忘れたくない夢をみた

泉小太郎

永留

 目が文字の上をすべる。

「ああ駄目だ」

 大貫健太おおぬきけんたは天井を仰いで目の間を指で摘んだ。

 自室の学習机に向かってすでに一時間が経つが、いまだ教科書を一ページも読み進められないままでいる。

 高校受験が迫っているというのに、このままではただでさえ遅れている勉強の計画が余計に後ろ倒しになってしまう。

 もうこれ以上浪人は続けられない、と大貫は強く思っている。早く社会に出て両親に楽をさせてやりたいとも思っている。そのためにはとにかく目の前の教科書を読んで覚えて暗唱できるようになることに専念するべきだと分かってはいるのだが、どうしても文字を追うことができないのだ。

 ここ一週間ほどは、眠る時間も抑えて受験勉強を続けていたからその疲れが出ているのだろうという自覚はあった。

 ひょっとしたら五分、目をつむるだけでも気分が晴れて効率があがるかもしれないとも思っている。

 だが、それができなかった。

 休むことに、罪悪感を覚えてしまうからだ。

 両親は、たまには休めというのだが、その優しい言葉がさらに罪悪感を増幅させた。両親ともに夜遅くまで働いて帰って来る姿を見るたびに、そして、それにも関わらずとくに母が家計簿をにらみながら毎日の献立を考えている姿を見るたびに、大貫は早く両親を助けられる身になりたいと思う。そんな両親のおかげで、大貫は運動のために近所を散歩する以外、ほとんど家から出ずに済んでいる。何もかも、大貫が何の心配もなく受験勉強に集中できるようにと、両親が気遣ってくれているおかげだ。大貫が両親のことを思うのと同じがそれ以上に、両親は大貫のことを思ってくれているのだ。

 ありがたいと思う。

 だがそのありがたさが罪悪感を増幅させ、罪悪感がありがたさを底上げしていた。

 悪循環だ。

 その悪循環を断ち切るためにも、浪人生活から脱しなければならない。

 大貫は頭を振って、両手で頬を叩いた。

 ふたたび教科書に目を落とす。

「健ちゃん、ちょっといい?」

 部屋の外から母の声が聞こえた。

「なに?」

 大貫が振り返ると同時に、扉を開けて母が入ってきた。

葉書はがきが届いているわよ」

「ああ、ありがとう」

 大貫が葉書を受け取ると、母は頑張ってねと言って部屋から出ていった。

 扉が閉まる。

 大貫は葉書の差出人を確認した。


 水沢顕みずさわあきら――。


 それが差出人の名だった。

 小学校にあがる前からの、サッカーを通じての友人だ。

 実直で真面目な男だ。――だからというべきか、それが当たり前なのか大貫は知らないのだが――水沢は高校受験に一発で合格したと聞いている。その後は部活でも勉強でも優秀な成績を残しているらしいという話も聞いた。

 負けてはいられない、遅れを取っているがいずれは俺も――と大貫は思いつつ、葉書の表を見た。

 そこにはこう書かれていた。


 お久しぶりです。同級会を開くことになりましたので、お知らせいたします。もう亡くなった方もいますが、元気な皆さんの還暦かんれき祝いをねての同級会です。旧交を温めるよい機会ですので、ぜひご参加ください。


 大貫は懐かしい顔ぶれを思い出しながら、「参加」に丸をつけた。

 そして奮起した。四十四年に及ぶ浪人生活から脱して、せめて同級会では高校生になったことを誇れるようにしようと。




(了)

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