第7話 お節介な後輩
(ちょっと! 何してるんですか!)
いきなり後ろから買い物かごを持った腕を掴まれジークフリートは背筋を冷やした。
(ほら、清算してないですよ! 店員さんに見られてます! このままじゃ警察呼ばれちゃいます!)
その女性は周囲に聞こえないように、でも強く咎める口調だった。彼が周囲に誤解されないよう慮ってくれているからだろう。そう察したジークフリートは彼女に示されるままに、迂回をしてレジへと並んだ。
何とか犯罪とならず無事に清算し、店を出たところで女性はジークフリートに詰め寄った。
「先輩! いったいどうしたんですか? 心ここにあらずという感じですよ!」
濡羽色のロングヘアに、吸い込まれそうなダークブラウンの大きな瞳。モノトーンのブラウスにツイード調のスカート姿は、ドレスでなくとも彼に上品さを感じさせた。心配そうに覗き込むその女性にジークフリートは焦った。明らかに「自分」――駿の知り合いである。今日のところは知己に遭遇した場合の対処など想定していなかったのである。
「ああ、いや……少し調子が悪くてな」
駿はこんな口調だったか――しどろもどろな雰囲気を隠しきれない彼の様子に、その女性はジークフリートの額に手を当てた。
まだ振る舞いも慣れない。駿の妻子の連れ戻しのためにも、今は誰にも事情を知られるわけにはいかない。ジークフリートはその距離感にたじろいだ。
「ん~熱はないですね、でも疲れた顔をしてます。何かあったんですね」
優しい口調でそう納得した彼女は、奪い取るように彼の持つ買い物袋を手に取った。
「ほら、お家まで運びますから。さ、行きましょう」
「い、いや。それには及ばぬ」
「……? どうしちゃったんです? そんな畏まった言い方」
怪訝な表情を浮かべる彼女に口をつぐむ。彼女はいったい、駿とどういう関係なのか。このように美しい女性なのだ、もしや側室や妾なのだろうか。いや、もしそうでなかったら失礼極まりない、先に駿に聞くべきだ。ジークフリートは困惑した。
この程度の会話で不自然さを気取られているほどまでに、彼とは親しい間柄なのだろう。とすれば、無碍に追い返すと関係を悪化させてしまうだろうか。
荷物を取られてしまっては逃げ出すわけにもいかない。結局、言い訳も浮かばない彼は女性に手を引かれるままに帰路へついた。
「なな、なんですかこれ!!」
自宅の扉を開けたところで女性は叫ぶ。その声にジークフリートはびくりとした。
「どうしてこんなに廊下が泡だらけに!? それに焦げ臭いですよ!?」
女性は靴を脱いで家の中へと入ろうとする。荷物運びだけを頼んだつもりだったジークフリートは、今の段階でこれ以上関わるのは得策ではないと、慌てて彼女の肩を掴んだ。
「待て。わた……俺の家だぞ。勝手に入ることは許さん」
突然の強い物言いに彼女は驚いた。あの先輩がこんな言葉を使うはずがない。
「え? ご、ごめんなさい。でもでも、これ、ほんとにこれ、酷いです。梨央さんはどうしたんですか? 杏奈ちゃんは?」
「り、梨央と杏奈は……おらぬ」
妻子がいない程度で、こんなタチの悪い子供の悪戯みたいな事態になるのだろうか。口調もおかしく無理に止める先輩の姿に、只事ではないと彼女は強気になった。
「……先輩、上がらせてもらいますね」
「あ、おい!」
ジークフリートが止める間もなく女性は上がり込んでしまう。そして「ああ、何ですかこれ! 洗剤を1本入れたんですか! 洗面所から泡が溢れてますよ!」、「うわっ、これタマネギもキャベツも丸ごと鍋で焼いて何を作ってたんですか……こんな焦がして、落とすの大変そう!」、「えええ、この棚、ぐちゃぐちゃです! 地震なんてありませんでしたよね!?」などと叫びながら屋内を闊歩する。
頑張って家事をした結果を咎められているようで彼は苛立ちを覚えた。フロイエン家当主を侮辱するとはと喉まで出かかったが、指摘も事実なのだろうと言葉を飲み込む。
だが、彼女を好きにさせておくともっと詮索される可能性があったことから自然と口調も強くなる。
「うるさい、俺がやったことにけちをつけるな。文句があるなら出ていけ」
やはりおかしい、いくら家事が下手と言ってもこれはないはずだ。それにわたしに関わらせないようにしている。ジークフリートの物言いに、そう彼女は確信した。
