世界で一番嫌いな君と八月三十二日の夜

流川縷瑠

第一章 真白海子

第1話 はじまして

「はじめまして、お姉さんは真白海子ましろかいこですか?」


高い小さな声に反応して、私は顔を上げる。

薄暗い、夜の教室で私は机に突っ伏して寝てしまっていたようだ。

外はもう月だけが明るく光っている。


振り向くと、私から少し離れた位置に小さな子どもが立っていた。

おそらくこの子どもが声の主だろう。

子どもはまっすぐこちらをみている。

薄暗くて顔はよく見えない。

一瞬、瞳がきらりとひかったように見えた。

もしかしたら、それは切れかけの蛍光灯が見せた幻覚かもしれない。


「あの」


子どもの呼びかけで、私は意識をやっと子どもに向ける。

まだ頭がぼんやりしている。


とりあえず子どもに話しかけてみることにする。

「えっと、どうしたの?」

私が聞くと、子どもは用意してきたセリフをもう一度繰り返すように言う。


「はじめまして、お姉さんは真白海子ですか?」


理解するのに2、3秒ほどかかった。

私はやっと状況を理解する。

真白海子ましろかいこ、私の名前。

寝ぼけていた頭が起き始める。

子どもをよく見てみるが、見覚えはない。

というか暗くてよく見えない。

切れかけの蛍光灯はあまり意味を持たず、

私は仕方なく子どもに近づき、目線を合わせるためしゃがみ込む。

……迷子だろうか。

小学生くらい、背は私の胸ほどで、髪は顎くらいのボブ。

白いTシャツに暗めのサロペットを着ている女の子、やはり知り合いにはいない顔。


私はスカートのポケットからスマホを出し、時間を確認する。

今は午後11時。

とっくに子どもは寝ている時間だろうに。

まぁ、私もそれは言えているか。

私は自分がいる教室を見渡す。

というか、私は、なぜこんな夜中に学校にいるのだろうか。

よく思い出せない。


そしてもう一つ気になるのは、なぜこの子どもが私の名前を知っているのかということ。

私は子どもに話しかけてみる。

「私は真白海子だけど、どうして私の名前を知ってるの?」

私が聞くと、子どもはほっとしたように笑う。

「よかった、じゃあ


バイバイ?


聞き返す前に視界の端に何か金属の光が目に映る。


きらり


私がそれに気づいた時には、子どもはそれを振り翳していた。

私は体を逸らして、間一髪でそれを避ける。

子どもの顔を見る。

小さな顔は、哀しい笑みを浮かべていた。

「なんで逃げるかなぁ」

手には、銀色に光るナイフ。

だけど形が、曲がっていて、変だ。

偽物、と信じたいけれど私はその考えをすぐに打ち消すことになる。

「危ないよ、離して」

私は子どもを止めるために、そのナイフを持つ手に手を伸ばす。

ちりっとした痛み。

反射的に手を引っ込める。

子どもが持つ曲がった、歪なナイフが手に当たったのだ。

手を確認する。

血、は出てない。

けど確かに痛かった。

子どもを見ると子どもは静かにこちらを見ていた。

どうやら残念ながら本物らしい。

「血は出ないよ、少しちくっとするだけ。そしたら16歳の真白海子は消える。」

たらりと汗が頬を伝う。


血は出てない、痛みもない。

だが手に当たった冷たい感覚が嫌なくらいにずっと残っている。

体が一気に冷たくなる。


死ぬ。


感覚的に察した。

この子は何者?

私を殺そうとしてる?

なんで名前を知ってるの?

いろんな考えがぐるぐると頭にで回るが、目の前のナイフを持つ子どもが私の意識を全て持っていく。

これが、恐怖というのだろうか。

自分の呼吸音が嫌に静かな夜の空気に響く。

子どもはそんな私にゆっくりと近づく。


「胸にじゃなきゃダメなの、ナイフ。

魂を、この時間に残しちゃいけないの、この時空から消すの。」

子どもはもう一度ナイフを握り直す。

そして覚悟を決めたように、ナイフを振りかざした。


……いやいやいや、死にたくない!!


