小さな怪奇小説~アルバイト先は魑魅魍魎の住処~
きょん
第1話
深夜のファミレスでフロアのアルバイトをしていたことがある。理由は、時給の高さと近所だったからだ。和食のファミレスだったこともあり、店内には筝曲が流れ、個室の小上がりもあり、畳が敷かれている。テーブル席も広々としており、家族連れや中高年層が客層として一番多い。ランチタイムのピーク時や夕飯時を除いて、比較的落ち着いており、特にこの時間帯は─22時から翌2時半までだが─閑散とすることも多かった。
「夏川さんは、なんでこの仕事を」
わたしは、暇つぶしに背の高い大学生の新入りに聞いた。
「いやぁ、とくに、これといって……、まぁ、時給いいし。なんか楽そうっておもって」
言いにくそうに苦笑いする。
わたしは頷く。確かに、ここ以外の飲食店で働いたことがあれば、余計にそう思うだろう。オーダーは、タブレットで注文するし、(それは、まだ珍しいほうだった。高齢者に優しくないと言われたこともあったが、ハンディー入力タイプに比べてフロアの仕事が格段に楽だ。しかも入力ミスの責任をとって、食べたくもないものを買い取って賄いとして食べる、なんて罰をくらうこともない。追加注文にいちいち席まで行くこともない。呼び出しボタンがひっきりなしに鳴ることもない。いいこと尽くめだった)さらにこの店は和食専門であり、大ジョッキを頼む人間が少ない。キンキンに冷えたビールがたっぷり入った大ジョッキを幾つも両手に持って居酒屋で働いていた友人は腱鞘炎になっていた。そういうこともない。優雅に食後のコーヒーを運んだり、ほうじ茶を出す。
「そっか。もう、二か月くらい経った?」
レジ周りを掃除しながら、わたしは夏川の方をみた。もうすぐ閉店だ。ラストオーダーの深夜2時が近づいている。今いる数組のお客さんがはけたら、片付けて、掃除をして上がれる。彼はカードの明細と伝票の枚数を確認したり、クーポン券にハンコを押したりしている。この期間、ペアになることも多く、指導役として、わたしは彼の補佐をしていた。
「そう、すね雨宮さんにはお世話になりました。多分来週からキッチンのほうに入ると思います」
人懐っこい笑顔を向けて夏川はそう言った。
この笑顔が、好まれたのだろう、とわたしは残念に思う。
そんなに長くはここでは働けない、と思ったが、口に出すべきことではないとわかっていたし、わたしにはどうすることも出来ないことだと思って、目をそらした。
その時、カラン、とドアが開く。
一目見て、わたしは、口の中に酸っぱい胃液が広がったのが分かった。咄嗟に、夏川にキッチンに入ることを告げて、もう一人のアルバイトの重さんにマスクとネットを身に着けて声を掛けた。
「来店一名さま。常連さん。頼むのは、季節のイチ押し御膳。洗い物やっちゃうね」
「あいよ。もうちょいでラストオーダーだってのに、」
ため息と、ま、仕方ないか、という諦観をにじませて、蕎麦屋の店主をやっていたという白髪に日焼けした職人のような老人が言う。老人なんていうのは失礼か。師匠というか、時々仏様のような様相を呈している。
ここでのわたしのこころの支えとなる、唯一の人間だ。
オーダー伝票が電子音と共に流れてきて、重さんは、頭をそらすようにして見て、季節の一番御膳ね、と独り言ちる。
「イチ押しだってば」
洗い場から、声を張りあげて、いつものやり取りをして気を紛らわせる。
フロア内に夏川と一緒にいて、仕事上のやり取りだとしても、言葉を交わす気にはなれない。
この、天井からいくつもの通気口の筒が垂れ下がり、時々頭をぶつけるような憎らしいキッチンこそがわたしを守るシェルターだと思った。
スポンジを持つ手がまるで石でも掴んでいるように固まる。
あれは、わたしがこころのなかで、びしゃびしゃさんと呼んでいるお客さんだった。
小柄で、恰好は十代の少女のようであった。金髪に近い傷んだ髪の毛を二つに分けて、長い三つ編みにしていた。斜め掛けしているぱんぱんに膨らんだナイロン製のショルダーバックには、無数のキーホルダーがつけられて、じゃらじゃら音をさせていた。塗りたくられた派手というより、おぞましい厚化粧に、マニキュアの禿げた爪。毎回、レジでお金を出すまでの間、わたしはびしゃびしゃさんに釘付けになっていた。全神経で拒んでも、意志に反して、その異様さが目に飛び込んでくる。そして、花柄があしらわれたステッキを持って、脚を引きずって歩いていた。
