祓屋天霧の後継者 御曹司と天才祓師

竹村優希/角川文庫 キャラクター文芸


 悪霊はらいよしてんは、人生最大の窮地に立たされていた。


 ほんの十数センチ先から天馬の顔をまっすぐに見つめているのは、青白い顔をした、能面のように無表情な女。

 まるで絵の具で塗りつぶしたかのような、まったく光の宿らない漆黒の目にとらえられた瞬間から、天馬は身動きが取れなくなった。

 言うまでもないが、この女は人間ではない。

 上からの指示により出向いた先で遭遇した、数百年もの年月を彷徨さまよったであろう、いわゆる悪霊だ。

 ただしそのまがまがしさは最初の想定を何十倍も上回っており、到底太刀打ちできる相手でないことは、くわした瞬間から明白だった。

 共に出向いた同僚の祓師が、悪霊の姿を確認するやいなや慌てて援護を要請したものの、そんなことをしたら全滅してしまうという危機感を覚えた天馬は、とつの判断で悪霊を引き寄せ、山へ入った。

 やがて、ひと気のない場所に使われていない農具小屋を見つけてその中に隠れ、戸にじゆを貼って自分の気配をかんぺきに消し、悪霊の力が弱まる夜明けを待とうと考えた。──ものの。

 呪符の力はいとも簡単に破られ、現在に至る。

 生まれてこのかた、ここまでの無力感を覚えたことは一度もなかった。

 過去には、悪霊ばらいに失敗した祓師がむごい死に方をしていく様を何度か目にしてきたけれど、ここまでの相手はいなかったと天馬は思う。

 ただ、明確に死地に立っていたそのときの天馬は、思いの外冷静だった。

「ほら見ろ……、祓師なんてロクな死に方をしない……」

 無意識に口からこぼれたのは、ただの愚痴。

 思えば天馬は、幼少期に父親が目の前でゆっくりと悪霊にわれていく光景を目の当たりにした瞬間から、自分の特殊な生まれに心底うんざりしていた。


 日本では年に約八万人の行方不明者が出ているが、その内の数パーセントが悪霊絡みであるという事実は、天馬たち祓師のかいわいではごく当たり前の話だ。

 はるか昔から、その事実に変化はない。

 にもかかわらず、日本社会が飛躍的進化を遂げた現代において、いつからか悪霊という存在は非現実的なものとして世間に受け入れられなくなり、それと共に、祓師は居場所を失っていった。

 そんな中、かろうじて現代まで生き残っている祓屋の中のひとつが、天馬をまつえいとする「あまぎり屋」。

 天霧屋はおんみよう系譜の端くれでありながら、滅びゆくどうぼうたちと吸収合併を繰り返しつつ、なんとかこれまで血をつなげてきた。

 かつて天馬は父親から、「受け継いできた力に誇りを持て」と、「先祖たちによって必死に守られてきた歴史をお前が繫げてゆくんだぞ」と、毎日のように言い聞かされたものだ。

