フミと白武(2)


 城内の東の空が白む頃、白武はふと、外に吊るした風鈴のことを思い出して目が覚めた。昨晩フミに外してもらおうと思っていたが、すっかり失念してしまっていた。昨日、五の間の士官は大層立腹していたので、勤めを始める前に回収しなくてはまた怒られてしまう。面倒事は早めに芽を摘まねばならないと、白武は布団からゆっくり身体を起こすと、枕元にあった杖を頼りに立ち上がった。早朝にフミを起こしてまでさせる仕事ではないと、隣の部屋で眠る彼を起こさぬように足音を忍ばせて廊下を歩く。古い板張りの廊下が僅かに軋むが、障子の向こうでフミが起きる様子は無かった。庭では雀らが無邪気に鳴き、砂利の上を楽しそうに跳ねて遊んでいる。

 寝所から六の間まで、それほど遠くない。以前は東院の最奥に六の間があったが、足が不自由なせいで非常に苦労をしているところを先代の殿が気にかけ、寝所から一番近い部屋に大々的に入れ替えてもらったのだ。白武のような下々の者にも気を配り、仁義に厚く、慈悲深い、とても心優しい殿であった。


 今年の冬で、殿が亡くなって五年が経つ。

 もうこの榮の国は、あの頃のような平穏さなど見る影もない。随分と血生臭い国になってしまった。

 先程雀が遊んでいた砂利の上は、つい先日、赤い血で染まったのだ。



 使い童──と呼ぶには既に大きく、常に殿の横に佇み寵愛を一身に受けている青年が、ある日殿にこう告げた。


 『あの人が、私の顔を見ては淫売と嗤うのです。先日もすれ違いざまにそう言われました』


 さめざめと泣く青年を宥めながら、殿は怒り狂った。話の真偽など確かめず当の本人を呼びつけると、使いの者らが押さえつけ、その場で首を一気に刎ねさせた。その男は東院とは何の関係も無い、中央の宮中行事を司る士官であった。よりにもよって自分の庭とも呼べる場所での殺生に、白武も面を食らった。殿と青年はたまたま東院の庭に降りた鷹を見に来ており、そこをたまたま訪れた中央の士官と鉢合わせしただけのことであった。不運である。

 先代の殿は名君であったが、当代の殿は青年を横に置くようになってからただの暗君となってしまった、と周囲は零す。青年の我儘なら何でも聞き、彼の一声で生かすも殺すも躊躇がない。生殺与奪の権を青年が握っていると言っても過言ではなかった。確かに、そこいらの美丈夫とは比べ物にならない程の眉目秀麗な青年ではあるが、当代の殿を腑抜けにさせ、自由気ままに城内で生きる様は、遥か昔の遠い国にいたという殷王朝最後の妻・妲己を彷彿とさせる。紂王を虜にし、酒池肉林の贅沢三昧、炮烙ほうらく蠆盆たいぼんでもがき苦しみ死にゆく人間の姿を見ては愉快に笑う、国を滅亡へと向かわせた毒婦。

 城内の者らは、彼を妲己の生まれ変わりと揶揄していた。 

 

 伝説によれば妲己は九尾の狐であったという。

 

 その青年──於保おほ氏も狐なのかもしれない。勿論白武は絵巻物でしか狐を見たことがないので、どういう生き物かはよく分かっていないのだが。

 ただし、殿には妻がいるという噂もある。姿は見かけたことはないが、妻というものがありながら、於保氏を寵愛する殿の嗜好が、白武には理解ができなかった。



 「白武様、おはようございます」

 そんな物思いに更けながら庭を眺めていたら、背後からフミが声を掛けてきた。手には桶を抱え、中に手拭いが浮かんでいる。

「今日はお早いですね」

「すまない、起こしてしまったかな。いや、軒下の風鈴を外すことを忘れていてね」

「それならば、私が昨夜外しました。五の間の人らが五月蠅いですからね」

「おや、気が利く。ありがとう」

「五の間の人の声よりも、風鈴の音色の方がずっと美しいのに。あいつらを軒下に吊るしましょう。どんな音色で鳴くのか知りたいです」

「はは」

 普段は冗談を言わないフミが真顔でそう言うものだから、白武は声を上げて笑った。

「顔を洗おう。そのまま一旦戻ろうか」

「はい」

 両手で桶を抱えながら歩くフミの後ろを白武が杖をついて追う。使い童は主の前を歩いてはいけないが、白武はそういう意味のない決まりごとは気にするなと、フミが使い童としてやってきた初日から伝えている。むしろ、自分の前を歩いてくれたほうが、杖歩行の障害となるものを事前にどかしてくれるので有難い。無礼だとは思わないし、フミ自身も幼い頃から礼儀をしっかりと叩きこまれているので、無礼だと思わせるような立ち振る舞いはしない。