声は、かすれたような小声で、それは裏声なのだと後からわかった。
季節のイチ押し御膳は、一番品数が多く、食べるにしても一番時間がかかる。あの、つまむように、ゆっくり持ち上げてうつろに食べる姿が思い出された。帰りは、深夜三時を優に超えるだろう。枝豆ご飯に、夏野菜とエビの天ぷらの籠盛りに、茶わん蒸しと小鉢と刺身に香のものがついて、お盆に乗せられる。これに、みそ汁の代わりにうどんやそばを頼むことが出来るのだ。びしゃびしゃさんは、いつも温かいうどんを頼む。
「はい、お待ち」
重さんがキッチンベルを鳴らす。夏川がなんとも言えない渋い顔をして、暖簾をくぐって、キッチンスペースに入ってくるのが見えた。重さんに何か言って、御膳に割りばしと茶わん蒸し用のスプーンをつけて、持って行った。わたしは、食器を片付けながら、重さんに聞く。
「夏川さん、なんか言っていた?」
「新規の客がムカつくんだと」
「そう、」
「夏川のこと気に入ってるんだろ。いい男だもんなぁ。あいつをちょこちょこ呼ぶんだとよ」
重さんの声が明るい。
わたしは蛍光灯の殺伐とした白っぽい照明を全身に浴びたまま呆然とする。かつてあった、何かの予兆のようなものを思い出していく。あれは……、あの時も……。
大型の洗浄機の機械音に、ドキッとする。人の悲鳴ようなクラッシュ音が響く。
「重さん、夏川さんって自転車で来てるよね?」
「あぁ、俺と同じ」
「今日、夏川さんに自転車貸してやってくれない?わたし、重さんのうちまで乗せてくから」
「え、なんで?」
「自転車、パンクしてるから、それで、夏川さんに、今日は家に帰らないで、人といるようにって言ってくれない」
「は、ますますおかしなこと言って。雨宮ちゃん、時々こうだよな」
「重さん、お願い、こういうことってあるんだよ。夏川さんに言って。これで変わるかもしれないから」
わたしの目をみて、重さんは怯えたようだったが、頷いた。
最後まで居残っていたびしゃびしゃさんが帰って、わたしはフロアに出た。夏川の様子を見ると、顔色が悪く、衰弱しているように見えた。わたしの姿も目に入っていないような彼に、声を掛けてもムダだろうと思った。
わたしはいつものようにトイレ掃除に回った。なぜかこの店では、男性用、女性用、共同とトイレが分けられているにも関わらず、全てのトイレ掃除を女性スタッフの仕事に振り分けられていた。高校生の男子がいる時間でもなく、生理用ナプキンの片づけくらいどうってことないはずなのに。
女子トイレは入ってみるまでもなく、洗面台から床まで水を巻いたように濡れていた。
昔嗅いだ、防虫剤のような匂いが立ち込めていて、わたしは眩暈がする。ここで、いつもなにをしているのか、誰も突き止めたことがないと言う。前にいた笑顔が素敵な女性社員が教えてくれた。
あのびしゃびしゃさんが、引きずって歩く脚が、この洗面台の上でなにをしているのか。洗面台に残る靴底の後が黒く浮き上がり、あの脚でこの高さの洗面台によじ登る小柄な姿が奇妙すぎて現実味が湧かない。
ただ、いつもここで、大量の水を流し、床や周りを濡らすほどに、何かを隠そうとしていたことがわかる。こんなに恐ろしい匂いを振りまいて、ここの消臭剤じゃ消せないような匂いを発散させて。
女子トイレは個室が二つあるが、それを含む、この手洗い場自体に内側から鍵がかけられるようになっている。忘年会で酔っぱらった客が前にこのトイレで事件を起こした、と聞いたことがある。
夏川の手でも想像したのか、とわたしは思い、息を止めて、床をデッキブラシで擦った。排水溝が哀れに思えた。
それだけではない、あれは、邪魔する者や邪険にするものを簡単に排除できる。そのくらいの力があることもわかる。はっきり見えないが、怨念や呪いのようなものの塊だ。
このファミレスで働いて、初めて目にしたとき、わたしは、話しかけられた。
びしゃびしゃさん、に、ではない。