「こんなの、梨央さんだったらヒステリー案件ですよ!」
ジークフリートが拒絶して追い出そうにも、掃除機の蓋を開け中に詰まっていた紙を取り出しながらの彼女は強かだった。彼が起こした惨事を見ていられないのだろう。見せつけるように後始末をされたとあってはぐうの音も出なかった。
そして有無を言わさず彼女は片付けを開始した。「先輩はそこに座っていてください!」と居間のソファーから動くことも許されず。
洗濯の洗剤は少量で良く、このまま干さなくても良いと聞けば、たったそれだけ済むのかと驚愕し。焼くならテフロンのフライパンだと教えられ、火にかける鍋に種類があると区別に感心し。掃除機は管のサイズよりも小さいものしか吸えないと知れば、なるほど口のサイズを超えれば人間も詰まらせると納得する。
子供じみた注意を聞かされていくうちに、想像以上に機械道具の性能が優れ、取り扱いも繊細であり、それ故にメイド要らずなのだと、ジークフリートは学んだ。
小一時間して見違えるように片付いた部屋を見て、そういえば最初に来た時にはこんな感じだったなと、ジークフリートは思い出した。そして、それだけの手間を、善意のこの女性にかけさせたことに自身の不手際を恥じた。
「その、助かる」
「えへへ。どうです、見直しちゃいました?」
苦労をかけたというのに、はにかみながら彼女は紅茶を並べて彼の隣に座る。何故、彼女はここまでしてくれるのか。駿は彼女からそれほど慕われるような関係だったのかもしれない。
紅茶の香りで落ち着きを取り戻したジークフリートは、これ以上、彼女に関わらせることなく帰宅を願う善後策を考える。
「それで、先輩。ほんとうにどうしちゃったんです?」
だが、彼女は彼女で、あの優しい先輩がこんな横柄な態度を取ることはおかしい、疲れておかしくなるにしても度がすぎる、と考えていた。
「どうもしておらぬ」
「ほら、その言い方! やっぱりおかしいです」
むぅ、と頬を膨らませ顔を近付けてくる彼女。いち当主として自身の不始末を片付けてくれた恩義から。そして駿と彼女の関係を崩さぬため、これ以上帰れと邪険にすることもできずジークフリートは顔をそらした。だが彼女はその視線の先に回り込んでさらに詰め寄って来た。
ここまで踏み込まれては、もはや隠し通すことは不可能だとジークフリートは諦めた。そして、妻子が出ていったこと、家事をしたけれども上手くはできなかったことを白状した。もちろん、魂が入れ替わったなどと荒唐無稽なことは口にしなかったが。
うんうんと頷きながら聞いていた女性は、はっとして自身を指して言った。
「先輩。わたしの名前、わかりますか?」
「む……その、すまない」
「やっぱり……あなたの大学の後輩の、
沙織と名乗った女性は彼の手を取る。驚くジークフリートに彼女は続けた。
「先輩、梨央さんとのことがショックで色々わからなくなっちゃったんですね。安心してください、わたしがフォローします!」
にこりと元気よく微笑むその端正な顔つきにジークフリートは思わず魅入ってしまい、勢いで頷きそうになる。ルクスリア王国ではこの国のような艶のある黒髪は珍しく、異国の美に彼の心は踊ってしまったのだ。
だが、身辺は自らが処するという駿の言葉から察するに、良い歳をした者が親に甘えるような話を受けては駿の名誉にも関わるのではないだろうか。
「う、うむ、しかし……」
それに立ち入られてしまうと駿でないことがバレてしまい妻子を連れ戻すことに支障が出る。何より
「明日からどうするんですか? 仕事もありますよ? 家事だけでも厳しいんですから」
それを見越してなのか、迫る沙織。その指摘どおり、ままならぬことは事実。それに、次に駿と交信できるのがいつともわからないのだ。プライドよりも実利をとるしかないことが苦渋の決断を後押しした。
「……しばらく、頼む」
「はい、頼まれました!」
許した途端に明るく寄り添う沙織。軽々に身体を押し付けられ、どきりとしてしまったことを誤魔化すように、また顔を逸らすジークフリート。沙織は少し紅潮した彼の顔色を見逃さなかった。
「早速、ごはんを作りますね!」
腹の虫が鳴ってしまったジークフリートは、ただ頷くだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます