第一章 女男爵とパセリ①
「サラ! サラ、どこです!」
「は~い、奥さま!」
呼ばれたサラは、急いでこの屋敷の夫人の元へ向かう。駆けつけたサラを見るなり、夫人は神経質そうな顔を強張らせた。
「なんです、ドタドタと足音を立てて! 屋敷の中では優雅に振舞いなさいと、いつも言っているでしょう!」
「あっ、申し訳ありません。少しでも早く駆けつけた方がいいかと思って、つい」
頭を下げるサラを見て、夫人はこめかみを押さえる。
「まあ、いいです。それより、サラ。あなた、また洗い物中にカップを割ったそうですね。しかも一度に二つも! まあ、あなたはどうして毎度毎度……」
「お言葉ですが、奥さま。それは違います」
夫人の小言を遮り、サラはきっぱりと否定する。
「なんですって? それじゃあ、あなたは自分がカップを割っていないと言うの? 嘘をおっしゃい! ちゃんと他の使用人たちが見ていたんですよ!」
「いいえ、奥さま。あたしが割ったカップは、三つです!」
どこか得意げに、サラは指を三本立てて見せる。しばし言葉を失った夫人だったが、はっと我に返り、急いで顔を引き締めた。
「サラ、いいですか。私はあなたに、あまりに失敗が続くことを不審に思っていました。考えたくはありませんでしたが、他の使用人たちに嫌がらせを受けているのではないか。そう思い、彼女たちを呼び出し、問い詰めました。果たして彼女たちは、嫌がらせを認めました」
「えっ、そうなんですか?」
サラが思わず声を上げたのは、まったく身に覚えがなかったからだ。
「彼女たちは言いました。最初は軽い出来心だったと。ですが、食器を洗うあなたの目を盗み、皿を一枚割っても、その隣で手を滑らせたあなたは三枚の皿を床に落とす。わざと固いベッドを宛がっても、あなたは何事もなく熟睡。しかもあなたの寝言で、他の使用人が眠れなくなる始末。食事の際には、あなたにだけ傷んだ食材を出したこともあるそうです。ですが、びくともせず。逆にあなたが作ったまかないを食べた使用人は、
「し、知りませんでした」
「そうでしょうね。彼女たちは涙ながらに訴えるのです。これではどちらが嫌がらせをしているのか分からない、と。結果、あなたが凄いということは分かりました、いろんな意味でね」
「いや~、それほどでもないです」
「褒めてません! 掃除、洗濯、皿洗い、料理に裁縫……。どれも自信満々な素振りで取り掛かって、何一つまともに出来ないじゃない。一体、どういうことです?」
「はあ、ですが奥さま。だから、あたしは面接のとき、家事全般不得手だと申し上げたはずです」
「謙遜していると思ったんです! ああ、慎みのある人なのね、などと少しでも考えた自分を絞め殺してやりたいわ! まさか馬鹿正直に答えているなんて……。それにあなたの場合、不得手というレベルではありません。完全に『冬の庭』よ!」
エルウィン島の冬は厳しく、閑散とした庭の様子は死体置き
「す、素晴らしいです、奥さま! 確かにあたしの家事の腕前は『冬の庭』。まさに言い得て妙。今度からそう答えるようにいたします!」
「感心するところではありません!」
怒り出すどころか、本気で感心するサラ。夫人は思わず天を仰ぎ、神に救いを求める。
「奥さま、安心して下さい。物は考えようです。あたしの家事の腕前は、これ以上悪くなり様がありません。だからあとはもう、上達するばかり。すぐに一人前になってみせます」
「何事にも前向きなのは素晴らしいことよ。だけど、あなたが一人前になる頃、我が家の食器棚は一体どうなっているでしょうね?」
「きっと『冬の庭』です」
がっくり
「サラ、一つお願いがあるの」
「はい、何なりと」
「ありがとう。じゃあ、お願い。もう今日でここを辞めてくれるかしら? とても私の手には負えないわ」
