幕間 火口と天使

 十月十日、閉店後、二人。


 出された商品を手に取る、レジを通す、白色に変化する様子を確認、袋詰め、渡す。出された商品を手に取る、レジを通す、白色に変化、袋詰め、渡す……


「お前の腕さばきは本当に美しいな。一つのためらいもなく動く腕と真剣な眼差し、いつまでも見ていられそうだ」


「まあ単純な作業ですし。機械みたいだ、と馬鹿にはしないんですね」


「なぜ機械のようであることが悪口になるんだ。正確無比、最も目指すべき領域だろう」


 ふ、と思わず口から息が漏れた。変わらないな、と思った。彼女のこうした過剰な褒め言葉に善意しか含まれていないと知ってからは、嫌悪感を抱くことも無くなった。


 背後にいる彼女は、いつも通り空中に寝転がりながら私が幽霊に接客する様子を見ていた。真っ白いスーツが皺にならないのかいつも気になるのだが、皺くちゃスーツを着ている彼女を見たことがないから、まあ、大丈夫なのだろう。


 出会った当初は手伝いもせず見てくるだけの彼女に居心地の悪さを覚えていたが、今はすっかり慣れ切ってしまった。彼女がこうして周囲を警戒してくれているから私が安心して仕事ができるわけだし。


「あ。お前、今机に手をぶつけそうになっていたぞ。気を付けた方が良い」


 ……周囲を警戒してくれているはずだ、多分。


 背後でかさり、と紙の動く音が聞こえた。カートに乗せている広告のチラシでも見ているのだろうか。「カンロ、ねえ。今日はそこそこ暖かくて良かったな」となんのことだかよくわからないが呑気に話す声が聞こえる。本当にちゃんと警戒してくれているのか、この天使は?


「十月なのに、昼間は随分暖かいですよね。……暖かいのもありがたいですけど、今日は悪霊も出ませんね。このまま帰れそうですか、平和に」


「今のところはな。そうだ、時間が余ったら少し話さないか。昨日は雨水も高草木も二人で話してばかりでつまらなかったんだ」


「へえ、あなたが会話に割り込めなかったんですか? 遠慮なんてらしくない」


「違う。会話の内容が意味不明だったんだ。ゲームがなんとかって……ボクはゲームはできない。知らない話題はつまらなくてかなわん」


 ふてくされたような彼女の声に思わずくすりと笑みがこぼれた。雨水さんも高草木さんもさらに気心の知れた仲になっているようでそれは安心なのだが、見かけによらず会話好きな彼女はひたすらにつまらない時間だったのだろう。さらに手を早く動かし商品を売りきり、幽霊が全員帰るまでじっと机の木目を見続ける。


「……あいつで最後。すぐに帰る、ああ、もう帰った。これで今日の仕事は終わりだな」


 やたらと嬉しそうな声の天使がそばまで寄ってきて私のエプロンの裾を掴む。それを合図に顔を上げると、周囲に幽霊の気配は無くなっていた。ほ、と知らずのうちに引き締めていた緊張感を解く。天使が教えてくれなければ、私は一生俯いたままここを動けなくなってしまう。万が一気絶してしまっても大雪がいるから最悪なことにはならないのだが、彼女にばかり頼るわけにもいかない。できれば、気絶はせずに仕事を終わりたい。


「よし。終わったな。そうしたら……豚、呼べるか? あいつがいると暖かいし、お前も座れるほうがいいだろう」


「……一人で勝手に決めないでください。片づけをしてからですよ」


 周囲をそわそわ飛び回る天使を放置してテーブルの足をたたみ、レジを片付け、発泡スチロールをカートへ置く。今日は牛肉だったが、白と赤色のストライプ模様をしていた。色以外は普通の牛肉のようでどんな味がするのか気になったが、ここで実際に食べようとして手を伸ばしたら天使に思い切り腕をはたかれて痛い思いをするだけだ。食べたらどうなるのか彼女に聞いたことはないが、ろくなことにならないのだろう。幽霊が食べる食べ物なんて。


