第29話 杉浦誠一
杉浦誠一氏(戦争画家)
104号室が賑やかである。
「杉浦さ~んッ! 聞こえますーか。オシッコの時間ですよ~」
畑(婦長)が杉浦氏のベッドの横で尿瓶を持ちながら声を掛けている。
杉浦氏が片目を開き、
「おう!? ・・・ここはどこだ」
「ドコダじゃないですよ。オシッコの時間です」
「オシッコ? 小便などしたくない」
「だめです。時間になったらオシッコを出さなくては」
杉浦氏は情けなさそうに、
「そんな~・・・」
「ソンナじゃないです。さあッ!」
「・・・よしッ! やってくれ」
杉浦氏は掛け布団をいきよい良く左手で捲(メク)る。
「はい、ご苦労さん」
畑 は褌(フンドシ)をずらし杉浦氏の一物を尿瓶に納める。
「・・・。はい、良いですよ」
「あ~あ、もう終りだ」
「終りじゃ有りませんッ! まだ出ていません」
「そうじゃない。僕の人生だ。・・・ふーッ。君は強いねえ」
西丸(医師)が部屋に入って来る。
「強い? 何がだね」
「よお、先生。まいったよ。小便まで人の手を借りるように成ったら生きて居てもしょうがない」
「もう出ませんか?」
「これ以上何を出せと言うのだ」
畑 はバカにした様な顔で杉浦氏を診る。
「一言多い患者ですね」
畑 は杉浦氏の一物を褌(フンドシ)に仕舞いながら西丸を見る。
「人間はいろいろな事情の中で死んで行くのだ」
「事情? 事情ねえ。アンタは良い事言うねえ。僕はこんな事情の中で死んで行くのか」
「何を言っているんだ。ちゃんと内地に戻って来れたじゃないか。綺麗な看護婦さんにシモの世話までしてもらって・・・、英霊に感謝しなくっちゃ」
「その通りよ。西丸先生は実に良い事を言いますわ」
「いや、別にアナタに言った訳ではない。ところで、杉さん。良い車椅子が出来たのだが・・・試してはみないか?」
「クルマイスッ!?」
「うん。軽くてスピードが出るらしいんだ」
「この病院で、そんな車椅子なんか要らない」
「そうか。それなら良い」
「えッ? 随分あっさりした返事だな」
「いや、もう良い」
「ちょっと待てよ。冷たい男だな君は。もうちょっと言い方は無いのか?」
「ない」
「あッ、・・・乗ってみたいなあ」
「そうか。最初からそう答えなさい。病人は理屈など考えては身体に毒だ。試作品だから無理には勧められないがね。・・・実は先日、長野の自転車屋と称する片足の男が営業に来たんだ。その男はフィリッピンのルソン島で片足を飛ばされたと言っていた。何とか軽くてスピードが出る車椅子は出来ないもかと随分工夫したらしい」
「ルソン島? あそこも厳しい戦場だった。どこかにスケッチが有ったな・・・」
杉浦氏は机の上に乱雑に置かれたスケッチブックを見つめる。
「・・・で、僕の身体でテストしたいと云うのか」
「そうだ。夢が持てるだろう。脚が飛ばされても役に立つことが出来る。人生、捨てた物ではない」
「?・・・アンタは凄い」
「そうだ。私は精神科医だからね」
「精神科医って云うのは医者か?」
「医者だ。こう云う時代に一番役立つ医者だ」
「僕は祈祷師かと思った」
「何!」
畑 は思わず笑いを吹きだす。
西丸はきつい眼で畑 を見る。
内村(院長)と肥田氏が杉浦氏の部屋に入って来る。
「調子はどうですか、杉浦さん」
「良い訳が無いじゃないですか。僕は病人ですよ」
「あッ、失礼。病人でしたね。脚が悪い人かと思った」
「院長、それはないでしょう。私は精神病だ」
肥田氏が口を挿む。
「自分が精神の病(ヤマイ)と解れば病気ではない」
「何ッ!? 君は誰だ」
「ああ、紹介しょう。101号室の肥田春充さんだ」
「肥田? やっぱり精神を病んだのか」
「病人ではない。療法士だ」
「リヨウホウシ?」
「柔剣道の師範! アナタの脚(アシ)を治す先生だ」
「えッ! 医者か。今、僕の脚(アシ)は治らないと云う事で高性能の車椅子を注文したところだ」
「車椅子?」
内村は西丸を見る。
「いや、先程院長が不在の時、長野から車椅子を売り込みに来た者が居(オ)りましてね。良い物をこしらえたので試してみてくれないかと・・・」
内村は西丸を渋い顔で見て、
「西丸先生・・・困るな~。そう云う事は私に相談してもらわないと」
「脚(アシ)は治らなくて良い。軽くてスピードが出る車椅子が欲しい」
「人間は脚(アシ)で歩くように造られている。教練でおすわったろう。気合を入れなくては」
