第24話 愛の残滓
「えい! えい! お父様、こうですの?」
「まずは少し腰を落として剣先を見るのだ。剣を見失ってはならぬ」
春先の庭。「はい!」と気持ちの良い返事をしたロザリアは懸命に木の枝を振る。父の鍛錬を見て真似を始めた娘。小さな身体で素振りを繰り返し、100を超えたところで息が切れて座り込んだ。
「よく頑張ったな、ロザリア」
「はぁ、はぁ……。はい、お父様。ロザリアは頑張りました」
「ロザリア、お前はどうして剣を持とうと思った?」
まだ10にも満たぬ幼さ。線の細い女子であること。武官の象徴「オブ」の称号をもつ貴族とはいえ、彼女が剣を持つ理由はない。むしろ剣技を修めるなど令嬢としては負担にしかならない事だ。ジークフリートはその理由を尋ねた。
「わたくしはお父様のように守る力がほしいのです」
「ほう?」
「お父様はいつも、わたくしやお母様を守ってくださいます。お父様のようになりたいのです」
彼は国境警備や魔物討伐でよく家を空ける。遠征で数か月不在にすることもざらにあった。フロイエン辺境伯として国を守るという義務……それ以上に、弱き者を、領民を守るために。それはジークフリートの曲げることのできない矜持であった。
だが、それゆえに幼いロザリアの傍にはあまりいてやれず、屋敷に戻っても政務に忙しく構ってやれていないことに負い目を感じることが多かった。そんな自分の背中を娘が見ていてくれた――ジークフリートにとってその娘の言葉は何よりの福音だった。
「どうされたのですか、お父様? こわいことがありましたか? 大丈夫です、ロザリアが守ります」
「くっ……いや、そうではない……怖いことも痛いこともないのだ、ロザリア」
目頭を押さえて顔を歪ませたジークフリート。ロザリアは頭を撫でて慰めようと背伸びをしたが、その手は彼の胸をぽんぽんと撫でるだけだった。
「良い子に育っているな。愛しているぞ、ロザリア」
ぎゅっと抱きしめる父親。「痛いです、お父様」と言いながらもその力強い抱擁に安心を覚える娘。花壇から顔を覗かせている花に穏やかな陽光が注いでいた――
目覚まし時計の音。現実に引き戻された意識が現代日本であることを彼に告げた。
「夢、か。……ロザリア……」
昨日の駿との交信で娘の話題が出た故か。ロザリア、父はあの日の温もりを忘れたことはない、必ず、迎えに行く――寝起きなのに目頭が熱いことに気付いたジークフリートは、沙織が訪問してくる前に洗面所へと向かった。
「先輩、おはようございます!」
すぐに合鍵を使って沙織がやって来る。平日の朝だというのに沙織は家事をするために通っていた。何度か家事にチャレンジして失敗し、そのたびに片づけを任せていたジークフリートは「家事は私の役目ですから! 先輩は甘えてて良いんですよ」と説得され、すっかり沙織を頼るようになっていた。
「先輩、そろそろご飯にしましょう」
「いただこう。今日も良い匂いだ、食欲をそそる」
味噌汁に卵焼き、サラダに焼き魚――
「……沙織、相談がある」
「どうしました? お仕事のことですか?」
食器を洗う沙織にジークフリートが少し言い淀んだ合間。「思春期の子供とうまく付き合うには……」とテレビが邪魔をした。今朝見た夢は確かにジークフリートの決断を後押ししていた。
「杏奈のことだ。俺はあの子を必ず迎えに行く。そのためにも、そろそろ行動に移したい。あれから1か月も経ったのだ、もう十分だろう」
その真剣な眼差しに引き延ばしはもう限界かもしれない、と沙織は思った。以前、自分の地位を確立するためにも彼の行動を遅らせるよう進言した。その成果により、こうして同棲生活に近い環境を手に入れることができていた。
「そうですね……そろそろ良いんじゃないかと思います」
いつも傍にいれば、彼は自分にもっと興味を示してくれるだろう――沙織にはそういう打算があった。未だに男から声をかけられることもあり、ルックスには自信がある。そのうちに良い雰囲気になるだろうと、どこか楽観視していた。
「あの。先輩は……わたしとのこうした生活で寂しくありませんでしたか?」
しかし、1か月以上経っても駿は一向に手を出してくる気配もないし、泊まろうとすると帰宅を促される。ショックを受けて妻子のことを覚えていないのに、どうしてか妻子へ誠実にあろうとする。それが彼女には不満だった。このような衝動的な問いをするくらいに。
「ふむ。ひとりであれば途方にくれていただろうし、孤独に苛まれたかもしれん。沙織がいてくれるお陰で寂しさを感じたことはない」
「そ、そうですか! なら、良かった……。早く杏奈ちゃんと会えると良いですね」
沙織は以前考えたことを思い出していた。彼と娘を切り離すことは、きっと彼を不幸にする。彼が梨央と離れて後悔するのを、沙織の愛情で慰める自信はあった。けれども、娘との穴を沙織が埋めるのは難しい。だから、杏奈ちゃんとヨリを戻すところまでは許容しよう、と。
「うむ。今日にでも探偵に依頼を出そう」
沙織の言葉に安心してジークフリートは連絡先を確認する。自分から娘へ興味が移っていくその姿に沙織の胸はざわついていたが、同時に彼を応援したいという気持ちも芽生えていた。矛盾するその心に沙織は自分がよく分からなくなってしまった。
「やったぞ、これで会いに行くことができる」
ようやく手掛かりを得た!――数日後、ジークフリートはひとつの目標がクリアできたことに安堵した。駿との交信は、仕事をうまく回せるようになったという話ばかりで、互いに妻子について進展がないことに落胆していたのだ。
彼の手には会社から出て来る一ノ瀬梨央の写真と、学校の帰り道であろう一ノ瀬杏奈の写真があった。妻子の仕事や学校に変わりがないこと、生活状況に大きな変化がないことを確認していた。そして報告書により、彼女らに声を掛けられそうな時間帯も把握ができた。
「梨央に、杏奈か……」
ジークフリートはあの日見た梨央の剣幕を思い出していた。写真に映る梨央は良いことがあったのか笑顔である。このギャップが梨央が駿に抱いた怒りなのだろう。そして、自身がイザベラに抱かれた諦観も同じくらいの落差があったのだろう。
杏奈の姿をじっくり見るのはこれが初めてだ。学校が大変だったのか、真顔で少し疲れた、真面目そうな少女。駿によれば仲は悪くなかったという。自身もロザリアとは悪い仲ではなかった。ならばきっと、杏奈とも距離を縮めやすいだろう――ジークフリートはそう期待して杏奈の姿を目に焼き付けていた。
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