レジ前で、小銭入れの中に野太い指でかき回すようにして、探る、びしゃびしゃさんは、俯いていたから。黙って、焦っているように、必死で、硬貨をかき集めていたのだから。
わたしに話しかけたのは、その後ろにいる者だった。
その者は、まっすぐわたしをみて、こう言った。
ジャマスルナラ、シヌ
ドコニイテモ、シヌ
コノオトコハ、ワレワレノ、エモノ
黒煙の中に無数の顔が現れて、その目という目が棒立ちになっているわたしを舐め回すように見ていた。そして、小銭をようやくトレイに並べたびしゃびしゃさんを見ると、一斉に嗤ったのだった。
二話
わたしがこの店舗に異動してきて数か月後、一人の奇妙な女を面接した。それは形ばかりのもので、採用することはもともと決まっていた。なんでも、この辺り一帯を占めている地主の親族のようだった。本部のほうで話はついていて、深夜帯のフロアの仕事を任せるようにと連絡があった。
名前を雨宮と言った。下の名前は書いていなかった。地味で大人しそうと思って、よく見ると、左右の目の色が違うことに気が付いた。わたしは多少驚いたが、いつもの愛想笑いでごまかして、真白な履歴書に目を落とした。何の資格も特技もなく、職歴もなかった。聞いたこともない名前の地方の私立大を卒業していた。
「雨宮さん、飲食店は、初めてですか」
と、確認のためにわたしは聞いた。
「いいえ、何店舗かで、アルバイトをしたことがあります。職歴に書くほどでもないと思いまして」
声が不思議と心地よくて、印象が好転していくのを感じた。名前を書けない理由を聞こうかと思っていたが、金持ちすぎる家のせいで、なにかと都合が悪いのか、知られるとマズイことでもあるのかもしれない、と思った。雨宮という苗字さえ、偽名であると直感した。
「雨宮さん、深夜の時間は大丈夫ですか、主に、キッチンの重さん、って方と二人で働くことになります。あ、慣れるまでの研修期間はわたしもいます。週に五日の勤務でいいんですね」
「はい」
にこりともしないが、至極真面目で、慎ましやかな印象でもって、悪い気はしなかった。それから、この雨宮がほとんど、まったく笑わない女でありながら、人の気を害さないように、上手く立ち振る舞っていくのを目にすることになる。
この店舗は売上だけでいえばダントツだった。富裕層の多い店舗や新店舗、リニューアルした大型店より、客の回転が速くて、かつ客単価が一番高い。中高年とファミリーが主軸の客層というのは、変わらないのに。
他店にいたときに、この店舗の七不思議的な噂を聞いたことがある。
それは、慣例化されていた。まず、年寄の採用を断らないこと。そして、トイレ掃除は女性スタッフが行うこと。さらに、駐車場の片隅の隣家と接する位置に小さな鳥居があって、そこに週に一回何かを供えること。以前、この店舗のトイレ内で強姦未遂事件が起きたこともある。それが、この鳥居と何らかの関係があると言われている。お供えを忘れたのか、バチが当たったのか。さらに、深夜帯のアルバイトが続かない。おもに大学生だが、数か月経つと音信不通になる。事件に発展している様子はないが、深夜帯は魔物が住むと誰かが冗談で言っていた。それというのも、深夜帯の常連客の中におかしな行動をする者が多く、閑散とした時間でありながら、神経が張り詰めて、どっと疲れるという。それは、実感する。大して動いてもいないのに、体重が減る。食欲がなくなるのが原因だと思うのだが、深夜帯にフロアで業務についた後は、家に帰りつくと、着替えるのもおっくうになって、倒れこむように寝てしまうことが多い。そんな夜は悪夢をみることがあり、明らかに体調が悪くなる。
雨宮の初勤務の夜は、小雨が降りしきり肌寒かった。店内は静かすぎるほど静かだった。
「もうすぐラストオーダーになるから、奥の小上がり席のお客さんに声を掛けて、下げられるものは全部下げてきて」
とわたしは雨宮に指示を出した。
小上がり席はフロアの奥の暖簾をくぐり、トイレの前を通過し、廊下を少し行くと三部屋ある。障子で仕切られた完全個室で人気があった。熟年の物静かな夫婦が確かデザートの白玉ぜんざいを食べ終わっているころだろう、とわたしはキッチンに入り、皿洗いやゴミ捨てを始めた。キッチンにいる、重さんと呼ばれる熟練の親方みたいな爺さんが、裏口のドアを開けて、外でタバコ休憩をしていた。
