【No.034】探偵と不器用な恋

【メインCP:男7. 佐伯さえき つよし、女3. 銀音シロガネ 雷香ライカ

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〈夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった〉

 ふいにそんな言葉が頭に浮かび、まぁ僕は若くもないか、と心の中でひとり笑ってしまう。ウィリアム・アイリッシュが名作ミステリー『幻の女』の中で、冒頭に置いた一節で、古くからの親友でもあり、彼女の父親でもあった探偵が愛読していた一冊だ。彼女去りしのち、僕の部屋にはその本が今でも残ったままで、その背表紙を見るたびに、僕は彼女のことを思い出していた。この感情を恋と呼ぶのならきっとそうなのだろう。だけどふた回りも年齢の離れた相手に、その感情を認めたくない自分もいる。


『父が大好きで、だから繰り返し読んだの。佐伯さんは勧められたりしなかった?』


 一年前、銀音雷香シロガネ ライカは僕の目の前に突然現れて、そしてわずかな間、共に活動し、彼女は僕の目の前から姿を消した。初めて会った時、まだ幼さの残るあどけない表情をころころと変えながら、「私は父のような探偵になりたいの。そのためにもまず、父の足跡を辿ろうと思って」と僕に言った。彼女の父は僕の幼馴染で、幼少期の頃から知っていた。剛、と彼は僕のことを呼び、僕はいつも彼ともうひとりの幼馴染の後ろに隠れているような少年だった。


 雷香は僕に会うと、いつも彼女の父親の話をせがんだ。

 彼女の父親は正義感が強く、将来、警察官になりたい、と言っていた。だけど彼が選んだのは、探偵で、警察官になったのは、もうひとりの幼馴染だった。警察官として、彼女の父親に協力していた時期もあるそうだ。ふたりは似た職業に就いたが、僕はふたりとは何ひとつ繋がりがない建設業を選んだ。だから大人になってからのふたりを実のところ、あまり知らない。


 警察官になったもうひとりの幼馴染の話をすると、

『あっ、そのひと、私の初恋なんだよね。憧れだったんだ。結婚してるから、叶わない恋なのに、ね。佐伯さんは結婚とかしないの』

 と雷香は言っていた。ひとの古傷を抉らないでくれ、と心の中で苦笑しながら、僕は、いまのところは、と答えた。


『剛くん、って憧れとか恋とかに向かないんだよね、たぶん。だから結婚には向くのかもしれないけど、どうにも乗り切れなくて』

 十年前、結婚を考えていた相手から告げられた言葉だ。どうも僕はそういう対象にはなりがたいらしい。雷香が僕の自宅を訪れるたびに、「ホクロは佐伯さんといつもふたりで寂しくないかにゃ」と語りかけていたペットの猫が、失恋を機に飼いはじめたとは想像もしていないだろう。


 僕と雷香が関わっていた期間は、一年にも満たない。その短い期間の中で、彼女は自分の父親に関することだけではなく、ときおり、僕自身のことも聞いてくるようになった。


「佐伯さんといると落ち着く。その理由を知りたくて。謎を分からないままにしておくなんて、探偵失格でしょ」

 照れを隠すように、雷香は笑った。別に彼女が僕に抱える感情が恋でなくても構わない、と思った。むしろそのほうが彼女の未来を考えれば、良いに決まっている。ただ、それでも。静かに独り身を満喫していたはずなのに、このすこし騒がしくなった日常を望んでいる自分がいる。


『アメリカに行こうと思っている』

 雷香のまなざしには、揺らぐことのないだろう覚悟が込められている。彼女の父親が二十代前半の半分近くをアメリカで過ごしたように。僕の部屋でのことだ。その日は小雨が降っていて、窓越しの景色は寂しげだった。


 今日のような静かに降り落ちる雨だ。あれから三ヶ月くらいの月日が経っている。僕はホクロの頭を撫でる。「雷香に会えなくて寂しいか」にゃー、とどっちの感情か判断のつかない鳴き声が返ってくる。


 あの日、僕はほほ笑んで、行ってらっしゃい、と伝えた。「ありがとう。……でもね、ちょっとだけ期待してたんだ。『行くな』って佐伯さんが言ってくれるの。ごめん。これは私のわがままだね」と彼女の瞳は潤んでいた。例えば僕が二十歳前後の青年だったなら、と考えてしまうこともある。物分かりのいい大人を演じる必要もなかったかもしれない。だけどこんなにも年齢の離れた、親友の娘に。心の中で言い訳を重ねる。


 ビールでも飲もうかな、と冷蔵庫を開けると、ひとつも残っていなかった。やめろ、ってことかな、と僕は自分のぽっこりと膨らんだお腹に手を当てる。そんなことを思いつつも、結局、僕はコンビニに買い物に行く。帰ってきて、鍵を開けようとして、締め忘れていたことに気付いた。たまにやってしまう。まぁ大丈夫だろう、と思いながら、玄関のドアを開けると、リビングから声が聞こえてきた。


 聞き馴染みのある声だ。


「ホクロは佐伯さんとふたりっきりで寂しくなかったかにゃ」

「どうして……」

「まずその前に、鍵の閉め忘れに気を付けましょう」と何故か雷香は丁寧な言葉遣いだ。「危ない目に遭うかもしれません」


「ごめん。……というか、アメリカは」

「つまりは、探偵、帰還しました、ということかな。うん。ただいま」


 雷香が僕に抱きついてきた。



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【本文の文字数:2,023字】

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