「そういえば幽霊って肉生で食べても平気なんですね」


「確かにそうだな。魚もバクバク食ってるが、具合を悪くしているような様子はないし。まああの商品の見た目は重要じゃないんだ。食わせられればそれでいい」


「ふうん。そうなると、魚も野菜も肉も大差がないんですかね。味とか……あなたも、あの商品は食べたことないんですか」


「……ないな。そもそも天使は食事を必要としない」


「食べようと思えば食べられるんですか? 生肉も」


「んん、そうだな……お前たちと違って、ボクたちは死ぬことがないし、食べても恐らく無事だとは思うが……ってお前、そんなにアレの味が気になるのか? 間違っても食うなよ、一回食おうとしたことあったよなお前。あの時は肝が冷えた。死に急いでいたのかなんなのか知らないが、もうああいうことはやめてくれ」


 死に急いでいたわけではない。あの時は単純に味が気になったのと、生で食べても大丈夫だということに興味が湧いて食べようとしたのだが、まあ今更訂正することもないか、と放っておくことにした。


「覚えてたんですね。……あなたの表情、傑作でしたよ。あんなに乱れた表情初めて見ました。今はまあ、あなたの頓珍漢な表情も見慣れましたけどね。それもこれも雨水さんのおかげですよ」


「……そうなんだが、雨水の手柄と言われると抗議がしたくなるな。お前とボクがお互いにちゃんと向き合えたが故の結果だろう。自分たちの手柄と言ってもいいんじゃないか。しかしまあ、良かった、良かったんだが……あの時のボク、めちゃくちゃかっこ悪かったよな。恥ずかしさが残るな……」


 ——ボクが、お前を傷つけたのか。


 眉毛も瞳も唇も震わせ、絶望に表情を染めた彼女の顔は普段のすました彼女とは全く異なっており、言ってしまえば、天使らしい美しさからはかけ離れていたかもしれない。それでも私は、私というちっぽけな人間の行動と言動で振り回される彼女を好ましいと思った。色のない瞳で私を見下ろし、興味のなさそうに頬杖をついた初対面の時も、その美しさに衝撃を受けたが、人間らしさに染まってしまった彼女の方が好きだ。


 備品をカートに乗せ終え一息を吐く。周囲をゆったりと飛ぶ天使の気配を感じながらバンダナを取り出し、右足首に巻き付ける。


「——豚さん、今日もお願いできますか」


 私が言い切るよりも前に魔法陣が目の前に現れ、巨大な豚が姿を現す。のそのそと緩慢な足取りでやってきた豚は、そのまま横に倒れるように寝ころんだ。どうぞ、と目線で促される。こうして雑談のためのソファ代わりにされることにもすっかり慣れてしまったようだった。いつもすみません、と頭を撫でると、気持ちよさそうに目を細めて私を見てくれた。


「あ、おい。豚ばかり撫でていないでこっちへ来い」


「はいはい」


 いつの間にか彼女は豚の背に寄りかかっていたようで手招きをされた。名残惜しいが手を離し、天使の横に腰かける。背中に伝わる暖かな体温にほっとしていると、天使の翼がふわりと腕を掠めた。そして、真っ白な手が無意識だろうか、私のエプロンの裾をつまんでいじっている。いつも軽やかに宙に浮いている彼女がわざわざ地面付近まで降りてくるようになったのも、あの喧嘩が解決してからのことだった。喧嘩をする前ですらあまり地面まで降りてくることはなかったのに。この天使、チョロい。チョロいがまあ、今はそこまで嫌だと思わない。


 一人ぼんやり考えを巡らせていると、天使が私の顔を覗き込んできた。


「今日はなにか面白いこととかなかったのか?」


「話の振りが雑ですね。丸投げじゃないですか。……そう、ですね……ああ、昼間、雨水さんに会いましたよ。売場で」


「ほう。珍しいな。先日、売り場では会ったことない、と話していなかったか」


「そう。だから初めてのことで驚きました。……真面目に仕事をされていましたよ。なんだったかな、大きなポスターを持っていて……ああ、そう。二十四節季のポスター。精肉の売り場に付いているやつが、更新されていなかったみたいで……交換してくれたんです」


 ——あ、火口さん! いいところに。その、このポスターなんですけど……


 売り場でばったり会った彼は、眉を下げた不安げな表情のまま安堵の息を漏らしていた。手に大きなポスターを持っていたため、広告媒体を変えに来たのだろうと推察したが、ならばなぜ困った顔をしているのかがわからない。鮮魚の媒体の場所がわからないのだろうかと事情を聞いてみると、彼は困った顔のまま、精肉売り場の一角を指さした。見れば、忘れ去られたように立てられたポールに、ポスターが吊り下げられている。二十四節季、秋分のもの。あれ、と思った。確か先日寒露に切り替わったのではなかったか。