「重さん、今日入った新人、どう思う?」
わたしは、愛想もなければ、機敏でもなく、コネで採用された雨宮を内心小馬鹿にしていた。すぐに辞めるかもしれない。
「さあ、どうだろうか。でも丁寧でいいんじゃないか。お辞儀の仕方なんか、レジ前でしているの見たけど、ここは料亭か、奥座敷か、って感じだったな」
「世間知らずでも、礼儀作法だけは叩き込まれて生きてきたんだろうね。ここら一帯の地主さんなんでしょう、親戚が。だったら、働かなくても良くない?」
ゴミを外の倉庫に運んで、わたしは重さんに愚痴りたくてたまらなくなる。
「こっちは奨学金も返さなきゃなんなくて、辞めたくても辞められないし、おまけに異動は半年に一回あったり、こんな長時間の仕事に休みも取りづらい。なんかいいことないかな、あ~いう、チンタラ生きてられる人見ると、イライラしちゃうんだよね、重さん」
「まぁ、そう言いなさんな。アンタきれいで人気あるんだし。さっさといい人見つけて結婚するかもわかんないんだし」
「そーだといいけど。同業者はないな。土日休みの固いお仕事している知り合いとかいないの?」
「俺の歳の?」
「違うよ、孫世代の」
重さんが笑って首を振る。
この店にきて、一番の気晴らしになるのは重さんと話している時だった。性格も口も悪い、素の自分を重さんにだけは晒している。嫌われてもいいという気楽さと嫌われないという安心感からか。重さんなら、その場の話をそこで終わらせてくれるということも分かっていた。
雨宮の様子を見にフロアに戻ると、奥の小上がりの片づけをしているのか、姿が見えなかった。さっそくレジ締めを教えようかと、雨宮を探しに、暖簾をくぐって、トイレ前に差し掛かったときに、鼻歌が聞こえた。わたしはもう、トイレ掃除まで始めているのか、と仕事の速さに感心して、ドアノブを回した。
カチャリ
中から音がして、鍵が掛けられたようだった。
鼻歌を聞かれたのが恥ずかしかったのだろうか。
トントン、とノックしてみた。先ほどいた熟年夫婦の奥さんが入っているのかもしれなかった。会計後にトイレだけ借りてから帰るお客もいたので。
返事の代わりに中から笑うような声が聞こえた。
歌っていたが、子供の声のように聞こえて戦慄した。
いーってやろ
いってやあろ
きいたぞ
きいいたぞ
「どうかしましたか?」
一番奥の小上がり席からお盆を持って雨宮が出てきた。
「トイレ、お客さん、まだいるの!?」
ビクリと肩が跳ね上がる。咄嗟に雨宮にすがるような声で問いかけた。
「誰も、いませんけど」
表情の読めない雨宮の顔が恐ろしく思えて、でも、鍵が掛けられて、とドアノブを回す。
簡単にドアは開いた。
立ちすくむわたしに雨宮は、大丈夫ですか、と声を掛けた。
女子トイレには誰もいなかった。
ただ、床の排水溝の蓋が外されていた。誰かのイタズラなのか。確かに声を聞いたと言い張りたい気持ちと戦いながら、でもこんなことを言ったら、新人に示しがつかない、というような変な意地も出てきて、その晩のことは誰にも言えなかった。
またある時、雨宮は、なぜ、この女子トイレに鍵が内側から掛けれれるようになっているのか、と聞いてきた。わたしは、それは知らないが、酔っ払いが以前、このトイレに入って、鍵を内側から掛けて女の子を襲った、と話した。随分前の話だし、未遂で大きなニュースにはならなかったが、それでもこの鍵はそのままつけられている。
「雨宮さん、地主さんの親戚なんでしょう。ここの土地って、昔なにかあったとか?」
何回目かの勤務時に、聞くともなしに、雨宮に、ふざけてそう聞くと、黙ってレジに向かうお客を目で追っていた。
「……、あの人、」
雨宮の声がかすれていた。
「あぁ、あれ、びびるよね、ちっちゃいおじさんなんだけど、十代のロリータみたいな恰好して。入るのやめてって言えないけど女子トイレ使うからね。深夜の誰もいないときを見計らって使うからクレーム上がってきてないけど」
「常連さん、ですか?」
「そうよ。あの人トイレで杖でも洗ってんのか、洗面所汚して帰っていくからメンドイの」
「はぁ、そうですか」
雨宮は気が進まない、と言った様子で、レジに入る。