私は震える足を思いっきり叩き、走り出す。

前を向いてただただ走る。

夜の学校だとか、暗くて何も見えないだとか気にしている余裕はなかった。

何かに躓いたりもしたが、すぐに立ち上がりただただ遠くへ遠くへと走る。

校舎から出て、校門を一気に抜ける。

大通りまで出た時、同時に私の体力が尽き、やっと足を止める。

膝に手をついて息をする。

呼吸をする。

失った酸素を取り戻すように呼吸を繰り返す。

振り返って後ろを確認すると、子どもの姿は見えなかった。

流石に全速力の高校生には勝てなかったのか、追いかけて来ていなかったのか。

でもとりあえず、逃げ切れたようでよかった。


呼吸が落ち着くと、私はあたりを見渡す。

いつの間にか知らない場所まで来ていたようだ。


歩道によりながら、スマホの地図で場所を確認する。

うわ、家からめっちゃ離れてるじゃん。

歩いて帰るには体力が持つか怪しい。

どうしようかと考えているとき、


「おい」


低い声。

子どもの声ではないことに安心し、私は顔を上げる。

と、目つきの悪い男が私を見下ろしていた。

背は、170くらいだろうか。

身長158の私にはとても高く感じる。

男は私を見下ろして言った。


「ましろかいこ、だよな?」


私は体をビクッとさせる。

また、また名前を呼ばれた。

この男のことも、私は知らない。

なんで今日はこんなに知らない人から名前を呼ばれるのだろうか。

私の個人情報が流出しているのだろうか。

それはそれで怖い。


「おい、聞いてんだけど」

男は少し苛立ったように舌打ちをする。


私はさっきの子どもを思い出す。

あの子の仲間だろうか。

ここでもし“はい”と答えたら……殺される?

