妹なんだ!

『▼ありがとう。俺もだよ

  ごめん。その気持ちには応えられない』

 これを断れる畜生がいてたまるか。

 そんな奴がいたら俺がぶっ◯してやる。

『え、えへへ……嬉しい。お兄ちゃん。オレ、今よりずっと可愛くなるから。離さないでくれよ?』

 ずずっ、と鼻を啜る。

 佐伯の気持ちが、今ならわかるぜ。

 結局、電車内でエンディングまで駆け抜けてしまった。

 窓の外を見ると、空はもう真っ暗だ。

 ていうか、今何時だ?

 携帯電話を取り出して時計を確認すると、あと一時間もすれば日付も変わるという頃合いだった。待受には、葵からのスタンプと日向からのメッセージの着信を伝えるバナーが映っており、返信が来ていたことに今更気付いた。

 幸いだったのは、今停車している駅が自宅の最寄駅に近いことだ。終電まではまだ時間があるし、あと数駅か行けば家へ帰れる。

 この時、俺の頭の中には一つの考えが浮かんでいた。それ以外のことは考えられないほどで、駅に着くとすぐに改札を飛び出した。道中、休むことなく全力で走り抜けるのだった。

 家に着くや否や、手探りで鞄から鍵を取り出す。切らした息を整えながら、落ち着かない手つきで鍵を開ける。慌てた様子で帰宅した俺に、今まさに風呂から上がり洗面所から出てきた葵が驚いたように体を跳ねさせる。

「うわっ、びっくりした。兄ちゃん、そんなに急いでどうしたの?」

「––––––葵か。よかった。まだ、寝てなかったんだな」

「う、うん。それより、随分遅かったね。心配してたんだよ?」

「あ、ああ、ごめん。ちょっと色々あってさ。日向は?」

「部屋にいると思うよ。多分、まだ寝てないと思う……」

「そっか。なら、ちょっと呼んできてくれないか? 大事な話があるんだ」

「…………? わかった」

 何が何だかわからないと言った様子だったが、どうやら日向を呼びに行ってくれたみたいだ。

 先にリビングの食卓に座っていると、葵が面倒臭そうにしている日向を連れてきてくれた。二人は俺の向かいに並んで座る。

「で、大事な話って? くだらない話だったら怒るからな」

「まあまあ。せっかく兄ちゃんから話があるって言ってるんだし、ちゃんと聞いてあげようよ。ね、ひなた?」

「……はあ、わかったよ。聞いてやるから、早くしてくれ」

「ありがとう」

 高鳴る心臓を押さえつけるように一呼吸置き、深呼吸をして心を落ち着かせる。

「二人とも、落ち着いて聞いてくれ」

 仰々しい切り出し方に、日向も葵も完全に身構えてしまう。

 ごくっ、と生唾を飲んだ音が聞こえた気がした。

「頼む! 女装してくれ!!」

 机に突っ伏すほどに頭を下げる。

 しん、と静まり返る室内。

 二人からの反応はない。

 恐る恐る顔を上げると、二人はポカンと口を開けていた。

「あ、あの……お二人さん?」

 一瞬の間をおいて、ハッとしたように我に返る二人。

「な、なんだそれ! 大事な話って言うから聞いたのに、くだらないことじゃないか!!」

「さすがに理解に苦しむよ、兄ちゃん」

 見るからに拒絶する弟たち。

 そうだよな。

 わかる。わかるけど……。

 俺にも––––––譲れない物があるんだ。

「頼む、そこをなんとか! 一生のお願いだ!!」

 席を立ち、床に頭を付ける。そう、土下座だ。俺には、それほどまでの覚悟がある。今に”全て“を賭けている。

「そもそも、なんでオレたちが女装なんかしなくちゃいけないんだ!」

「ちゃんと説明してくれないとわからないよ?」

 尤もなことを言われ、口を噤(つぐ)む。

 でも、ここで本当のことを言わなきゃ何も伝わらないよな。

 意を決して顔を上げ、そのままの姿勢、つまり正座の状態で本心を告げる。

「俺、本当は妹が欲しいんだ。今まで黙ってたけど、ずっと、そう思ってた。でも、現実的に考えてもう無理だろ? だから諦めてたんだけど、まだ希望はあるって思えたんだ–––––」