「お前が変え忘れるとは珍しいな。しかもあの雨水に先に気づかれるとは。調子でも悪かったのか、大丈夫か?」


 天使が気づかわしげに私を見てくる。やはりこの決めつけ癖と私への神格化じみた期待はまだ改善できないらしい。


「調子はすこぶるいいですよ。あのポール、誰かが邪魔だったのかなんなのか、売り場の隅の方に寄せられていたので目に入りにくくて。入れ替えの作業のこともすっかり忘れていたので……雨水さんが見つけてくれなければ、もう少し放置されてしまっていたでしょうね」


 ——ああ、すみません変え忘れていたんですね。教えていただいてありがとうございます。すぐに対応します。


 ——あ、あの、いえ。そ、それでその……ポスター、一枚余ったので、代わりに交換しましょうか……?


「とても恐る恐る言われたので、ああ私ビビられているんだなって」


 雨水さんは左手にポスターを持ち、右手で左腕をしきりに擦っていた。初対面の時にも何度か見た、おそらく彼の無意識の癖。彼の控え目な性格の表れなのか、緊張したり不安になっていると出るもののようだった。私に対してもそうなのか、とひそかにショックを受けたのは、仕方がないことだと思いたい。


「っはは、傑作だな。まあアイツ人に慣れるまで時間がかかるタイプのようだし、仕方がないだろう。許してやれ」


「いや別に怒っているわけではないんですけど……でもあなた、結構雨水さんと仲が良いですよね。フランクに話していたような気がしますけど」


「まあボクは優しく会話もうまいし、何よりこの美しさが好印象を与える。人と交流するのには長けている自信があるからな」


「ん、んん……まあ……そうかも……?」


 切りそろえられたボブヘアをさらりと揺らし、彼女が得意げに口角をあげる。会話が上手いかはさておき面白いなとは思うし、からかいがいもある。人の心に入りこむのが上手いんだろうな、とは常々思うことがあった。実際私も、彼女に警戒していたのは会って数日の間だけで、すぐに信頼を置けるようになった記憶がある。


 もっと褒めてくれてもいいんだぞ、とニヤニヤ笑う彼女にため息を吐くと、再度エプロンの裾を握られた。これは、ごく最近気づいた彼女の無意識の癖。癖が出るタイミングはわからないが、エプロンやバンダナ、制服の裾など、人の衣服を掴むのがお好きらしい。


 思考は流されるままに進んでいく。雨水さんにも天使にも癖があるが、高草木さんにももちろんある。左側に目線を向ける癖。考え込んでいる時や、ふとした時に彼は必ず左に目線を外す。何度か話をしているとこういった癖を自然と見つけてしまうのは、昔から人の顔色を伺って生きていたからだろうか。


 そんなとりとめのないことを考えていると「話の続きは?」と不満げな顔の天使が頬杖をつく。いけない、すっかり忘れていた。すみませんと軽く謝り、話を続けることにした。


「ええとどこまで話しましたっけ」


「思案するお前の顔も美しかったが、ボクを置いて一人で思考の世界に入るのは、寂しいからやめていただきたいな。……雨水がポスターを持ってきて、お前がビビられたところまで聞いた」


「ビビられてません。まだお互いに慣れてないだけです。……って、貴方がそうフォローしてくれたんでしょう。まあいいや、それでまあ、変えてもらうことになったんですけど……そしたらどこから見てたのか、ウキウキ笑顔の高草木さんもやってきて」


 ——あっれー雨水君に火口ちゃんじゃーん珍しいね二人で~どしたの?


 高草木さん嫌いの天使は話題に彼が出てくるだけで眉を顰めてしまう。ちなみに理由は昔聞いたが不明瞭で「軽薄なところが嫌い。あとアイツの顔を見るとムカついてしまう」らしい。理不尽だ。


「どしたの? じゃないわあの野郎……おい、変なこと言われなかったか、大丈夫か? 今から殴りに行くくらいなら余裕だぞ。五分で帰ってくるから」


「いいですいいです、なにも言われてないんで早とちりしないでください。——で、まあ、高草木さんに事情を説明したら、青果も変えてないことが発覚して……三人で青果のポスターも変えに行ったんです」


 表情を戻した天使が首を傾げる。


「それお前は仕事に戻ってよかったんじゃないか? 三人もいらないだろうポスターごときに」


「私もそう思ったんですけど、なんとなく付いていこうかなと。気分的に。それでまあ、変えるのを見届けたら戻ろうと思ったんですけど……」


 ——え。ポスターがない、ですか?