変態さんと陰で呼んでいたわたしに、何かと用事をいいつける厄介な客でもあった。うやうやしく対応すると、裏声で話して、けばけばしい化粧をほどこした顔面いっぱいに、満足気な表情を浮かべる。
「いい笑顔ですね」
といつも同じ誉め言葉を吐きながら、うどんを温め直して欲しいとか、箸は割りばしがいいとか、茶わん蒸しが熱すぎるから冷たいおしぼりが欲しいとか言ってくる。
ふいに、レジで向かい合うように立っている二人を見ると、小銭を探しながら慌てふためくお客の前で、雨宮が直立不動で微動だにしない姿に噴き出してしまった。
礼儀正しいのもここまでくると病気みたいだ。
ただ、視線がさっきから宙をみていて気味が悪かった。
お客が店を出るまで、その状態が続き、わたしは思わず声を掛けた。
「あ~いう、一見変わったお客さんも、中にはいるから。大丈夫」
今まで、どれだけ四角四面な世界だけを見てきたのか、軽く笑って、雨宮の腕に軽く触れると、さっとすぐに引っ込められた。
一瞬触れただけだったが、、倉庫からだしたばかりの冷凍のフライのように冷たかった。
おかしなことが起こり始めた。
雨宮もわたしも何も言わなかったが、明らかにフロアの特にトイレから小上がり席あたりに異様な空気感があった。そして、それ以上に、わたしは雨宮という人間に次第に懐疑的にならざるを得なかった。
時々、キッチンの重さんには打ち解けた感じで会話をしているのがわかったが、わたしを前にすると、途端に寡黙になった。それも気に入らなくて、重さんや他のスタッフに雨宮の悪口を散々吹聴した。
それをどこかで聞いたのか、どうか雨宮の方でもさらにわたしに近づかなくなった。
なんせ、雨宮が来てから、おかしな現象が起こっていることもあり、わたしは、雨宮にさっさと辞めて貰えないかとさえ思っていた。
「美鈴さん、」
久しぶりに、雨宮から話しかけられた。
閑散としたフロア内に琴の調べがうさん臭く流れている。こんな安いファミレスで、琴、って、とわたしは呆れを通り越して軽蔑していた。
「美鈴さん、ちょっと聞いて欲しいことがあるんだけど」
と、雨宮は薄い茶色の方の目をゆがめて言った。具合でも悪いのかと思ったが、そういう素振りさえも腹立たしく感じて、張り付いている軽薄な笑みのまま返事をする。
「なんでしょう」
「あの、今夜は、まっすぐ家には帰らないで、誰かと一緒にいたほうがいいです」
「は?」
お茶のポットを並べていた手を止めて、わたしは雨宮に向き直った。
「車の運転も止めたほうがいい。これぐらいしか言えませんが、今夜は、例えば、美鈴さんを大事に思っている誰かと電話で話すか、一緒にいてください」
何事か分からないが、雨宮の蒼白しきった顔に、キッチンの重さんを呼んだ。
雨宮がおかしなことを口走る姿を重さんはじっと見ていた。
わたしは、この女の得体の知れなさにもう勘弁して欲しくて、分かったから、と何度も言って、店を出た。車に乗らないと帰れないから、と雨宮の静止を振り切った。そんな時も得意の愛想笑いだけは浮かべたまま。
「美鈴さん、前に……、すごい前から、……なりたかったんですよね、女優さん。それ、絶対、諦めないでください」
心臓を掴まれた気がして殺気だった。
誰から聞いたのか。思い出したくない、目をそむけたくなるようなサイアクの恥部を人前で晒されたように感じた。
「なんのこと?」
それだけ言って、雨宮を睨むと、
「大勢の子供が言っています」
と淡々と答えた。
「ホント、気持ち悪い」
わたしは車を出した。立ちすくんだままの雨宮がバックミラーに映って、どんどん小さくなっていった。
猛烈な吐き気と頭痛に、途中、二度、三度と車を路肩に止めた。常備薬の錠剤をかみ砕いて飲んで、救急車を呼ぶべきかどうか朦朧とした頭で考えた。真っ暗な路肩に、街灯が消えかけている。あたりは、用水路のじっとりした水音がわずかに聞こえ、民家の見えない田畑が広がるような田舎道だった。さっきまで走ってきた道をおおきく外れたのだろうか。車の窓から顔だけ出して、こみあげるものを吐いて、咳き込んだ。置いてあったウエットティッシュを引き抜いてだして、口を拭うと、雨宮が言っていた言葉を思い出した。