 そこで一呼吸おいて、可愛い弟たちに向き直る。

 勢いよく頭を下げながら、一世一代の告白をする。


「だから、俺の“妹”になってくれ!!!」


 これが全て。俺の伝えられる全てだ。

 軽蔑されるかもしれない。一生、口を聞いてもらえなくなるかもしれない。

 それでも、俺はこの衝動を止められない。

 だって、気付いてしまったから。

 弟は、妹にもなれるんだ。

 この答えを教えてくれた『マドラヴ』には感謝しかない。

 佐伯、最高の贈り物をありがとう。

「ありえない。最低だ、兄貴」

「さすがに、ひどすぎるよお」

 土下座した状態の俺を残して、二人は去ってしまった。

 どんな顔をしていたかは見えなかったが、想像には難くない。

 俺はその日、尊厳を失った。

 気が付けば夜が明けており、傷心の俺は佐伯と会っていた。

 場所は、昨日と同じ休憩スペース。

「佐伯ぃ〜〜。聞いてくれよお〜〜〜」

 国民的アニメの少年のように泣きつくように話し掛ける俺に、佐伯は何事もなかったかのように冷静に対応する。

「真榎氏のこんな姿は初めてですな。どうなされたのですか?」

「それがさあ––––––––」

 昨日あった出来事を包み隠さず話す。

 佐伯はこう見えて話がわかるやつだ。きっと、真摯に受け止めてくれるはずだ。

「なるほど。流石に気持ち悪いが過ぎますな。拙者、引かざるを得ません」

 あ?

