みすぼらしのきみ  

 御昼すぎの寒風はひかっていた。つめたくまばゆく、街を行き交うひとびとを、ときおりはっとさせるのだった。風に吹かれながら、澄子すみこは風呂敷包みの買いものを抱え、御屋敷への帰り道を急いでいた。

 百貨店の白煉瓦の横を歩いていると、ちょっときみ、と声がした。なんとなしに顔を向ければ、白い壁にもたれて立った学生さんと目が合った。洗いざらしのきものの下に詰襟のシャツを着ており、袴は短めで足には下駄を履いている。なにか重たそうな、ぶあつい本を何冊も腕に抱えて、澄子を見ていた。澄子はすぐに、はいとこたえ、通りを行くひとたちの流れを止めないように学生さんのほうへ近づいた。

 その学生さんは、澄子のしらないひとだった。けれど、このひとの言ったきみ、とはじぶんのことだとおもったし、振り返るとすぐに目が合ったし、とたんその表情になにか、切実なものがちらと浮かんだようだったし、おそろしいかんじはひとつもしない。とにかく澄子は、いま立ち止まってこの学生さんと向き合っていることを、おかしなことだとはおもわなかった。

「なにか御用でしょうか」

 学生さんがなにも言おうとしないので、澄子はさきにたずねた。学生さんは、頭をぐるぐる働かせているのか、それともたんにぼんやりしているのか、よくわからない顔をして澄子のほうを見ているのだった。澄子が声を出しても、すぐにはこたえなかった。けれどもやがて、はっとしたように目をみはった。ぼんやりのほうだったのかもしれないわと澄子がおもっているうちに、学生さんは口をひらいた。きみ、とつぶやき、続けて澄子にたずねた。

「きみはどうして、そんなにみすぼらしいのだい?」

 澄子は、はて、と首をかしげた。いくらなんでも、いましがたはじめて会った者に向かって言うことではなさそうだ。けれど目の前の学生さんは、たいへんまじめな顔をしている。そう、からかったり、いやがらせをしたりしているのではないのだ。ほんとうに、ふしぎにおもって、聞いているのだ。それが、よくつたわってくる。失礼かもしれないけれど、気になったことはなんでもたずねる幼子のようだとおもった。澄子は、このひとに、なるべく真摯なこたえをかえしたくなった。

「あの、おみぐるしいのでしたら、申し訳ありません。けれどわたくし、じぶんがみすぼらしいとはおもっておりませんの」

 澄子は学生さんをまっすぐ見上げて、正直にそう述べた。澄子は、じぶんがみすぼらしいとはおもわなかった。絣のきものは色あせているけれど、きちんと着つけているし、髪の毛はつやに欠けるけれど、丁寧にとかして結っている。荒れほうだいにならないよう手に油を塗るようにしているし、今日は街に出てくるためにすこし紅もさしている。

「じぶんでおもっておりませんので、ですからわけも、おこたえいたしかねますわ」

 澄子がおおまじめに言うあいだ、学生さんはなにか、呆然自失といったようすで澄子を眺めていた。澄子が言い終えても感想はなく、うちひしがれているようにすら見えた。なんだかちょっと気の毒なかんじがして、澄子はそっとつけ加えた。

「あのもし、どのあたりがとくに、よくないかんじがなさったのか教えていただけましたら、おこたえできることがあるかもしれませんけれど……」

 学生さんは、黙っている。どうしたのだろうといぶかしみ、もしやこのひとは、と澄子はおもいついた。おおきな声では言えないことで、いまひどく困っているのかもしれない。手かなにかで合図など出してはいないのかしら。だれかほかのひとを呼んだほうがいいのかしら。

 澄子はためしに学生さんの手もとを見た。けれどたくさん本を抱えているので、合図などは出せそうにない。そこでもういちど顔を見ると、やはり打撃をこうむったというふうで口を閉ざしている。

「あの、ひょっとして」

 澄子が言いかけたのを、学生さんの声がさえぎった。

「きみ、どうして着飾らないのだい」

「え」

「きみはどうして、着飾らないのだい」

「あの」

「きみはなぜ着飾らないの」

「はあ」

 とつぜんの矢継ぎ早な問いで、けれども内容はすべておなじで、澄子は満足に返事もできなかった。学生さんは、どうしてか混乱しているように見えた。ぽつりと、つぶやいた。

「こんなに着飾っているひとたちばかりなのに」

 澄子は振り返った。たくさんのひとびとが通りを行き交っており、みんなさまざまなものを身につけている。山高帽にベレー帽、袴にスーツに革の鞄、二重回し、編み上げブーツ、長羽織、金釦、蝶結びのリボン。都会なのであざやかだ。でも、みんながみんなよそいきというわけではないし、澄子とおなじような格好のひともたくさんいる。だれも、こんなに着飾っている、と評されるほどとはおもえない。

