第9話 不穏な影

雪穂が学校に着くと、そこには見慣れた教室の風景が広がっていた。

昨夜あんなことがあったからといって、別に学校まで何か変わるわけはないと思っていたが、それでも漠然とした不安は、通学路を歩いている間も拭い去れなかった。

道を歩けば歩くほどに、その漠然とした不安は増幅していった。


「おはよ」

やる気のない挨拶を教室の中に放つと、まばらながら返事が返ってくる。

「おっおはよ~~~~!」

そして、そんな雪穂に対して全力で手を振る人物が一人。教室の奥からでも大いに目立つ少女、綾崎風子だ。

「そんな全力でアピールしなくても気づいてるってば~!」

「えへ、でも元気が一番って言うじゃ~ん!!」

風子の座る席の近くに、雪穂も腰を落ち着ける。相変わらずやかましい風子の声だが、今日に限ってはそれがとてつもなく安心できた。


「雪穂~~なんかにやにやしちゃっていいことでもあったの~?」

「べ、別に…そういうんじゃないけど」

「あ、もしかして!わたしに会えて嬉しかったとか!」

パチンと指を鳴らし、合点がいったというような様子で、風子は雪穂の方へとウインクをした。

「あー、まあ……そういうことにしといてあげる」

実のところ、その予想は当たっているし、否定するのも風子に悪いだろうと、あえて雪穂は何も言わないことにした。


「何だ今日の雪穂やけに素直だな~~?いつもだったら、『は?そんなんじゃないし』とか言うとこだったのに~!」

「ごめん、今日ちょっと疲れてんの。昨日色々あって」

似ていないモノマネを披露する風子に、遂に呆れた様子で雪穂はそう答えた。

「ありゃ、そうだったの。それなら早く言ってくれりゃいいのに」

「風子が全力で手振るから、言うどころじゃなかったんだけど……」

「あ、そりゃごめん」

「うん、わかればよろしい」

と言いながらも、雪穂には、風子を不安にさせてしまったことに、少しだけ罪悪感が残ってしまった。

風子の顔を見て安心したかったのに、どこか不安の方が今は勝ってしまっている。


「どうしよ、やっぱ疲れてんのかな……」

そんなぎこちない感情を抱きながら、学校での時間は少しずつ過ぎて行った。


そして、昼休みの時間が来る。

「ひ~~るごは~~~ん!!雪穂も一緒に食べよ!」

やけに大きな弁当箱を机の上に置きながら、風子はごく自然にその机を雪穂の横に動かした。

「あー、そういえば。今日あたし朝ごはん食べてないんだったわ。もうお腹めっちゃ空いてる」

「…さっきお腹鳴ってたよ?気づいてなかったかもしんないけど」

「えっマジ?恥ずっ」

雪穂が改めて意識すると、凄まじいまでの空腹感に襲われ始めたことに気づく。

普段、朝食を抜くことなんてないから、ここまでお腹が空くなんてことはなかった。


「すごい疲れた顔してっし、ちょっとお弁当分けてあげよっか?」

「え?いいの?」

いつもなら断るところだが、そんな気遣いも忘れるくらいに空腹感の方が強かった。

「うちのお母さんいっつも作りすぎちゃうからさ~。ちょっと分けてあげるくらいで丁度いいんだよ。というかわたしのことまだ食べ盛りだと思ってんのがありえねー」

「あはは、風子ってすっごい元気いっぱいに食べるから、それが嬉しいんじゃない?」


「でもそんな食べたらまんまるになるって。嫌でしょ雪穂も」

「いや、あたしは別にそんなに」

「あ~~~調子乗ってるな細いからって!」

「うわっ!?ちょ、いきなりお腹つねんな!痛い痛い痛い痛い!!!」

「さっき調子乗った罰で~す」

「乗ってない!乗ってないから手離せって!!!」


やっとの思いで雪穂が手を離した後、お弁当のおかずの卵焼きを頬張り始める。

程よくだしがきいていて、丁度良い甘みもある卵焼きは、雪穂にとってはひっそりお気に入りのおかずだった。


「雪穂ほんとそれ好きだよね~」

「何でわかったし」

「いや、それ食べてる時だけちょっと顔がふにゃ、ってなってるから。もしかしてそれすごい好きなのかな?って思って」

「カマかけたな~~~そうだよ。卵焼き好きなの。食べてると安心する」

風子にそう言われるのはなんだか恥ずかしいな、と思いながらも、それ自体は本当だし、何だかそこまでは悪い気はしなかった。

「じゃあさ、それ1個くれない?」

「え?タダはダメ」


「そんじゃこの唐揚げと交換でどう?」

「それなら取引成立、いいよ」

「やった~~~~!」

「このくらいで喜んじゃってまあ、この幸せ脳みそめ」

「幸せ脳みそかもしれないけど、いつも怒ったり不満流してるよりはその方がよくない?それにさ、雪穂朝自分で鏡見た?」

「……ん、あー。時間なくってちゃんとチェックしてない」

正確には、気にしている余裕なんてなかったというような話なのだが。

「目の下にクマ、出来てるよ。もしかしてあんま眠れてない?」

そういえば、朝母にも疲れた顔をしていると言われた気がする。そんなにひどい顔をしているだろうか。

「…あ。うん。実は色々あって。でも心配しなくていいよ。もう解決したから」

「…そ?気になることあったら言ってね。わたしたち、友達だかんね?」

「うん」


雪穂は恐る恐るながら、小さくうなずいた。風子とのやり取りの間で、少しだけ嘘をついてしまったからだ。

彼女にとって、風子はいつも正直で、嘘なんて絶対につかない人だ。だからこそ、風子のことはすごく信頼しているし、いざという時は、頼りたいと思っている。

そんな彼女に対して、わざわざ自分の問題を隠したことが、雪穂にとってはちょっとした罪悪感になっていた。

「…(やめよう、私らしくもない)」

そのまま食べていた昼食を食べ終わって片づけると、何か気晴らしでもしようかと、学校の中を適当に歩きでもしようかと教室を出た。


「にしてもまさか、隈出来てたのバレてたとはねぇ……風子のやつ、なんか妙なとこ鋭いんだよなぁ」

自販機の前に立ちながら、そんな独り言が口をついて出る。

気が緩んでいたのか、あるいは自販機が独り言を聞いてくれるとでも思ったのか。

少し苦笑しながら、ジュースでも飲もうかと財布をとり出した時。

ドンッ、と雪穂の身体に衝撃が伝わる。瞬間、持っていた財布が手から離れ、その場に小銭が大量に散らばった。

「なに……あーもう……!」

落ちた小銭を拾い上げながら、ぶつかってきた人物の方を見ようとする。


「あ、ごめ」

途中までごめん、と言おうとしたが、その時雪穂に恨めしい目線が突き刺さり、つい言葉が止まる。

そこにはクラスの男子生徒の姿があった。名前は確か澤田、なんていったか。ほとんど交流もなく、目立たない存在だったため、名前もうろ覚えだ。

澤田はそのまま、避けるようにして視線を逸らし、走り去るようにその場から姿を消した。

「何だあいつ、感じ悪っ……」

その男子が過ぎ去った後、自販機から出てきたリンゴジュースの缶を拾い上げながら、雪穂はひっそりと呟いた。


ジュースを飲んでいる最中、雪穂はあることにふと気づく。

澤田の目線から、何やら先日感じたことのあるような嫌な気配がしていたということに。

冷や汗をかき、手に持ったジュースを落としそうになる。

頭がズキリと痛む感覚に、雪穂はどうしようもないような不快感を覚えた。

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