 なんだてめえ、やんのかこら。

「創作と現実を一緒にしてはいけませぬぞ。引くべき一線はしっかりと引く。それが、オタクとしての責務です」

 あ、そうっすね。ほんと、すみません。

「それにしても、まさか一日でエンディングを迎えてしまうとは、流石に驚きましたぞ。やはり、真榎氏には才能があると思っていたのです」

「ああ、ゲームな。貸してくれてありがとな。面白かったよ」

 鞄の中から取り出したゲームを返そうと差し出すが、必要ないと言うように制止してくる。

「それは布教用ですので、差し上げますぞ」

「そっか。じゃあ、ありがたく受け取っておくよ」

「ぜひ、別のエンディングも見てくだされ。きっと、傷を癒してくれると思いますぞ」

「そうするよ」

 落ち着きを取り戻した俺を見て、佐伯は一つ切り込んでくる。

「それで、妹御のことはどうするのですか?」

 ここで、“弟”ではなく“妹”と言うあたり、やはりこいつは俺のことがよくわかっている。

「まあ、諦められないよな。どうにか、女装してもらえるように頑張るよ」

「左様ですか。何かありましたら拙者にご連絡を。力になれるかは分かりませぬが、協力いたしますぞ」

 さ、佐伯ぃ。心の友よ。

 父さん。母さん。俺は、良き友に恵まれました。

「ありがとな。じゃあ、そろそろ行くよ」

「おや、もう帰られるので?」

「うん。昨日、遅くなって心配させちゃったからさ」

「なるほど。拙者は、提出課題があるのでもう少しここにいます」

「おう、頑張れよ」

 言うのと同時に、俺は足早にその場を去った。

 一人残された佐伯は、感慨深いと言う様子で独りごちる。

「いやあ、しかし––––––拙者は、とんだ怪物を呼び起こしてしまったのかもしれませぬなあ」

 その言葉は、誰に届くわけもなく空に溶けていった。


***


「なあ、今日の日向。いつにも増して機嫌悪くないか?」

 こそっ、と耳打ちで話しかけてくるのは友人の柳冬馬。

 空気が読めないと有名な冬馬ですら感じ取れるほどに、今日のひなたはわかりやすく機嫌が悪かった。

「ちょっと、色々あってね…………」

 理由は明白だ。

 昨夜の、兄・太陽からの話がよっぽど気に食わなかったのだろう。

 まあ、確かにいきなり女装してくれとか、妹になってくれとか理解には苦しむけど、それにしたってひなたは少し怒りすぎな気がする。

 兄ちゃんが、ああやって意味のわからない言動や行動をするのは今に始まった事ではない。

 確かに、今回のが輪をかけてひどいのには同意するが、それはそれ。

 昔は、ひなたと兄ちゃんはすごく仲が良かったのに、いつからか今みたいにギスギスした関係になってしまった。

 もしかすると、そう言うところに原因があるのかもしれないが、直感がそうではないと思わせる。

「なあ、日向。どうしたんだよ。なんかあったのか?」

 やっぱり、冬馬は空気が読めない。

 なんのためにボクが答えを濁したのか。

 本人に直接聞きに行くなんて、頭どうかしてるんじゃないかな。

「冬馬には関係ないよ。悪いけど、話し掛けないでくれ」

 言うと、席を立ってどこかに行ってしまった。

「あれ。俺、もしかしてまずった?」

「もしかしなくてもね」

 はあ……。

 兄ちゃんも冬馬も、ひなたの機嫌をとるボクのことを考えてほしいよ。

 ひなたを追って階段を登り、封鎖された屋上への扉がある突き当たりまでくる。

 普段、誰も来ないような場所のためか、明かりはついておらず薄暗い。

 小窓から入る陽の光のみが、ここでは頼りだった。

 ひなたには、何かあるたびに人が寄り付かなさそうな薄暗い場所に逃げ込む癖が小さい頃からある。

 だから、見つけるのは意外と簡単だ。

「やっぱり、ここにいた」

「……葵か」

「困ったときにこういう場所に来るの、変わってないね」

「別に、困ってない」

「はいはい。そういうことにしておくよ」

 見るからに落ち込んでいる双子の片割れに、慰めるように声を掛ける。

 ひなたは、いつもは強がっているけど本当は繊細でか弱い。

 こういう些細なことで傷付いてしまうような、そんな人間なのだ。

 今回の場合は、兄ちゃんに対する怒りを冬馬にぶつけてしまったことを後悔しているのだろう。

「冬馬が鈍いのは知ってるでしょ? あんなの気にしてないよ」

「そうかもな。でも、それとこれとは話が違う」

「もう、うじうじしててめんどくさいなあ。そう思ってるなら、一言ごめんって言えばいいだけじゃないか」

 黙り込んでしまうひなたに、しかしボクは心配することはない。

 ひなたは、簡単に傷ついてしまうが、そこから立ち直れないほど弱くはない。むしろ、そういう意味で言ったらとても強い人間だ。

 こうやって、自分の中で気持ちを消化した後は、いつだって前よりも逞しくなっているのだから。

「ほら、行くよ。授業、始まっちゃう」

「なあ、最後に一つだけ。……昨日の兄貴のこと、どう思う?」

 びっくりした。

 まさか、ひなたの方からこの話題を振ってくるなんて。

 正直なところ、触れちゃいけないと思ってあえて話題に出してなかったんだけど。

「ど、どうって言われても、言葉にできないとしか…………」

「……昔っから、兄貴の考えてることは全然わからない」

 まあ、そう思うのはよくわかる。

 あの人、やろうと思えばなんだってできるスーパーハイスペック人間なのに、そういう素振り全然見せないもんね。

 完璧主義者のひなたからしたら、怠けているようにしか見えないだろう。

 それでも、昨日の兄ちゃんはどれだけ考えても意味不明だけど。

「まあ、でも。兄ちゃんなりに何か考えがあるんじゃない?」

 考え込むひなた。

 答えが出るまで、その場で待つ。

「それでも、やっぱりあれは気持ち悪すぎないか?」

「あ、あはは……」

 乾いた笑いしか出ないよ……。

 兄ちゃん、本当にどうしてあんなこと言っちゃったの。

「女装とか、妹になるとか。葵は、受け入れられるのか?」

 ええ〜〜。

 そんなこと聞かれてもお……。

 受け入れられるって言ったら、どういう反応をするのだろうか。気になるところではあるけど、地雷を踏み抜きそうで怖い。

「な、なんとも言えないなあ〜」

 濁して答えると、ひなたはスッと立ち上がる。

「やっぱり、オレは受け入れられない。言語道断だ」

 そう言いながら、スタスタと行ってしまった。

「あ、ひなた〜。待ってよ〜〜」

 実際、女装してくれとか妹になってくれとか、理解には苦しむ。

 ……けど、兄ちゃんが、あんなにはっきりとボクらを頼ってきたのは生まれて初めてだ。

 それだけで力になってあげたいと思う。

 思うけど、内容がなあ……。あまりにもひどすぎる。

 ひなたは乗り気じゃないし、どうすればいいかなあ……?

 教室に戻ると、心配した様子の冬馬がボクらの帰りを待っていた。

「日向。さっきは悪かった、デリカシーなかったよな」

「オレこそ、悪かった。ごめん」

 すぐに駆け寄って謝罪をする冬馬に、ひなたは対して気にしていないという様子で落ち着いて返す。

 お互いに非はなく、これで何もなかったというような空気になる。

 ––––––––はずだったのに。

「ん? ひなたくん。何か言ったかな? 聞こえなかったなあ。もう一回、言ってくれるかな?」

 珍しく下手に出るひなたに、冬馬はつい調子に乗ってしまう。

 キミ、そう言うところだよ?