 こくりと頷く高草木さんの顔は珍しく困り顔になっていて、隣に立つ雨水さんとおそろいになっていた。どうやら青果の分の「寒露」ポスターが行方不明らしく、事務所にも在庫がないらしい。いつもぴったり必要数しか発注しないため、予備もないらしい。別に次の「霜降」に変わるまで付けなければ良いだけの話なのだが。


「付けなくてもいいのなら、そこまで大事じゃないのではないか。というかなんで予備がないんだ、まずそこがおかしいだろう」


「ううん。次から予備分も用意するよって、店長言ってたはずなんですけどね。……ええと、それで、雨水さんがとても深刻そうな顔をしていて。真面目な方ですから、きちんと業務はこなさないといけない、と思っているんですかね。いやまあそれが正しいんですけど……ポスター一枚だったとしてもちゃんと付けないと安心できない様子でした。高草木さんもその様子を見て、ポスターを探そう、と仰って」


 おそらく、雨水さんの真面目さを尊重したかったのだろう。高草木さんは笑顔で私たちを振り返って「俺が探して、ちゃんと付けておくよ。無かったら店長に対処法聞いて、なんとかしておくから」と言った。私もそうした方がいい、と頷いて雨水さんの肩を押しそれぞれの仕事場に戻って、その場は終わったのだが……ポスターが一枚、びりびりになってバックルームのゴミ捨て場に放置されていたのを、高草木さんが発見したらしい。


「その辺に一枚置き去りにされているんじゃないかと思って、バックルームを探していたみたいなんです。そしたら、ビリビリに破かれたものがゴミ捨て場にあったらしくて。夕方に売り場で会った時に、——これはどうしようもないね、って困った顔で言ってました」


「そうか。——それは困るだろうな、いやあ、本当に」


 なんだ急に相槌がテキトーではないか。彼女の方に顔を向けると、天使は舌打ちをして突然ふわりと浮き上がった。一体どうしたのだろう、前方を見ている? 何かいるのだろうか。鋭く睨みつける目線の先に目を向けようとして、白い手に視界を覆われた。


「悪霊だ。前方二百メートル先くらいにいる。近い。目を瞑れ、一旦離れるぞ」


 緊張感を孕んだその声にこくりと頷き目を閉じた。真っ暗になった視界のまま豚の背を撫でると、そっと立ち上がる気配がした。ブフン、という鼻息が聞こえたことを確認し、豚の背に飛び乗る。天使は横にいるらしく、腕に羽がかすめるわずかな感触がした。「行きましょう」と豚の背を撫でると、賢い彼はすぐさま駆け出し始めた。落ちないようにバランスを取りつつ天使に話しかける。


「それでですね、ええと、どこまで話したっけ。——ああ、ええと、ポスターがビリビリになっていたんですが、高草木さんがすごく不安そうな顔で、雨水君には言わないでね、って言うんです」


「はあ。ポスターが破かれていたことを?」


「ええ。なんでか尋ねると、彼の方がショックを受けちゃうだろうから、って。意味がわからなかったんですけどとりあえず言う通りにしようと思って了承して話は終わりました。で、ぺこりとお辞儀をして振り返ったら、後ろに雨水さんがいて、顔面蒼白の状態で呆然としてました」


 左腕を強く握る右手が震えていたのも鮮明に覚えている。


「は? ポスターが破られていたのを知っただけで? アイツ真面目すぎるだろう。そもそもなくなったのは青果のポスターなんだから、アイツには関係ないじゃないか」


 天使が私の頭を翼で撫でるような感触があった後、気配が消える。それを確認し、豚に指示を出した。


「いいですよ」


 私の言葉を受けた豚が旋回、回れ右をして一気に駆け出す。どんどん上がるスピードと同時に強まる悪霊の気配に、ぐ、と強く目を瞑った。決して開かないように。今日は、天使と最後まで仕事ができるように。「——無理すんなよ、いつでもいけるからな」と頭の中で彼女の声が聞こえた気がした。けれども毎回大雪にばかり頼るわけにもいかない。気を引き締めて手に力を込める。