 天馬もまた、当然のごとくその言葉を受け入れ、悪霊を祓う父親の姿をいつも誇らしく思っていた。

 その父親が、あっさりと死んでしまうまでは。

 それを機に天馬の中に漠然とした疑問が生まれ、それは次第に大きくなり、当たり前だと思っていたなにもかもがこれまでと違って見えるようになった。

「……感謝されるどころか誰にも知られず、こんなわけのわからない不気味な奴に殺されるだけの役割に、どんな誇りを持てと言うんだろうな」

 愚痴があふれて止まらない中、悪霊は天馬の方に枯れ枝のような手を伸ばし、頰にボロボロに朽ちた爪を立てる。

 鋭い痛みとともにどろりと嫌な感触が頰を伝い、鉄のような生々しい匂いが鼻をかすめた。

 世間では幻覚のような扱いを受けている悪霊だが、実際は実体のない者もいれば、こうしてしっかりと人の体に干渉してくる者もいる。

 しかし厄介なのは物理的な力より、長い年月かけて練り上げられた、恨みや怒りなどの念。

 これに対抗するには、祓屋を名乗るに足る資質が必要となる。

 ただし、時代と共に絶滅しかけている祓師と、日々増え続ける悪霊とでは数のバランスが取れておらず、謎の行方不明者が爆増する未来は、もうすぐそこまで迫っていた。

 もし本当に祓屋が絶滅したらこの社会はいったいどうなるだろうかと、天馬はさほど興味もないことをぼんやりと考えながら、白みはじめた空を見てゆっくりと体の力を抜く。

 自分がこうして時間を稼いでいる間に夜が明け、その頃には仲間たちも無事に逃げおおせているだろうと確信したからだ。

 しかし。

「天馬!」

 ふいに名を呼ばれ、心臓がドクンと嫌な鼓動を鳴らした。

 咄嗟に視線を向けた天馬の視界に映ったのは、逃げるどころかぞろぞろと仲間を引き連れた祓師の同僚・けいの姿。

「慶士、お前、なんで……」

「逃げたとでも思ったか! 俺が仲間を見捨てるわけがないだろ!」

「馬鹿、違……」

「すぐに祓ってやるから待て! 全員で力を合わせればこんな奴、どうということはない!」

「いや、駄目だ、逃げ──」

 最後まで言い終えないうちに、慶士をはじめそこにいた全員が一瞬で姿を消し、天馬は天を仰ぐ。

 正確には消えたのではなく、悪霊が放った強い念に当てられ、背後に飛ばされたという表現が正しい。

 他の者はともかく、慶士は天馬と比べて元々体が大きい上、日々鍛錬を怠らずにひたすら鍛え抜いている肉体派だが、それですらかなわず、まるで人形のように無惨に地面に崩れ落ちた。

 やがて、ゆっくりと上半身を起こした慶士の目からは、さっきまでの自信が根こそぎ奪われていた。

「な、なんなんだ、こいつ……」

 絶望にまみれたつぶやきを零し、ふたたび地面に倒れる慶士を見ながら、天馬は、ほら見ろとあきれる。

 天霧屋の祓師全員どころか、日本全国から屈指の祓師たちを集めたところで太刀打ちできない相手であることくらい慶士ならわかっていただろうに、なにをのこのこやって来たのだと。