 ひなたのこめかみに、青筋が浮かぶのが見てとれるようだった。

「そうか。死にたいのならそう言うべきだな、冬馬」

 怒る時のひなたは、たいして顔には出ないのにむしろその無表情がとても怖い。

「わ、わあ! 悪かった。冗談だって、冗談! だから許してくれえ!」

 まあ、この光景もいつも通りといえばいつも通りかな。

 今日も平和だなあ……。

 そうして、放課後の鐘が鳴る。

 例のごとく、二人は部活に向かう。

 仲良く部室へ向かうのを––––冬馬に半ば無理矢理に連れていかれるひなたを–––––見送ってから、校門へ向かう。

 いつも通り、一人きりの帰り道。

 毎度ながら、この瞬間だけは、自分も部活に入っていればよかったと思う。

 が、そんな考えは、家に着くと同時に泡と消える。

 だって、学校が終わってすぐに家でだらけられるなんて、楽でいいじゃないか。

 この時間を捨てるなんて、ボクにはできない。

 帰ってすぐ、制服のままでソファに横たわる。

 皺になるから着替えろ、なんて小言も一人なら言われない。

 このあとどうしようかなー、なんて考えていると、つい昨日のことを思い出してしまう。

 いつもの暴走だとあんまり気にしていなかったのに、妙に意識してしまう。

 これも全部、あんなことを聞いてきたひなたのせいだ。

 …………ゲームでもして忘れよ。

 制服も窮屈だし、部屋着に着替えてこの前の続きでも進めよ〜っと。

 自室に戻ろうと階段を上ると、兄の部屋のドアが開きっぱなしなことに気付く。

「もお〜。兄ちゃんはだらしないなあ」

 閉めようと思い近づいたが、心の中の悪魔が囁いてくる。

 イタズラ、しちゃおっと。

 誰に見つかるわけでもないのに、そろりそろりと侵入していく。

 手始めに、ベッドの下でも漁るかな〜、なんてベタなことを考えて屈むが、見たところ面白そうなものはない。

「ちぇ〜。つまんないの」

 やはり、あれは創作の中だけのお約束なのだろうか。

 立ちあがろうとした時、目の前の箱に気付く。

 それは、真っ黒の縦に長い箱。その中央やや上側のあたりにはランプが点灯していた。

「パソコン、点けっぱなしじゃないか」

 そこで閃き、スリープ状態のパソコンを叩き起こす。

 ウィーン、と鈍い音を立てながら仕事を始めるパンドラボックスに、好奇心が止まらない。

 モニターが点くと、スタート画面が表示される。

 エンターキーを押すが、パスコードを要求されてしまう。

「くっ……用心深いね、兄ちゃん」

 あるあるなのは、誕生日とかその人に関連する情報だよね。

 でも、自分の誕生日をパスコードに設定するような人ではない。

 とはいえ、絶対に忘れないようなものにするはずだ。

 忘れなさそうなもの…………例えば、好きなものに関する情報、とかだろうか。

 よし、兄ちゃんの思考をトレースしよう。兄ちゃんの好きなものは…………なんか、最近どこかで聞いた気がするな。

 瞬間、昨日の会話がフラッシュバックする。

 妹ぉ〜〜……?

 いやいやいや、ないない。

 そもそも、妹なんていないじゃんか。

 じゃあ、なんだ?

 ……………………………………。

 うん、わかんない。

 もういいや。ダメ元で、ボクらの誕生日でも入れてみよう。

 そんな心境で入力した文字列は、予想に反してしっかりと封印を解く。

「ま、まじかあ〜…………」

 薄々と感じてはいたけど、兄ちゃんボクたちのこと好きすぎなのでは––––––––––?

 こんな形で知りたくなかったよ……。

 ま、切り替えよ。

 さてさて、何か面白いものはあるかな〜?

 開いてすぐの画面には、既にブラウザのウインドウが開いていた。

 きっと、家を出る前に見ていたものだろう。

 まったく、脇が甘いなあ。

 なになに……?

 これ、もしかして『マドラヴ』の攻略サイト?