「ここは戦場じゃない。そんな精神戦争は終わった」
「病院は身体を元通りに治す所だ。物に頼るとそれだけ復帰が遅れる」
「僕は面倒臭いのは嫌いだ」
「何を言ってるんですか。いつまでもシモの世話なんか出来ませんよ」
「本音(ホンネ)が出たな。そんな事より頼んであった五号のキャンパスと絵の具はまだですか?」
畑 はソッポを向く。
「? アンタは画家ですか。・・・そうでしたか。それじゃ私がその厄介(ヤッカイ)な脚(アシ)を二週間で治してやりましょう」
肥田氏が不気味な笑いを浮かべて杉浦氏を見る。
「ああ、西丸先生、止めさせて下さい。僕はこの男に殺される。車椅子を早く取り寄せてくれ」
「情けない。気合が入っておらんから精神が壊れるんだ」
内村は肥田氏を見て、
「肥田さん、そう云う治療の仕方もあったが、今は時代が変わった。なるべくお手柔らかな治療を願いします」
肥田氏は内村を見て、
「心配無用! 明日から101号室に来てもらいましょう。簡単な治療から始めますから」
杉浦氏は驚いて、
「えッ! 誰か立会い人は居るんでしょうね」
「日替わりで看護婦に立ち合わせましょう。ねえ、畑さん」
「あッ、はい。分かりました。それじゃあ、明日は朝倉さんにお願いしてみます」
「杉浦さんと言ったね。アンタは先ず精神を治さないとだめだ。最近、良い治療法を編み出したんだ。それを試してみよう」
杉浦氏はきつい目で肥田氏を睨み、
「僕は人間だからな。実験なんぞにされては困る」
「あれ? 杉浦さんは車椅子の実験台に成るのではなかったのかな」
杉浦氏が101号室の畳みの上にうつ伏せに寝ている。
隣に朝倉(看護婦)が両膝(ヒザ)を折り、座っている。
暫くして肥田氏が柔道着姿で不気味な笑いを浮かべ部屋に入って来る。
杉浦氏が、
「先生、よろしくお願いします」
「よしッ。杉浦さん、我慢する事も大切な治療だ」
杉浦氏は恐る恐る、
「痛いのですか?」
「痛くはしない。しかし、耐えられなかったら右手を上げ下げなさい」
肥田氏は杉浦氏の傍(カタワラ)らに方膝を突き左脹脛を揉み始める。
「感じるかな?」
「何も感じません」
「・・・ダメかもしれないな」
「ダメって、何とかしてくれないのですか」
「? 治りたくなかったんじゃないのか」
「そりゃあ、治るものなら治りたいです」
「そんな事じゃ治らないぞ。精神と根性が無ければダメだ」
「先生、精神と根性で病気が治ったら、医者は要らないんじゃないですか?」
「医者は病人の話を聞いて治療する。すなわち病人から見たら他力本願である。気合で治すと云う事は自分の精神で、人に頼らずに治すと云う事である」
「?・・・、ここは精神病院だぞ。随分理屈ぽい治療だね・・・」
肥田氏は杉浦氏を一瞥、
「よしッ、もう一度脚(アシ)を動かせ」
「・・・動かない」
杉浦氏の脚は確かに動かない。
が、
「? 動いたぞ! なあ、朝倉さん」
朝倉は怪訝な顔で肥田氏を見る。
肥田氏がキツイ目で朝倉を睨み、もう一度、強要する。
「朝倉さん、今、動いたねッ!」
「えッ!? あッ、はい。動きました」
「嘘だッ! 動いてない」
「ちゃんと動いた。心配するな。私と看護婦が証人だ」
「そんなバカな」
「? そう言うのなら、もう一度やってみなさい」
杉浦氏が利かない脚を必死に動かす。
朝倉がわざとらしく、
「動いたッ! 杉浦さん、動きましたよ」
「? 僕は動いていると思わないがなあ・・・」
「猜疑心の強い男だ。仕方が無いか。長い間、臥(フ)せっていたんだからな。後は自分が脚が動いたと信じる事だ。その訓練をすれば歩行は可能である。今日はこれまでッ!」
「こッ、これまで?」
肥田氏はまた朝倉を睨む。
「あッ、そうですか。杉浦さん、良かったですね。治療は可能ですよ」
「部屋に戻って自分が歩いている姿を日夜想像すること。一ヶ月で歩けるように成る」
「・・・そう云えば、何となく良くなったような気がする」
「そうだろう? 病気とはそう云うものだ。これから明るい未来が待っているぞ。もう一働(ヒトハタラキ)き出来る」
肥田氏は杉浦氏の尻を力強く叩き、気合を入れる。
「バンッ!」
「イテ~ッ!」
「な~んだ、感じるじゃないか。だいじょぶ、だいじょぶ。ハハハハ」
何とも豪快な肥田氏の治療法である。
周明氏が廊下から101号室を覗き、開いたドアーをノックする。
肥田氏が燻(イブ)し銀のような声で応える
「あい・・・」
周明氏が部屋に入って来る。