自分の鼓動がエンジン音と同じくらい大きく聞こえる。
このままいてはいけない、そう感じて、携帯をカバンから出した。
大学の時、同じ演劇サークルで、一緒だった友人のナンバーを見て、少なからずホッとした。まだ残してあった。良かった。これで、何かの忌まわしい枷が外れるかもしれない。助かるかもしれない、と思って通話を推した。
何コールもの間、生きた心地がしなかった。このままきっとあの街灯が消え、さらに、車のエンジンが切れ、真っ暗な中取り残された自分の身に一体何が起きるのだろうかと思うと、恐怖で口の中がカラカラに乾いて、舌が凍り付いたように固まった。
「……、え、美鈴?」
唐突にスピーカーから懐かしい声が聞こえた。
「あ、あぁ、良かった!」
第一声からおかしなことを言ってしまったと頭ではわかっていたが、本能の部分であまりの安堵から泣き出したくなっていた。
「美鈴?どうしたの」
声の主である、大学の友人、亜紗美は言った。
「あ~っ!ごめん、ごめん、こんな時間に、亜紗美の声が聞きたくなって、本当ごめんね。突然、」
「え、いいけど。すごい声大きくて、何かあったの?」
「いや、なんでもないよ」
息を整えて、わたしは額や頬から流れる汗を袖で拭う。
亜紗美は最近の様子を話して欲しいと言ってきた。わたしは、就職して、ファミレスで働いていることを伝えた。なんてことのない日常で、つまらない毎日だと。亜紗美は黙って聞いている。
「それで、女優になることは諦めたの?」
と雨宮みたいなことを言う
とっくに諦めている。だいたい女優なんて、ちょっとかわいいとかキレイとか演技が上手いとか、そんなぐらいでなれるもんじゃない。子供の夢だったのだ。幼いころから母親につれられてたくさんのオーディションを受けて、いろんな役ももらった。その多くは端役でモノにならなかったのに、大学までしがみ付いてしまった。自分の才能とか周りからの誉め言葉とか、この容姿や経歴にうぬぼれてもいた。
「そんな、バカバカしい。とっくに諦めてるって、亜紗美までそんなこと言わないでよ」
笑い飛ばして、今の自分だって、それなりに社員として、まっとうに給料もらってやってんのよ、と自慢したいくらいだった。
その時、ぷつん、と何かが切れるような音がして、さっきまで黙っていた亜紗美が、へぇ、と低い男のような声を出した。
ああんた、なんで、いきてんの、あんたみたいいなやつ
なあんにんいじめてきたの、なあんにんのゆめうばってきたの、なんでいきてんの
きいーちゃった、きいちゃった、
さんざんじゃまあしたくせに、あきらあめるんだなあえ
いーってやろう、いってやろう
諦めていなかったら、守られたのに
口に出したら、もう、おしまい
スピーカーからではなく、車内の、それも、すぐ耳元で囁かれた。
もう、おしまい。
せっかくいままでいかしておいたのに
わたしの呼吸音だけが錆びたドラム缶の中に閉じ込められた、あの酸素が薄れていくなかで、絶望する小さな友人のものと重なる。
かわいくて、将来女優になるだなんていうから、ふざけて、撮影場所の大道具置き場で、ドラム缶の中に閉じ込めた。
上から重たい蓋をして、どうなるのか隙間から観察した。
はっきり思い出した途端、明滅していた街灯がバチンと消えた。
三話、料亭編
天井の低い、古い料亭で働いていたことがある。繁華街の中心から少し外れているその料亭は、この辺りでは名が通っていて、有名な料理家や評論家、時に食通の芸能人も足を運んだ。
この店で働くように、親族に言われて面接を受けた。目鼻立ちのはっきりした女性が、この店のお運びの仕事をしきる仲居頭だという。運ばれた料理を客にもてなし、その席でお客の話し相手になったり、時にはお酌もする姐さんたちとは違って、簡易的な安い着物を着ていた。瞬きがやけに多く、それは一般的に精神的ストレスからくるものだと、後からわかった。美人と言ってもいい、その仲居頭は、見た目からは想像できないような内実の持ち主であった。笑い方に人を見下すような、それでいて、相手によっては、卑しくこび、へつらうような、そんな鬱屈があった。
ある日、出勤のため、客間で着物に着替えながら、その仲居頭が仲良くしている学生のアルバイトにこう切り出していた。