 兄ちゃん、こういうゲームには興味ないと思ってたけど––––––。

 ははーん。さては、佐伯さんに薦められたなあ〜。

 あの人は好きそうだもんな〜、こういうの。

 まあ、でも、兄ちゃんもハマる素質は十分だろうからなあ。

 それで、誰の攻略を見てたのかな?

 もしかして、兄ちゃんの好みがわかったりしちゃうかも?

 なんて、軽い気持ちで覗いたものは、深淵そのものだった。

 あ〜、そういう感じかあ–––––––。そっかあ……。

 そっと、見なかったことにして自分の部屋に戻ろう。


***


「ただいま〜」

 昨日は遅くなってしまったから、今日はできる限り早く帰ってきた。

 玄関を見ると、葵はもう帰ってきているようだ。日向はバスケ部の練習だろう。

 階段を上ると、目の前で扉が開く。

「うおっ」

 ぶつかりそうになり、咄嗟に身を引く。

 今度は、階段を踏み外しそうになったが、すんでのところで堪える。

「あ、ごめん。兄ちゃん」

「ああ、いや。大丈夫大丈夫」

 気まずい。

 俺のせいだけど、気まずいぞ。

 お、怒ってないのか?

「あ、あの。葵さん?」

「ん、なに?」

 その返しに、怒りは感じない。

 いつも通り、穏やかなままだ。

「い、いや、なんでもない。ごめんな、呼び止めて」

「? うん」

 階段を下っていく背を見送りながら、内心胸をなで下ろす。

 よかった。とりあえず、怒ってはいないみたいだ。

 でも、昨日の今日で女装してくれとは言えなかった。

 戻ってくる前に、そそくさと自室に入る。

 はあぁ〜〜、とクソデカ溜息を吐いてベッドにダイブする。

 一体、どうすればいい。

 どうすれば、二人は女装してくれる?

 考えろ。俺の全リソースを注ぎ込んで、答えを導き出すんだ。

 ––––––––––––––––––––––––––––––––。

「ぜっんぜん思いつかねえ」

 だめだー。

 ていうか、次言ったら家族の縁を切られそうだ。

 そんなことになったら、平気で死んでやれるぞ。

 …………そりゃ、嫌だよな。こんな兄貴。

 嫌われるのも納得だ。

 と、後ろ向きになっていく思考を吹き飛ばすように首を振る。

 ネガティブな感情に囚われている場合ではない。

 たとえ、どんな犠牲を払うことになったとしても、諦められないものは諦められないのだ。

 二人を女装させる算段が思いつかないのは、もうしょうがない。

 とりあえず、今は、今できることをやろう。

 俺が、女装について詳しくなれば、二人も気が変わるかもしれない。

 そうとなれば、情報収集が必要だ。

「よしっ」

 一言、気合を入れ直し、パソコンに向き直る。

 服装とか化粧とか、色々と必要なものがあるんだな。

 まあ、そりゃそうか。

 ウィッグとかもあるのか。奥が深いな。

 コスメとかも、持ってるだけじゃ意味ないし、二人にメイクできるようになれって言うのも無責任だよな。俺ができるようにならなくちゃ。

 出費は痛いが、妹ができるなら安いもんだ。

 なんのためにバイトしてると思ってやがる。

 高校の時から、掛け持ちしまくって貯めた貯金が火を吹くぜ!