「・・・治療ですか?」
「おお、良い所に来た。紹介して置こう。104号室の杉浦さんだ。憔悴しきっている」
「何か不安な事でもあるのですか」
杉浦氏はうつ伏せの身体(カラダ)で、ゆっくりと周明氏の方向に首を返る。
気の抜けた声で、
「す、杉浦です。初めまして」
「大川周明と云います」
「大川周明? えッ、あの大川周明さんですか」
「アノ? あのとは、どのアノかな」
「東条の頭を叩いた有名なA級戦犯の方でしょ」
「ああ、それは私ではない。私はただの気狂いだ」
「新聞にお顔が載っていました。間違いない。この精神病院に入れられたのですか。いやいや、先生も難儀してますねえ。でも・・・」
杉原氏は暫く考えて、
「・・・そうだ。良い所で出会った」
周明氏が、
「良い所で出会った? 良く分かりませんね」
「大川さん、僕の話を聞いて下さい。僕は」
杉浦氏はそこまで言うと急に話を止める。
「? どうしました」
「いや、実は僕は陸軍の軍属で、絵描き(エカキ)をやっていたんです」
周明氏は堀田氏から杉浦氏の事は聞いていた。
「従軍画家ですね」
「え、ご存知でした?」
「 堀田さんから少し・・・」
「僕は鹿児島の種子島と云う貧しい島で生まれ、家族は砂糖黍と薩摩芋と少しのコメを作っていました」
「アンタは種子島の出身ですか」
朝倉、
「あら? 杉浦さんは種子島の出身だったの? 鮫島さんも鹿児島よ」
朝倉は白衣のポケットから小さな懐中腕時計を取り出す。
「あッ、私は昼食の支度があるのでこれで失礼します」
肥田氏は急に砕けた顔になり。
「おッ、そうですか。じゃまた連絡します。すいませんねえ、朝倉さん」
朝倉は笑顔で軽く会釈して部屋を出て行く。
「・・・で?」
杉浦氏が肥田氏を見て、
「この変な祈祷師も居ないほうが良いんだが」
「何ッ! 祈祷師? 俺は療法士だ!」
「ハハハ、この人は私の親友だ。気の置ける男だから心配御無用」
肥田氏は杉浦氏を睨み、
「・・・今度は本当に痛い治療にするぞ」
「勘弁してくださいよ~。クワバラクワバラ」
「で、その先を聞かせてくれませんか」
「・・・両親は子が中々授からず、僕は長男で西之表と云う所から貰われて来たんです。しかし、僕は百姓仕事は嫌でいつも絵ばかり描いていたんです。だけどそんな僕を両親は随分可愛がってくれましてね。ある日、夏休みの思い出と云う宿題で僕は両親の顔と手をスケッチして学校に持って行ったんです。学校の担任が芸術学校を出ていましてねえ。僕のその絵に凄く感動してくれたんです。それで、その先生に言われて、他の先生達の似顔絵を一枚一枚描いてやったら、それがある時、県で評判に成りましてね。担任が家庭訪問に来て、親に才能を伸ばしてやらないかと言うんです。しかし僕の家はおカネなんてメッタに見たことも無ような貧しい農家でねえ。それに、そんなおカネにもならない学校に行かせてくれる訳もない。そうしたら、その担任は何を思ったか僕を養子にして面倒を見ると言うんです。親も担任のその熱意に負けて・・・。それから僕は、変な話ですがその担任の子供に成なりまして。ハハハ。担任は僕を東京の芸術学校まで出してくれましてね・・・。しかし今思うと、その担任も変わったオヤジだった。ある時からアル中に成ってしまって、いつも手が震えてましたよ」
「しかし、二番目の親はよく杉浦さんを手放したなあ・・・」
「子供が居なくなったら農家の将来は無いでしょう」
杉原氏はうつ伏せな身体(カラダ)で急に笑い出す。
「それが、僕が居なくなってから父ちゃんと母ちゃんは相当焦(アセ)って励んだんでしょうね。子供が生まれる生まれる、六人生んで六人目は止子(トメコ)と云う名前で締めくくったらしいんですよ」
肥田氏は杉原氏をしみじみ見て、
「運命とは分からんのう。アンタは運が良い」
「? どちらが?」
「うん? うん。まあ・・・」
「それで三鷹に来たんですか」
「えッ! 僕が三鷹に居たと誰に聞きました?」
「うん? 誰に聞いたかは忘れました」
「三鷹は家内の実家でして。僕は婿養子なんですよ」
肥田氏は驚いて、
「アンタ、養子を三回もやったのか」
「・・・この歳になり、自分の人生を振り返ると笑ってしいます」
「運が良いねえ、杉原さんは。で、画家で従軍してどこの戦地に行きました?」
つづく
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