「きみは着飾ろうとおもったことはないのかい?」

 澄子は学生さんに向き直った。黒い瞳がなんだかすこし、かなしそうで、澄子は母の鏡台にしまわれていた黒真珠の首飾りをおもいだした。

「あまりございませんわ」

 澄子はこたえた。

「動きやすいのがすきですの」

 学生さんはゆるゆると首を振った。

「着飾ればいろいろと、できることが増えるのに」

 そんなことを言う。澄子は、その腕に抱えられた本たちに目を移した。背表紙に見たことのない文字が刻まれていた。この学生さんは、声に出せない差し迫った事情があるのではなく、この、椅子にもなりそうな珍しそうな本に書いてあったことに感化されているのかもしれない。澄子もすくなからず、似たような経験をしたことがあった。

「目の前がひらけるようなことが、なにかおありでしたの?」

 そんなものはない、と学生さんは言下に否定した。

「視野はきみの存在のために狭窄している」

「まあ、そうでしたか」

「そうだ」

「ええ……」

「おいきみ、ところでいままでなにをしていたんだ。その大荷物はなんだ」

「御使いですわ」

「御使い? だれの」

「おうちのですわ」

「なぜ」

「年の瀬も近いですし、いろいろと入り用ですの」

「心底どうでもよいことだ」

 学生さんはこめかみを押さえた。かとおもえばぐっと背中を曲げて、澄子をのぞき込んできた。きみ、いいか、とまるで父親のような調子になるので、澄子はついうなずいた。学生さんは言った。

「きみは着飾るべきなのだ」

「はい」

「わかってもいないのに、返事をしちゃいけない。着飾ればどうなるか、きみはしらないのだろ」

「すこし、動きづらくなりますわ」

 そんなことを言っているのではないと、学生さんは強い口調で断じ、そしてひとりごとのように続けた。

「だれでも飾りになるものならいくらでも持たされるだろ、それをちゃんと使えばじぶんを主張できる」

「ええ、はい──」

「そうすれば、ひとをなにもしらないと小馬鹿にしてもよいし、傷つけてもたいていゆるされるし、まるでこの世の真理をさとったかのようにふるまってもかまわないのだし───」

 澄子は、街のひとの気配が、だんだん遠のいていくように錯覚していた。これはなにかあやしい話だったのかしら、いますぐ遁走したほうがよいのかも、と考えながら、学生さんの目を見ていた。まぶたが強く閉じられて、ひらかれた。

 きみ、いいか、と学生さんはふたたび言った。そんなわけがないけれど、泣き出してしまうのではないかと、澄子はおもった。

「きみは、とてもみすぼらしい────」

 くす、と澄子はわらった。学生さんの瞳はゆれた。澄子は言った。

「だけどわたくしそうはおもいませんわ」

「そうだろうとおもう」

 学生さんはつぶやいた。澄子と目を合わせようと折り曲げていた背中を、もとのように戻した。

「引き留めて妙なことを言って、すまなかった。不快なおもいをさせただろう。もう行ってくれてかまわない」

 その声は、街の喧騒の中ひくく響いた。澄子は首を横に振った。

「いいえ、わたくしのほうが。よいお相手になれず」

「きみがそんなことを言う必要はない。行き給え」

 学生さんに会釈して、澄子はあとずさった。

「では、失礼いたします」

 うなずいた学生さんに背中を向け、ひとびとの流れに戻りかけて振り返る。目が合った。

「だけどわたくしどうしたら、おっしゃるようにできますの」

 学生さんはいちど、口をぎゅっと結んでから、澄子にこたえた。

「それは、わからない。じぶんでどうにかやるしかない」

 聞いて澄子は、にこりとわらった。

「わかりましたわ。どうも、ありがとうございます。ではさようなら」

 澄子は歩き出した。ひどくつめたくまばゆいのだった。学生さんの言ったことは、これっぽっちもわからなかった。わかりたい気も、しなかった。澄子はじぶんがみすぼらしいとは、ただのすこしもおもわなかった。




おわり

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