「ほんと、馬鹿だよねぇ」
病院に駆けつけて、手当を受けたという。緊急だったため、保険証を持ってきていない。それを受け付けに話して、次回の受診時に持ってくるといい、会計もその時にすると話をつけたらしい。無保険で、何度かこうやって切り抜けたことがあると、下卑た笑いを交えながら、うまく騙し通せたことを自慢げに話していた。
「頭わるいんだろうねぇ、簡単に信じすぎっていうか」
耳を疑うような言葉に、こういう人間なのか、とわかったが、どうやら社長には人柄まではバレていないようだった。
なにせ、料亭と言えば、聞こえはいいが、働いている者はよせ集めだった。借金を抱えた女学生に、兄がニートでシングルマザーと家計を支える低血圧なフリーターの女。社員として雇われているものの薄給に疲弊する調理長と若い料理人が二人。仲居頭も含めて、何かと紆余曲折を経ていた。まさに、自分自身を明るいところにさらけ出して、大手を振って外を歩けるような人間が、わたしを含めて、誰もいないな、と感じた。
中高年で、本業と掛け持ちしている者も何人かいて、その中にゆりえさんという、小柄で快活な女性がいた。普段は脱毛のエステサロンで働いていながら、今後の人生の何か足しにしたいと、この料亭に半ば学びにきていた。わたしは、このゆりえさんがくるまで、ほとんど雑談というものをせず、ひたすら作業に没頭して、時間をやり過ごした。その多くは掃除であり、不気味な置物や調度品を磨いたり、姐さんたちのお使いや、焼き物専門の別店舗への御用聞きなどをしていた。
指導という名の陰湿ないじめがあり、明らかに不条理なことをヒステリックに怒鳴られたりすることも多かった。
わたしは、その度に冷や冷やしてしまう。
いいから、大丈夫だから、放っといて、
繰り返し言って、心を落ち着けた。
ゆりえさんのそばにいると、気楽で、帰りが一緒だったため、一日被った大量のヘドロを脱ぎ捨てられるような心地になり、とにかくほっとした。そんな時間を愚痴や噂話で台無しにしたくなかったために、わたしはゆりえさんの知らないことは、そのまま伏せておいた。
ゆりえさんには、不思議な力があって、少し視えるのだという。わたしは疑わなかった。ただ、そういう人がここで長く務めると、大事な光を濁らせてしまうような気がした。
「スミレさん、いつも右肩傾いているね、」
お客の少ない夜だった。
ふいに、隣にいた仲居のアルバイトに入ったばかりの気の弱い三十半ばの女性に、ゆりえさんはこう、声を掛けた。
「……、いつも、肩こっていて」
「そうでしょう。お姉さん?妹さんかな、右肩に乗ってるのよ」
唐突にそう言われたのに、スミレさんは、ちらっと自分の右肩をみて、うんうん頷いた。
「わかる、妹よ」
ゆりえさんは、ただそばにいるだけよ、と言った。
スミレさんも右肩に手を置いて、そうね、と言った。わたしたち三人だけがその場にいて、その時にはお客も仲居も誰も、わたしたちの前に現れなかった。ゆりえさんといるとそういうタイミングが必ずあった。
うまく人払いをする力があるな、とわたしは感じた。
かくれんぼをして、鬼の子を迷わせて、独りぼっちにしてしまうような。悪用しようと思えばきっと、この料亭の中で誰かをつかの間、閉じ込めたり、戦慄するような異空間に放り出すことも出来るだろう。
ただ、そういう力には無自覚で、霊感のようなものが少しある、程度にしか思っていないようだった。
この古い料亭自体も、なかなかのものだった。従業員が集まれば、自然とその話になるほど、よっぽど鈍感に出来ていないと、違和感に襲われる。独りで掃除をしていて、料理さんしか厨房にいないはずなのに、ずっと見られているような気がする、だとか、置物の位置が見るたびに変わるだとか、あの七の部屋にいく階段に差し掛かるとぞっとする、だとか。だいたい同じようなことを言い合った。
「雨ちゃんは、何か、感じる?」
とゆりえさんに聞かれて考えていると、仲居頭が狭い控室の通路に寄り掛かりながら、吐き捨てるように言った。
「雨宮さんって、いじめられてたでしょう。なあんかわかるよねぇ、」
軽く笑って言った。
「あの履歴書も何?写真、別人じゃない?ねえ?」