 大学に進学した今は、あえて抑えてシフトを減らしているが、過去には修羅のアルバイターとすら呼ばれたほどだ。俺の貯金に不足はない。

 興が乗って、気付けば夕暮れだ。窓の外には、オレンジ色の陽光が滲んでいた。

 そろそろ、夕飯の支度をしないと。

 席を立とうと肘置きに手を掛けた時、コンコン、と扉を叩き音がした。

「葵か? 入ってきていいぞ」

 しかし、返事はない。

 待てども言葉は返ってこず、こっちから扉を開けに行こうと思った時––––––––––––。

「そ、そのままで聞いて」

 と、やっと声が帰ってきた。

 扉の向こうからでも、葵が話しづらそうにしているのがわかる。

「大丈夫。急がなくていいから。落ち着いて」

 努めて、優しく告げる。

「それで、どうしたんだ?」

 促すように声を掛けると、そこでやっと話し出す。

「次の土曜日。ひなたが試合で家にいないのは知ってる?」

 いや、初耳だ。

 あいつ、そういう大事なことはちゃんと言いなさいよ。

「じゃあ、弁当作らなきゃダメか」

「ううん。昼からだから、いらないって」

「ああ、そっか」

 なんだ、じゃあ別にいいか。

「それで、さ」

 それで終わりと思っていた会話は–––––––しかし、終わらなかった。

「ん、どうした?」

 聞き返すも、すぐに返事は返ってこない。

 言い淀んでいるのか、少しの間が開く。

「だからさ……ひなたが行った後でいいから、時間くれないかな?」

 それは––––––予想してなかったな。

 昔の日向ならともかく、葵からこんな申し出があるなんて。

「だ、だめ……かな?」

 面食らって言葉に詰まっていると、心配そうに葵が聞いてくる。

「え–––––、ああ、いや。大丈夫、大丈夫だよ」

 情けない感じになってしまったが、どうにか返事をする。

「……うん。ありがと」

 そして、扉の向こう側の気配は消える。

 やがて、隣の部屋の扉の開閉音が聞こえる。

 どうやら、葵は部屋に戻ったようだ。

「はあ––––––––––––」

 なんか、妙に緊張した……。

 なんとなく、いつも葵の感じと違ったけど、何かあったのかな?

 いや––––––気のせい、か。

 とりあえず、夕飯の支度を済ませないと。

 いつも、その日の献立は買い置きしている材料を見てから決めている。

 今日も例外ではなく、冷蔵庫に残っている材料を使って作れそうなものの中から適当にチョイスし、必要なものを取り出す。

 調理の片手間に、退屈凌ぎに点けたテレビの音声に耳を傾ける。

 夕方のニュースで世間のことを知るのも、もはや日課になってしまった。

「ただいま」

 そんなこんなで、夕飯もあと少しで作り終えるかという時に日向が帰ってきた。

「おお、おかえり。夕飯、もうすぐできるぞ」

「…………」

 リビングから顔だけ覗かせるように出迎えるも、無視を決め込まれてしまう。

 なんか、以前にも増して冷たいような気が。

 前は、これくらいの会話はしてくれていたと思うんだけど。

 やっぱり、妹になってくれなんて言ったせいかな。

 自業自得、とは言え落ち込んでいると葵がリビングまで降りてきた。

「ひなた、お風呂入るって」

「そっか。じゃあ、出たらご飯にしようか」

「あーい」

 気の抜けた返事をして、部屋に戻っていく。

「はあ–––––。どうしたもんかな」

 ひとりになったリビングで小さく溢す。

 もちろん、日向との関係改善についてもそうだが、女装の方も死活問題だ。

 どうすれば、二人は妹になってくれるのか–––––––。

「おーい、兄ちゃん。ひなた、上がったよ」

 考え込んでいると、気付いたら葵が目の前にいた。

「うおっ! びっくりした。すまん、考え事してた」

 慌てたように席を立ち、急いでキッチンに向かう。

 出来上がった料理を、皿に盛り付けて机に並べていく。

「いただきまーす」

「……いただきます」

 二人の温度差で、風邪引きそうだ。

「口に合えばいいんだけど」

 今できる片付けを終わらせ、日向と葵の向かいに座る。

 食卓に会話はない。

 俺が喋らないと、こいつら意外と喋らないんだよな。

 でも、気まずくて何も話せねえ……。

 いや、俺が怖気付いてどうする!

「さ、最近、学校はどうだ?」

 俺の足りない頭では、そんな話題しか出てこなかった。

 手始めに世間話を、なんて思ったのが全ての間違いだったのだろう。

「…………」

 日向は、当然のように無視。

「んー、普通に楽しいよー」

 と、葵は答えてくれたが大して会話は広がらない。

 ああ、もうだめだ。俺には、この荒波を耐え切る術がない。

 そう諦めかけた時、とある疑問が頭を過ぎる。

「あ、そういえば。葵さ、さっき話してたことなんだけど–––––––––」

「んんっ!!」

 先ほど、扉一枚隔てて交わした約束について尋ねようとしたのだが、途中でわざとらしい咳払いによって遮られる。

「あっ! そ、そういえば今日さ––––––––––––」

 間髪入れず、珍しく慌てた様子で話題を逸らす葵。

 あまりにも不自然で俺も日向も不思議に思うが、葵は口を挟む隙も与えないほどに喋り続ける。結局、俺の聞きたいことは有耶無耶になってしまった。

 回り回って、食卓は再び沈黙に包まれる。

 理由はわからないが、週末の約束について尋ねるのはどうやらタブーっぽい。

 手札を使い切った俺に取れる選択肢など、最早一つしか残されていなかった。

 意を決して、最重要事項に切り込もうとする。

「あ、あのさ–––––––––––」

「ご馳走様」

 が、俺が言い終えるよりも早く席を立つ日向。

 自分の使った食器を流しに入れると、すぐにリビングを去ってしまう。

 あー、ダメだ。俺、今なら死ねるかも。

 そして、後を追うように葵も席を立つ。

「ごちそーさま。おいしかったよー」

 日向同様、食器を片付けた後、帰り際にそんなことを言い残してくれた。

 気を遣ってくれるのか、葵……。

 ––––––––天使だ。

 お前のおかげで、俺、頑張れるよ。

 二人に“妹”になってもらえるように頑張るから––––––––!!