 結果、自分が犠牲になっている間に夜明けを待つという計画は台無しになり、天馬は無理やり腕を動かして懐から最後の一枚となった呪符を取り出した。

 これで少しの間でも悪霊の動きを封じられれば、慶士たちが逃げる隙くらいは作れるだろうと。

 皆の状態を確認しようがなく、上手うまくいく根拠などないけれど、今の天馬にできることはそれしかなかった。

 天馬は呪符をぎゅっと握り、ゆっくりと祝詞のりとを唱える。

 そして、これで死んだら次は普通の家庭に生まれたいものだと、ずいぶんのん気なことを考えながら覚悟を決めた。──そのとき。

 突如、──バシャンと奇妙な音が響いたかと思うと、目の前に迫っていた悪霊の顔が、真っ二つに割れた。

 どろりとした液体を真正面から浴びた天馬が、黒ずんだ視界の中で確認できたのは、悪霊の顔を貫く棒状のなにか。

「は……?」

 なにが起きたのか、まったく理解ができなかった。

 天馬の間抜けな呟きが響く中、禍々しい気配は噓のように消え、顔を割られた悪霊の姿もまた、燃え尽きた灰のようにゆっくりと崩れて空気に紛れていく。

 なにもかもが消えた後に残ったのは、見たこともない一人のきやしやな女だった。

 その女は息をむ程に美しく、大きな目と後ろで一本にまとめられた長い黒髪が印象的で、朝日に照らされた姿はまるで絵画のようだと天馬は思う。

 しかし、女は悪霊を貫いたなにかをゆっくり下ろすと、怖ろしく整った顔を大きくゆがめた。

「げ、なんか汚いものが付いてる……」

 見た目にそぐわない言葉遣いに天馬は混乱するが、女は嫌そうに手元のそれを二、三度振った後、そこに巻かれていたベルトを外し、バサッと広げる。

「傘……?」

 思わず口をいて出た呟きの通り、女が手にしていたそれは、なんの変哲もないビニール傘だった。

「……しかも、さっき買ったばっかりのね」

 女は文句を言いながら何度も傘を開いて悪霊のざんがいを払い、汚いものでも触るかのような仕草でふたたびベルトを巻く。

「傘、だと……?」

「なによ。……どう見ても傘でしょ」

 ずいぶんいらっている様子だが、そのときの天馬には、どうしても無視できない疑問が浮かんでいた。

「あんた、さっきの悪霊を、その傘で、はらったのか」

 疑問とは、まさにその問いの通り。

 生まれたときからはらいとして育てられ、悪霊祓いには特別なじゆや呪具が必要であるという教えを常識としてきた天馬には、目の前で起こった出来事が上手く処理できなかった。

 一方、女はかつこうにまとめた傘を背中の大きなリュックに引っ掛け、まるで値踏みするかのように、天馬の姿を頭のてっぺんからつま先までまじまじと見つめる。

 そして。

「天霧屋の末裔、ねぇ」

 さらりとそう口にした。

「……なぜ、それを」

 天馬が驚いたのも無理はなく、現代社会で天霧屋の存在を知っている者は、そう多くはいない。

 なにせ、天霧屋はかまくらやまにあるてんしよう寺という寺を本拠地としていながら、実際は隠れみのとして寺を装っているだけであり、一般人の立ち入りを禁じることで意図的に世間から身を隠しているからだ。

 理由は先の通り、祓屋という仕事が人々の理解を得られなくなる中で、何代も前の天霧屋の当主が、身動きの取りやすさをかんがみてそう決めたらしい。

 だからこそ、見たこともない女の口から天霧屋の名前が出たことに、天馬は戸惑っていた。

 しかし、女は質問には答えず、すでに興味を失くしたとでも言わんばかりに、さも退屈そうに大きな伸びをする。

 改めて女の姿を見れば、その恰好はスウェットにデニムにスニーカーとあまりにもラフで、はかま姿にたすきまでかけた天馬とはまるで違っていた。

「あんた、何者なんだ……」

 天馬はようやく少し落ち着いた頭で、ひとまず女の素性を問う。

 けれど、女はそれに答えることなく、代わりにニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「焦らなくても、私の正体ならすぐにわかるよ」

「それは、どういう……」

「それはそうと、『俺が引き寄せている間に逃げろ!』みたいな展開、ダサすぎてとても見てられなかったんだけど。ああいう空々しいの、いずれ黒歴史になるからやめた方がいいよ」

「は……?」

「全然、自覚なさそうだね」

「いや、それより……」

「またね、天霧屋のお坊ちゃん。あと、さっきみたいに余裕こいてたら、そこらの浮遊霊にまで隙をつかれるから気をつけて」

「待っ……」

 ひらひらと手を振ってさつそうと去っていく女を、天馬には引き留めることができなかった。

「余裕こいてただと……? そんなわけないだろ……」

 無意識にこぼした呟きににじんでいたのは、かつてない程の無力感。

 余裕どころか全力で挑んでもまったく歯が立たなかった相手を傘一本で祓われたのだから、それも無理はなかった。

 ただ、その半面、ついさっきは死を覚悟していたというのに、こうして生きていることに少しほっとしている自分もいた。

「にしてもあの女……、俺の死に際の覚悟をダサいと……」

 やがて気持ちが落ち着き始めるにつれ、今度はなんとも言えない複雑な感情が無力感を塗り替えていく。

 なにせ、天馬は天霧屋のまつえいという立場上、そんなふうにされた経験など一度もなかった。

 この感情は怒りなのか敗北感なのか上手く判断がつかず、一方で少し爽快感のようなものもあり、天馬はこんとんとした思考を切り替えようと、髪を乱暴にき回す。

 しかし、朝日に照らされた勝ち気な表情が頭にしっかりと張り付いたまま、いつまでも離れてくれなかった。

 これまで、あんな美しい女を見たことがあるだろうか、──と。

 天馬は自然に浮かんだ感想を慌てて振り払い、ひとまず深呼吸をする。

 そして、倒れた仲間たちの無事を確認すべく、まんしんそうの体にむちって、ゆっくりと立ち上がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る