とそばにいる仲居に同意を求めた。暗に、写真映りが詐欺レベルだと言いたいようだった。
「あぁ、よく撮れすぎてしまって」
とわたしは言った。いつも、こうなる。
写真を撮るたびに、いろんなものたちにイタズラされてしまう。
鏡もあまり好まない、化粧をしているそばから、造作が変わっていくのだから、どこをどう繕っていいものか。わたしは、わたしの顔というものが、いまではよくわからなくなっている。
そうか、写真のほうが美人というわけか、と納得した。
その途端に、物が割れる音がして、仲居頭が小さく悲鳴を上げた。周りを見回して、それが、入り口から一番近い階段の踊り場にかけられている巨大な鏡から出た音だとわかった。鏡の下の方に亀裂がはしっていた。
「鏡、割れた」
ゆりえさんが呆然と言った。
仲居頭は、古いし、気持ち悪いんだよ、と眉間にしわを寄せていった。神経質に瞬きを繰り返していた。
わたしに対する嫌がらせのようなものが増えた。
何も知らされないまま、大事なお客様のお運びにつかされて、姐さんに怒られてしまった。なんせ、会食時間の変更を知らないまま提供して、そのまま下げさせられた。まだ、お客様のお話の途中であり、焼き物を出すタイミングが早すぎた。たまたま社長がいた日で、わたしは大目玉を頂戴した。
「この店は仕出し屋じゃないんだよ!」
冷めたものを温め直して出すような真似はしない、と。高価な食材が人数分、破棄されることになった。
押し黙ったわたしに社長の怒りは収まらず、店の格が落ちると言った。こういう店に、向かないと言った。
落ち込んでいるわたしに、ゆりえさんが、次は気をつけます、とか何か言うべきだった、と言った。
わたしはそこで一つ処世術を学んだ。まずは、仰る通りだと頭を下げ、真剣にお詫びして、今後の働き方に関して殊勝なことを言う、というこのパターンだ。どんなに心から反省していても、それだけじゃ伝わらないのだから。
わたしは、心持ちがいつも見えると教わってきたので、その通りにこころを表してきたのだが、通りで、どこへ行っても誤解されてしまうわけだ。人には、わかる者とわからない者がいる。わからない者は、薄っぺらであっても、わかりやすい体裁とかお詫びを好む。反省文をわざわざ書かせる教師に似ていた。
仲居頭がケガをして出勤してくることが増えた。わたしには言わなかったが、ゆりえさんには、付き合っている彼氏と喧嘩した、と話していた。バーバリーのシャツやコートを着ている細身で色の白い仲居頭の後頭部に大きなホチキスで傷が塞がれていることを従業員の何人かは知っていた。
「木刀を持って、振り回すらしいよ」
何でも買ってくれるが、どういうきっかけで豹変するのか、怒ったら手がつけられない、と。堅気の人ではないような話もあった。
わたしは、
まさかな、と思う。
元々、仲居頭の抱えている問題であって、これはいつものアレじゃない、と思った。
思い込もうとしているところもあった。
ゆりえさんには見えているのだろうか。スミレさんの妹がどんな姿で右肩に乗っているのかを。仲居頭にいつも張り付いているものの触手が伸びて、そばにいる借金を抱えている学生と、兄がニートのフリーターの女の状況をどんどん酷いものにしていることを。
わたしが、店を辞めて、何か月が過ぎた頃に、ゆりえさんから連絡があって、あの仲居頭が店のお金に手を付けて、警察沙汰になった、と聞いた。
それに関しては周りが驚くほどにはわたしは驚かなかった。
ただ、ゆりえさんの身を案じた。
長くいてはいけない場所がある。
はるかに永い時間をかけて、封じ込められていたものが、少しずつ姿を現す。そういうものをもう一度封じ込める力はわたしにはない。
わたしは、見てくるように、と言われただけだから。
兄に。
いつもそばにいて、わたしを過剰に守ろうとするために、全ての災厄に成り代わってしまった兄に。
あの履歴書の写真の顔は、女として生きることを望まれた美しい兄の顔だ。
小さな怪奇小説~アルバイト先は魑魅魍魎の住処~ きょん @19800701kyoko
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