第7話 軒猿

春日山城で守護代である兄長尾晴景から国衆に対して、数年のうちに家督を景虎に譲ると宣言された翌日。

景虎は春日山城の一室の縁側で、庭を見ながら一人でこれからのことを考え込んでいた。

これから先、どうしても必要なものがいくつかある。

その一つが情報を集める組織。

生まれ変わる前は、家臣たちの中で才能のありそうな者達を選び育て上げていったが、時間がかかる。

出来るならばできるだけ早期に立ち上げ有利に動きたい。

特に武田晴信を早期に抑え込みたい。

そのためには、忍びの組織を作らねばならないと考えていた。


よく言われる軒猿衆は江戸時代以降に創作されたもので、景虎が上杉家を継いで以降も軒猿衆という呼び名は存在せず、上杉謙信の使う諜報組織に関して上杉家においては、夜盗組・聞者役・伏嗅ふしかぎなどと呼ばれていた。

敵対した武田信玄側である真田忍者で有名な真田家は、上杉側の諜報組織を夜盗組と呼んでいる。

直江兼続が米沢藩で家臣を使い諜報活動に使ったが、その者達は伏嗅組と呼ばれていた。

実際の上杉謙信の諜報組織は、才能のありそうな家臣に行わせたのが始まりで、その後山伏・商人を加え、さらに伊賀者・甲賀者を銭で雇い使うようになって行くことで出来上がっていった。


景虎が考え込んでいるところに、兄である長尾晴景がやってきた。

「何を考え込んでいるのだ。上田長尾家は時間をかけて説得するしかないぞ」

「いえ、別のことを考えてました」

「別のこと」

兄晴景は、景虎の横に座る。

「ひとつ聞いていいですか」

「いいぞ、なんでも答えよう」

晴景は、景虎が自分を頼ってくれることに嬉しそうな表情をする。

「兄上は、伊達稙宗の越後乗っ取りを戦を起こさずに防いで見せました。伊達稙宗が三男を越後に送ることを反対していた伊達晴宗と連絡をとっていたのでしょう。ですが、家臣たちを使い伊達晴宗と連絡をとっているように見えませんでした。どの様に話をつけたのですか」

「ハハハ・・そこに気がつくか、流石だ。他の者たちは誰もその部分に気が付かなかったんだが」

「やはり何かあるのですね」

晴景はゆっくり頷く。

「宗弦」

晴景の声に呼ばれて一人の男がやってきた。

髪の毛は真っ白でかなりの年齢のようだが、鍛え抜かれたように思える動きを見せてた。

景虎には見覚えのある顔である。

「見たことがあります。確か、兄上の家臣の末席にいる者ですよね」

「よく覚えていたな。名は猿倉宗弦。もとは伊賀抜け忍」

「えっ、兄上は忍びを持っていたのですか」

初めて知る事実に驚く景虎。

生まれ変わる前はそんな話は聞かなかったというか、そもそも、まともに兄と話すことがとても少なかったため知らなかっただけかもしれない。

「そうでなければ、景虎の言うように伊達晴宗と連絡は簡単に取れんよ。下手に国衆たちや普通に家臣を動かせば、伊達稙宗に情報が漏れる恐れがある。忍びを使うしかなかろう」

景虎は、思わず猿倉宗弦の顔をまじまじと見る。

「猿倉殿。伊賀忍びと言うのは本当か」

「景虎様。本当のことです。そもそも伊賀の地はとても貧しいのです。あまりの貧しさに里を出ていった上忍もいるくらいです。我らもあまりの貧しさのため一家そろって伊賀の地を捨て、雇ってもらえる場所を探しこの越後に辿り着きました。越後府中近くまで来たとき孫が病に倒れ、持っていた薬も効かず途方に暮れていた時に、通りかかった晴景様に救っていただき直臣武士として雇っていただける幸運にめぐまれました。普通、氏素性の分からぬものを直臣にするなどあり得ません。ましてや忍びを直臣武士にする大名はおりません。晴景様には返せぬほどの御恩をいただき感謝しきれません。それから伊賀の里での名は捨て、晴景様から猿倉宗弦という名をいただき、忍びの技を活かしてお仕えしております」

「一家揃ってと言われたが何人いるのです」

「今は、長男と次男の夫婦に孫が五人。他に縁戚の者達も呼び寄せましたから二十人ほどおります」

「抜け忍と言われたが何か咎めは無いのか」

「伊賀には三人の上忍がおり采配しております。そのうちの一人である服部家は、伊賀のあまりの貧しさに伊賀の里を捨てて出ていってしまったほどです。そんな状態ですから、抜け忍と言ってもせいぜい里を捨て出ていった程度の意味しかございません」

「そうか、それであれば良いが」

景虎の横に座る晴景が景虎の方を向く。

「景虎。儂に伊達稙宗のことを尋ねてきたということは、忍びの可能性を考え、忍びを手に入れたいと考えているのであろう」

「兄上には誤魔化せませんね。その通りです。この先、情報をいかに早く掴むかが重要になっていきます。五郎左衛門を経由した商人の情報だけでは、どうしても足りません」

「その歳で情報の重要性に気がつくとは・・良いだろう。猿倉たちを使うことを許可しよう。猿倉も景虎に力を貸してやってくれ」

「晴景様・景虎様。もしも恩義ある晴景様が、武力で守護代の座を追われる事態になっていたら、我らは越後から去るつもりでした。しかし、こうして景虎様と力を合わせ政務を行い守護代を譲られるのでしたら喜んで従いましょう」

「ありがたい、よろしく頼む」

力ずくで物事を行えば、去っていく者達もいるのだと改めて痛感するのであった。

「景虎。せっかくお前の忍びになるのだ。何か名前をつけろ」

「忍びの名を私が付けても良いのですか」

「お前のための忍びなのだ。お前が新しい名をつけよ」

「兄上はなんと呼んでいたのですか」

「儂は、伏嗅と呼んでいた」

以前と同じ夜盗組や伏嗅ではつまらんから別の名を付けたい。

何かないか腕を組んで考えてみる。

「昔、大陸の皇帝に軒猿黄帝けんえんこうていと呼ばれる方がいて、その皇帝が間者を使ったと学びました。それと猿倉殿も猿の字がございますから‘’軒猿のきざる‘’でどうでしょう」

「軒猿か、良い名だ。良いだろう。景虎。お主の忍びの組織を軒猿と呼ぼう。猿倉も良いな」

「承知いたしました」

「猿倉殿。お主を長に組織の拡充を図ってほしい」

「忍びを増やすのですか」

「越後国内以外にも、近隣諸国の情報も手に入れたい。越後府中は他国との距離が短い。何か起きればたちまち危うくなる。そのために手勢を増やしたい。信濃国に多くの忍びがいる。できたら信濃の忍びをできる限り、此方に引き入れたい。近隣の忍びを他の大名に取られることはこの越後府中を危うくする。このまま放置すれば信濃の忍びは全て他の大名に奪われるぞ」

「承知いたしました。伊賀・甲賀への伝と山伏の伝を使いあたってみましょう。それと信濃には戸隠忍びがおります。戸隠には多少伝があります。そちらにも話をしてみましょう」

景虎は、直属の忍び組織を作る足掛かりとなる者達を兄から譲り受け、直属の忍びを組織していく事になる。

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