 

 なんて日々を繰り返しているうちに、約束の土曜日は訪れた。

「行ってきます」

 玄関の開く音を聞いて、大慌てで階段を下りる。

「行ってらっしゃい。頑張ってこいよ」

 しかし、日向は一瞥もくれない。

 ひとりでに閉まる扉の隙間から、見送ることしかできなかった。

 やばい、挫けそうだ。

 –––––––いや、弱気になっちゃダメだ。こんなこと、今までだって何度もあっただろ。

 ………………そうでもないかも。

 思い返してみれば、日向が冷たいのは今に始まったことじゃないけど、ここまであからさまな態度を取られたことは片手で数えられるくらいしかない。

 その事実に気付き、余計にダメージが蓄積する。

 でも、俺が諦めたら、きっとそれっきりになってしまう。

 ……そんな気がするんだ。

 だから、やっぱり弱気になってる場合じゃないよな。

「さて。この後は、葵との約束だったな」

 さ、切り替え切り替え。

 葵との用事なのに、日向のことを考えてるなんて失礼だ。

 とりあえず、日向のことは棚上げしておこう。

「葵ー! 日向、行ったけど、俺はどうすればいい?」

 返ってきたのは言葉ではなく、ガタガタガタ、とそれなりに大きい物音だった。

「だ、大丈夫か!?」

 心配になって部屋まで行こうとするが、すかさず制止の声が届く。

「大丈夫! リビングで待ってて!」

「お、おう」

 結構、大きな音だったから心配だけど、まあ、葵のことだし大丈夫というのなら信じよう。

 言われた通りに、リビングのソファに座って待っていると、扉で隔てられた向こう側から、微かな物音。

 気になって振り返ろうとするが。

「兄ちゃん。目、瞑ってて」

 と言われ、応じるしかなくなってしまった。

「瞑ったぞー」

 ガチャ、と扉の開く音。

 視覚を封じているために、普段より敏感になっている聴覚が微かな音も逃さない。

 サッサッ、と衣が擦れる音がやけに耳に刺さる。

 ていうか––––––なんか、布の量、多くないか?

 気になる。––––––––––気になる、けど。目を瞑っていてくれと言われたからには、見ることはできない。

 い、一体、どういう状況なんだ…………!?

 音は、やがて目の前までくると、すんとも言わなくなる。

 落ち着きがなくなってきて、そわそわしていると少し下の方から声がした。

「目、開けていいよ」

 俺は、まるで操られているかのように、瞼を持ち上げる。

 首を下げ、少し下を見ると、そこには床に座り込んだ葵がいた。

 そう、それまでなら不思議はない。

 普段の葵でも、起こしうる行動だろう。

 問題は、その服装。

 それは、普段の服装とは明らかに違った。

 私服姿であれば、中性的な見た目から女の子と見紛うほどの葵だが、今日のは完全に女の子のそれだ。

 シンプルな白色のワンピースを身に纏った天使は、特別なことはしていないのに、本当に女の子みたいだった。

 これが“妹”なのかと、初めて神と邂逅した人類のように言葉を失っていた。

「ど、どうかな。……似合う?」

 不安そうに見上げてくる、弟のはずの存在から目が離せない。

 俺の脳は、この時点で既に限界を超えていた。

 まるで、ショートしたように煙を吐き、エラーを頻出させるロボットのように使い物にならない。

「……おーい」

 再びの呼び掛けも、届かない。

「黙られると、さすがのボクも不安になるんだけど……」

 そこでやっと、俺の脳は正常に戻った。

「だぃ……だぃだぃだぃ––––––––ダイジョウブ。に、ニアッテルヨ」

 と、思い込んでいただけだった。

 およそ、人間らしい受け答えなんて、土台無理だったのだ。

 その姿は、あまりにも破壊力が高く、俺の脳も心も完全に破壊されてしまった。

「なーんか、微妙な反応だけど……とりあえず、気に入ってはくれたようでよかったよ」

 ほっ、と胸を撫で下ろす仕草をする葵。

 ここまできて、俺は本当に我に返った。

 そうだよな、こんなの不安に決まってる。

 俺のお願いを聞いて、女装してきれくれたんだぞ。俺がしっかりしなくてどうする!