朝餉あさげは何だろうか」

「昨日炊事場を見たときは、煮豆と海苔が用意されてありましたよ」

 談笑しながらフミが白武の方を振り返る。その瞬間であった。

「あっ!」

 ぬるりと部屋から出てきた何者かにぶつかり、桶の中の水が派手に零れてしまった。相手の着物の裾が濡れる。慌てて顔を上げる。

「於保殿……」

 フミの顔面は一気に青くなった。よりにもよって、於保氏の着物を濡らしてしまったのだ。彼の人となりはフミも勿論知っていた。先日の庭での殺傷沙汰も、その一部始終を見てしまい、しばらくはろくに食事すら入らなかった。

 フミはすぐに桶を置いて膝を付くと、額を廊下に擦りつけて深い土下座をした。続いて白武も横に座ると、同じように頭を下げた。

「申し訳ございません!」

 年始の挨拶の時には、於保氏の裾に大きな蛾が止まったことを笑った士官が、すぐにその場で捕らえられて庭にて斬首された。たまたま西の院を覗きに来た於保氏の着物の裾に、たまたま墨を飛ばした下官も翌日には斬首された。

 命を虫けら以下だと思っている男に土下座などしても、意味もないことは分かっている。しかし、そうせざるを得ないのだ。土下座をすることで少しでも殺される可能性が回避できればと、奇跡を信じて謝り続けた。

 どれくらい時間が経ったのだろう。頭上から、「頭を上げろ」と声がした。二人はゆっくりと頭を上げ、恐る恐る於保氏を見上げた。

「着物が濡れたぐらいで私は怒らん。そもそも勝手に入り込んだ私が悪い」

 予想外の返事に思わず耳を疑った。だが於保氏は辺りを見回しながら、話を続ける。

「六の間を探している。だがここは間の順番がてんでばらばらで、さっぱり分からんのだ」

「六の間、ですか」

「分かるか」

「私はそこに勤める士官、白武でございます」

「そうか、なら話は早い、案内しろ」

 於保氏はしゃがみ込むと、土下座の姿勢のままの白武の肩に手を置いた。思わぬ展開に戸惑いながらも、於保氏の頼みを断れるわけもなく、フミの手を借りてゆっくりと立ち上がり、「こちらです」と案内する。まだ手の震えが止まらない。フミも顔色を相変わらず青ざめたまま、水が半分に減った桶を持つ手が震えていた。起き上る際に見えた於保氏の裾は、しっかりと濡れていた。許されたのか、猶予を与えられたのか。とにかくフミがその場で殺されなくて良かったと、心の中で大きく胸を撫でおろした。

「白武と言ったな、足が不自由なのか」

「はい、先の大戦で矢に射貫かれてからは、ずっと杖が手放せません」

「難儀であったな」

 労いの言葉を掛けられるとは思わなかった。殿の横にいる時の彼はもっと妖艶で、非力な青年に見えるのに、今の彼は不思議と凛々しい。そういえば、彼が単独で城内を歩く姿は、あまり見たことがない。いつも殿の半歩後ろに佇むか、使いの者を従わせているのだが。

「こちらです」

 六の間に辿り着き、フミがゆっくりと襖を開く。まだ誰も働いていない静かな間に、墨の匂いが漂う。

「戸籍を見せてほしい」

「戸籍、ですか。どちらの」

基峰きみねに住む者の戸籍だ。どこにある」

 基峰とは、隣の国との境にある町のことである。

「お待ちください」

 白武はさらに奥の書庫から、綴り紐でまとめた基峰の戸籍禄を取り出す。於保氏は北部の出だと聞いている。東部とは関係が無いはずだ。なぜそれを見ようと思ったのか白武は不思議に思ったが、不躾に尋ねることはしなかった。絹のように銀の美しい髪が風で静かに揺れると、於保氏は襖を閉めるようにフミに言った。

「フミと言ったな」

「はい」

「先程のこと、気にするな。むやみやたらに子供を殺めるほど私は非情ではない」

 戸籍に目を落としていたその美しい藍色の眼が、すっ、と横へ流れた。二人は改めて深々と礼をする。於保氏はまた戸籍に視線を戻し、何かを探すように熱心に項を捲っていた。今まで遠巻きにしか見たことがないが、白い肌に切れ長の目、高い鼻に薄い唇。その横顔は玉のように美しく、殿が寵愛する理由が白武は分かったような気がした。

「気が済んだら帰る。お前たちはもう下がってよい」

「はい」



 二人は静かに六の間を出る。その頃には朝日が顔を出し、城内を明るく照らしていた。白武はそっと、フミの背を撫でる。緊張から解放されたのか、力のない顔でふにゃりと笑い、そこで大きく深呼吸をした。眠気など一気に醒めてしまい、どっと疲れが出た。まるで一日働き通したように酷く重い疲労感だ。

「……死ぬかと思いました。五の間の人間ではなく、私の首が軒下に吊るされるのかと思いました」

「おまえはさらりと恐ろしいことを言う」


 次第に東院にちらほらと人の気配が現れる。炊事場の竈から昇る淡い白煙、味噌と飯の匂い、他の世話児が井戸で水を汲む音、馬の嘶く声、蝉の声。


 また変わらぬ日常が始まろうとしていた。




(続く)

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