「ッはあ!!」


 豚の背から降り跳躍すると、悪霊も同時に動いた。気配がした。一発、弾丸のようなものが発射される。難なく豚がそれを弾き返したのを認めた後、一気に近づいた。右足から吹き出る炎の熱が心地いい。そしてそのまま足払いをかけるがごとく、悪霊の足元に蹴りをお見舞いする。炎がぶわりとあがり、熱が私の体をビリビリと揺らした。


 悪霊の悲鳴が響く。前方からさらなる炎の気配がしたと思った直後、さらに悪霊の悲鳴が響く。ブフン、と鼻息の音、恐らく豚が頭突きを食らわせたのだろう。彼の元に駆け寄り手を伸ばすと、その体に触れることができた。よし、ここにいる。手を離して、目を閉じたまま彼とアイコンタクトをする。


 悪霊が体勢を立て直しているのか、うめき声が聞こえる。一人と一匹で同時に駆け出し、私は瞬時に悪霊の背後に回りこんだ。豚が大きく鳴き声を上げる。合図の後、一、二で、跳躍、足を振り上げて——攻撃!


 叩きつけた踵落としと豚の攻撃により、悪霊は完全に体勢を崩したらしい。べしゃり、と何かが落ちる音がする。そして同時に、涼やかな彼の気配も感じ取ることができた。いつの間に近づいていたのだろうか。瞼の裏に白い光がかすかに見える。彼がトドメを刺す準備をしているらしい。私は悪霊の目玉の位置がわからないから、豚か天使にトドメを刺してもらわなければならないのだ。


「……続きなんですけど、雨水さん、青果のポスターが無くなってしまったことに嘆いてるわけじゃなくて、自分がポスターを破ってしまったことに絶望しているようでした」


「は? なんでそうなる。状況がわからん」


 天使の困惑した声が聞こえる。同時に、強まる光が瞼の裏を白く染めていく。右肩になにかが触れた。ぐぐ、と押し付けられた巨体をそっと撫でると、深く呼吸をする気配がする。豚は私に甘えるように体を押し付けながら、私を守るようにそっとその場に寄り添ってくれている。それに安心しながら、私は彼女との会話を続けた。


「鮮魚のポスターを変えた後、古いやつを破って捨てたらしいんですけど、その時に新しいポスターも破ってしまったみたいで。……新しいものを二枚取ってきてしまったんですかね。で、何かの拍子に古いものと新しいものが混ざって、破っちゃった……みたいな」


「……」


「雨水さん、大分自分のこと責めていました。高草木さんは笑顔で大丈夫だよ、俺がなんとかしておくから、って言ってたんですけど、やっぱり、迷惑をかけてしまったと思っているみたいで。……なんとかならないものですかね。間違えて破ってしまったのはしょうがないことでしょうし」


「二十四節季、といったな。今はカンロ。合っているか?」


「? はい」


 光が一瞬収束したのを確認して、そっと目を開く。空中で私たちを見下ろす天使が、私と目線をあわせて不敵に笑った。彼女の人差し指の先、装填された弾丸がキラリと光る。


「——心当たりがある。コイツを倒して、ついでに哀れな雨水君も救ってやろう。ということでお前はここらでご退場だ」


 バン、と涼やかな声が店に響く。光の一閃に貫かれた悪霊が、悲鳴をあげる間もなく崩れ落ちる音が聞こえた。



「で、心当たりというのは?」


 無事に悪霊は倒せたようで、動く気配もない。一応気絶しないようにそちらは見ないようにして天使に顔を向ける。天使は羽を整えるようにそっと撫でながら私を一瞥した。


「ああ。ちょっと待っていろ」


 整えたばかりの翼を動かし一瞬の間に飛び上がり、どこかへと飛び去って行く。そしてすぐに戻って来た彼女の腕には、一枚の大きな紙が抱えられていた。


「え。……それってまさか」


「ああ。そのポスターとやらだ。寒露と書いてあるし、お目当てのものに違いないだろう」


 ぴら、とめくられた紙を検分し、間違いなく雨水さんが破ったと思っていたポスターそのものであることがわかった。予備はないはずなのだがどうして彼女が持っているのだろう。