 バチーンッ、と勢いよく自分の頬を叩く。

 突然の奇行に、葵を驚かせてしまったが、これでもう大丈夫だ。

「葵、似合ってるよ。俺のために、女装してくれてありがとう」

 今度こそ、誠意を込めて、感謝を伝える。

「でも、乗り気じゃなかったのに、どうして急に?」

 そう。これは、聞いておかなくてはいけない。俺は確かに、弟に女装してもらって妹になってほしい。が、無理矢理やらせるのだけはダメだ。

 だから、どうにか向こうから承諾を得られる手段を考えていたわけで、もし、葵が嫌々でやっているのなら即刻やめさせる。

 まだ、俺にだってそれくらいの分別はつく。

 一瞬の沈黙。

 それが、とても長く感じた。

 その静寂が、俺の不安を掻き立てる。

「…………まあ、最初は絶対しない––––––って思ったけど。でも、コスプレには前から興味あったし、その延長線上って考えたら、不思議と抵抗はなくなったよ?」

 葵は、ちゃんと自分の考えを話してくれた。

 コスプレか––––––なるほど。確かに、その路線で攻めれば日向も女装してくれるかも?

 などと考えていると、おもむろに葵が横に座ってくる。

 その距離が妙に近くて、体が密着している。

 だめだ、また頭がどうにかなっちまいそうだ。

「あ、葵さん。なんか、近くないですかね?」

 どうにか平静を装って振り絞った声は、努力を裏切るようにカスカスだった。

「ええ? でも、兄ちゃんは妹とこういうことがしたかったんじゃないの?」

 いたずらっぽく笑う妹(おとうと)に、目を合わせられない。

 心の中が全て見透かされているようで、なんとも居心地が悪い。

 どうにかして落ち着きを取り戻したいが、そんな心とは裏腹に、心臓の高鳴りは止まることを知らない。

「それでえ、兄ちゃんは、妹を甘やかしたいの? それとも–––––––甘えたいの?」

 爆発した。

 間違いなく、俺の頭は吹き飛んだだろう。

 こんなの、耐えられるわけがない。

 こんなの、国家が所有してはいけないレベルの兵器なんじゃないか!?

「おーい。聞いてる?」

 不服そうな顔で、俺の安否を確かめる妹(おとうと)。

 おっと、いかんいかん。

 危うく、三途の川を渡りかけた。

 岸の向こう側に知らないお婆さんがいたけど、あれ、誰だったんだろう。

「で、どうしたいの?」

 また、蠱惑的な笑顔にやられそうになる。

 だが、その攻撃はすでに経験済みだ。

 今の俺は、一度食らった攻撃には耐性を得る、神の肉体を持っている。

 安心しろ、致命傷だ。

「もう。甘やかしたいのか、甘えたいのかどっちなのさあ?」

 おっと、そうだった。

 究極の二択を迫られている最中だったな。

 仏の顔も三度まで、と言うしな。これ以上待たせると、本当に怒られそうだ。

 甘えたいか、甘やかしたいか……?

 そんなの––––––––。

「どっちもに決まってるだろっ!!」

 俺の勢いに圧されるように身を引く葵。

 妹って、甘やかすだけだと思ってたけど、そっか、甘える選択肢もあったのか。

 こんな悪魔的な選択を思いつくなんて、俺の弟は天才だ! 最高だ!

「ほんとに、妹が好きなんだ」

 ぽつっ、と呟いた声は俺には届かない。

「ん? なんか言ったか?」

 葵は、なんでもないと首を振る。

 そして、ソファから立ち上がり、扉の方に向かい、ドアノブに手を掛ける。

「じゃあ、頑張ってね、兄ちゃん」

 扉を開く直前、こちらに向き直り、だって––––––––と続ける。

「ボクが妹になれるかは、兄ちゃん次第……だからね?」

 なんて、言い残して行ってしまった。

 俺は、腰が抜けて当分その場から動けなかった。

 扉の向こうでは、へたりと座り込んだ弟が顔を真っ赤にしてうずくまっていることを、俺は生涯知らないままなのだろう。

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