「はあ~、またクビになってしまいました」
公園のベンチに座り、サラは一人ため息を吐く。
住み込みで働いていた屋敷を追い出されたのだ。今夜からは寝る場所もない。春から初夏に移ろう季節。外で寝ても凍えることはないだろうし、田舎の山では何度も野宿を経験している。手元の資金も心許ない。それでも、出来ることなら粗末でもベッドの上で、シーツに
宿を探そう、とは思うものの億劫だ。気持ちと体は重く、財布は軽い。気付けば近くにあるこの公園に足が向いていた。
サラが
思い返せば一年前、リットンに到着したその日に、衝撃的な事件に遭遇。あれが不運の始まり。結果、働き先への紹介状をダメにしてしまった。
紹介状は、サラの祖母が書いてくれたもので、宛先は知り合いのお屋敷としか聞いていない。紹介先の住所を書いた紙も水浸しで判別出来ず。結局、そこでの就労を諦めることに。
それでもサラは楽観していた。
「まあ、何とかなりますよ」
翌日から早速、職業案内所に通って仕事を探した。希望は住み込みで、三食付き、そして庭師だ。しかし、これが見事なくらいにない。
『はっ、庭師!? 女が庭師になんかなれるわけないだろ?』
『庭師は力仕事なんだ。細腕の小娘に出来るわけないだろ?』
『そもそも庭師は、使用人の中でも格式が高いんだ。お前のような田舎者の、しかも女を庭師として雇う屋敷なんてないよ』
けんもほろろである。
「ばあちゃんの言った通りでした」
サラの口からまた、ため息が零れた。
仕方なく、一旦庭師を諦め、すぐに働けるところを探した。兎にも角にも、当面の
サラも幾つかの働き口を見つけられた。
だが、結果は散々だった。最長で三か月、最短でその日に解雇を言い渡される惨状。むしろ二か月以上続いた今回は、よく持った方だ。あの奥さまは実に忍耐強い人だった。サラのせいで、気の毒なことをしたと思う。
まともに働けない自分が悪いのだが、さすがにサラだって凹む。サラは凹むと、よくこの公園に足を運ぶ。
土地も、建物も足りないリットンにも公園はある。ささやかな木々や草花が植えられ、あくせく働く労働者たちの欠かせぬ癒しの場となっていた。都市では貴重な緑を求めた多くの人で、いまも賑わっている。
だが、木々より高い建物に四方を囲まれた公園は、どこか閉鎖的で、サラには息苦しく感じる。それでもここは、サラが都市で見つけられた唯一の心安らぐ場所。多くの労働者と同じように。
「都会は、緑が少ないなあ……。いつもだったら庭の空気を胸いっぱいに吸い込んで、ばあちゃんの料理をお腹いっぱい食べれば、すぐ元気になれるのに」
だがいまは、そのどちらもサラの周りにはない。
田舎に帰ろう、とは何度も考えた。田舎に帰って、ばあちゃんにもう一度紹介状を書いてもらえばいい。だが、サラは躊躇った。ばあちゃんはサラがリットンに行くことを、ひどく心配していた。田舎で自由気ままに育った孫が、何かと窮屈な都会で果たしてやっていけるだろうかと。
そんな祖母に、サラは力強く胸を叩いて見せた。「大丈夫! 心配しないで」と。ようやく浮かんだ安堵の笑みを、サラはよく覚えている。
あの時のばあちゃんの顔が、サラに田舎へ帰ることを躊躇わせた。
「もう少し、頑張ってみるよ」
そろそろ日が暮れようとしていた。
公園からの帰り道、サラは花を買った。名もない白い小さな花。
花を見つめながら、サラは祖母の言葉を思い出していた。
「『もしあなたがパンを二つ、買うお金を持っていたなら、パンを一つと花を一輪買うとよいでしょう。パンはお腹を満たし、花は心を満たしてくれるから』。本当だね、ばあちゃん」
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