「ちゃんと予備の用意もしていたと、そういうことだろう。なぜ商品カートに置いてあったのかはわからないが、まあ、八十八が商品の入荷を確認しに来た時に置いていったんじゃないか」


 確かに、ここに入れるのは私たち四人以外には店長しかいない。


「商品カートにあったんですか? 嘘。ここまで運ぶときに全然気が付きませんでした」


「段ボールの下敷きになっていたからな。ボクも先ほど、お前がレジをしている時に気が付いた。やたらと大きな紙だったからどうしてここにあるのか不思議だったが……これで雨水の心労も軽くなるだろう」


 ほれ、と手渡された紙を受け取る。くるくると丸めて、止める輪ゴムが無いことに気が付き自分の髪ゴムを外した。ポスターを止め、おさげが一つだけ外れているのも変だし、と思いもう片方も解く。そんな私の様子を見て天使が眉をひそめた。


「お前……髪を解くな。アイツの顔が浮かんで不快だ」


「大雪ですか? 顔は同じのはずなんですけどね。……それはともかくとして、ありがとうございます。明日雨水さんにお渡しします」


「ああ。……はあ、結局悪霊は出るし、お前と話す時間を邪魔されるし……なんとも言えない日だったな」


「でも色々解決して助かりましたし……お話も、最後までできましたし。いい日でしたよ」


「……お前が素直にそんなことを、言ってくれるなんて……! 感動だ、さすが小雪。素直に気持ちを言葉にできるのも才能の一つだ、そんなお前の暖かさに触れられるこの瞬間が愛おしくてたまらない」


 また変なスイッチが入ってしまっている。うんざりした気持ちで彼女を見たが、彼女の真っ直ぐな視線がキラキラ輝いていたものだから思わず苦笑いをしてしまった。彼女のコレが私への憧れによるものであることはもうわかったし、私だって彼女のことは尊敬しているのだから、お互い様だろう。神格化ではない、お互いに相手の良いところを見つけて、言葉にして伝えたいだけなのだ。


「才能ではないですよ。あなたも同じじゃないですか」


 天使は私の言葉に片眉を上げたあと、居心地の悪そうに目線を逸らした。もにょもにょと口が動いている。ばさりと翼を動かした拍子に起こった風が私の髪を揺らす。視界の端でぴらぴら揺れる髪がうっとおしくて低めの位置で一つに括ると、天使はたちまち不愉快そうな表情になる。


「一つ結びも大雪っぽいですか? 彼女はポニーテールが好きらしいですけど」

 

 くるくる変わる表情が面白くて思わず笑うと、「笑うな」と咎められてしまったが彼女も楽しそうに口角をあげていた。


「——また、時間に余裕がある日には話をしましょう。楽しかったです」


「ああ。いくらでも話を聞かせてくれ、最高のバディ」


「大雪の話でも?」


「……まあ、興味はあるし……というかお前、大雪の話になると髪をくるくるいじるの癖だよな。かわいらしいが、トリガーが大雪なのが悔しいな」


「……人に癖を指摘されるのって気まずくて嫌ですね。言っておきますけどあなたの癖も私知ってますからね。言ってないだけで」


「え!? 嘘だ、このボクに癖……!? 小雪、頼む教えてくれ。すぐにでも直すから! 頼むよ小雪、おい先に行くな!! 待てって!!!!」


 わあわあ騒がしい天使を置いてカートに向かう。今日はこのカートを倉庫に片付けて、それで仕事はおしまい。


 明日は雨水さんと高草木さんの担当日だから、次に彼女に会えるのは明後日か、などとぼんやり考えながらカートを押す。追いついた天使は未だ私に対して文句を言いながらもカートの前をそっと持ち、先導しながらカートを引いてくれている。ああ、明後日が待ち遠しいかもな、なんて思いながら彼女の後姿を見つめた。



 ずっと同じように日々が過ぎていくのだと思っていたし、隣に彼女はいてくれると思っていた。だから心底驚いたのだ。私自身や彼女自身の問題ではない、誰かの勝手な都合で状況が変わってしまうなんて。


「え。……遅番シフトの休止……?」


 一気に乾いてしまった口内を潤すため、こくりと大げさに唾を呑む。誰もいない閉店後の事務所。目の前に立つ店長の冷ややかな視線がただただ目に焼き付いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る