嫌な想像が頭をよぎる。


逆に、私は男に質問する。


「あなたは、誰ですか?」


少し、長めの沈黙だった。

男は怒っているのかよくわからない表情を浮かべて黙りこむ。

沈黙に耐えられず、私は思わずごめんなさいやっぱいいですと言いそうになった。


「……雨」

男が空を見る。

私もつられて空を見上げると、冷たい雫が私の頬に落ちる。


一瞬この男の名前かと思った。


私はカバンに折りたたみ傘を入れていたことを思い出し、カバンを確認する。

が、私は制服だけを身につけた自分の姿を見て察する。

置いてきたのだ、学校に全て。

でも傘のために、あの怖い子どもがいるかもしれないところにわざわざ戻るのは無理だ。

というか絶対にいやだ。

これは、雨がひどくならないよう願うしかないな。

がっくりと肩を落とす。


ふと影がかかる。

不思議に思って顔を上げると、男が傘をこちらにさしていた。


時雨しぐれ

「……はい」

「俺の名前」


私は、名前を教えてくれたことに、というよりこの男の“時雨”という名前に驚く。

私は小さく時雨と繰り返し呟いてみる。

少し不揃いに切られた黒髪に、鋭い瞳に苛立ちが映っている、黒い革ジャンを羽織った長身の男には似つかわしくない可愛らしい名前だ。

違和感しかないが、本名なのだろうか。

ちらりと男を見ると、男はこちらをまっすぐみていた。

視線がばちっと合う。


「追われてるんだろ、ガキに」


雨の音が次第に強くなる。


男、時雨は一言そう言った後、すぐに横を向いてしまう。

彼の左側はすでに濡れてしまっていた。

私は申し訳なくなって少し彼に寄る。

彼の横顔は湿った空気に隠れてしまってよく見えなかったが、舌打ちだけはよく聞こえた。




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「ついて来い」

時雨はそういって、歩きはじめた。

ついて行かなかったら雨に濡れるし、まだあの子どもが追ってこないとも限らない。

まぁ、これも何かの縁なのだろうと割り切り

私は時雨に合わせて歩く。



歩き始めて約10分。

一つ、分かったことがある。


おそらくこの男はモテない。


こちらに歩くスピードを合わせる気など毛程もないようにスタスタと歩く時雨。

彼より背が低く、足も短い私は大股早歩きでないと、彼の傘に入ることができない。

だから私は必死に置いていかれないように大股早歩きで歩く。

すでに少し制服が濡れてしまっている。

母に怒られることを思うと、後が怖い。

まぁ、こちらは傘に入れてもらっている身だから、スピードを落とせなんて言うことは言えないし(怒られそうで怖いし)、今は気にせず歩くことに集中する。


時雨は、イライラしているような顔がスタンダードなようで、イライラした表情のままスピードを落とさず歩き続ける。

しかも無言だから他人から見ると怖い。

自覚はないのだろうか。

だが初対面で顔怖いですねなんて話もできないので、私は無言で必死に歩く。

何か話したいと思うが、なかなか話せないものだ。


時雨はとにかく歩くのが速かった。

しかも赤信号を巧みに避けているため止まることがない。

というか、車自体滅多に通らないので、止まる理由もなかった。

止まらずただひたすら歩き続けるもんだから休む暇がない。

話を聞こうにも、それどころではない。

私はついていくのに手一杯なのだ。


少し歩くのにも慣れてきたところで、一つ質問をしてみる。


「あの、貴方も子どもに追われてるんですか?」


時雨は無視。

……どうやら今私と話すつもりはないらしい。

はぁ、とため息をついて、私は時雨に置いていかれないように歩くことにもう一度専念する。



「ここだ」


“蚕”

そう書かれた看板が下げられた家の前で、時雨は立ちどまる。

看板は手作り感満載で、木の板に筆で即席で書いたような雑な文字がどんと大きく書かれている。

それが逆に味が出ていて可愛らしい。

普通の一軒家という感じだが、看板がかかっているから、何かの店だろうか。

店だとしても、もうとっくに閉まっているだろうに。


私がそんなことを考えている間にも、時雨は早々に傘を閉じ、中に入って行く。

私も一人知らないところにいるのは嫌だったので、時雨の後を追うように中に入る。


鍵は、閉め忘れたのだろうか。

ドアノブをひねると、思いのほかすんなりと開き中に入ることができた。

もしかしたら事前に時雨が来ることを分かっていて、すでに鍵が開いていたのかもしれない。


中に入ると、小さな一軒家という外見とは裏腹に、鼠色の無機質な壁の、どこか冷たい印象をもつ部屋が広がる。

中は意外に広いな。

というか物が何もないからそう感じるのかもしれない。

気になるものといえば、部屋の奥の壁にある窓くらいだった。

それでも小さな窓だ。

これといった特徴もない、普通の窓。

唯一のあかりは、窓から差し込む月明かりだけだ。


私は、何かあったらあの窓から逃げようなんてことを心の中でこっそり決めた。



時雨は何も言わずにただポケットに手を突っ込んで壁際にもたれて立つ。

何をしろとも、ここはどこだとも何も言わない。

……本当になぜここに連れてこられたのだろう。

椅子も何もないものだから、私は仕方なく時雨と同じように壁に寄りかかって立つ。


沈黙が場を支配する。

特に何をするでもない、ただただ無言の空間。


そうして10分ぐらいたった頃だろうか。

先に沈黙を破ったのは時雨だった。


「……覚えていないのか?」


私はこてんと首を傾げる。

言葉の意味が理解できなかった。

覚えていないのか?

あまり初対面でする質問ではない。

沈黙を破って出た言葉だから、余計に気になる。

時雨はそんな私を見てふっと笑う顔をした。

だが、すぐにまたイラついたような表情に戻ってしまった。

もしかしたら、笑ったのは気のせいだったかもしれない。


「覚えてないならそれはそれで、能天気なやつだな。警戒心が薄すぎる」

「警戒はしてますよ、一応」

「しらねぇ奴にほいほい付いてくタイプだな」

私は話の意図が分からず、口をぱくぱくさせるだけで話が続かない。


そんな中、次に沈黙を破ったのは私でも時雨でもなかった。


ガチャ

扉が開く。

入ってきたのは、小さな子どもだった。

だけど、“あの子”じゃない。

ピンクのふわっとうねった髪に、くりんとした丸い瞳。

白シャツに黒い短パンを着た、男の子。


あの子どもじゃないことに少し安心するが、さっきの子どものトラウマがまだ残っている私は、少し後ずさる。

「わぁい!」

子どもは部屋に入るなり、跳ねるよう走り出す。

そしてなぜか一直線に私の元に来る。

「ハジマシテだぁ!ハジマシテ!わぁい!」

子どもは私の周りをぐるぐると回る。

きらきらとした瞳がこちらを見ている。

普通に元気な子どもって感じだ。かわいい。

私は少し緊張を解く。


「おねぇさんハジマシテだねー、ハジマシテ!

ハジマシテって嬉しいなぁ、僕大好きだよ」

子どもは私の方を見上げるようにみている。


……なんかこの子に、どこかであったような気がする。

だがすぐにその考えは忘れる。


「……何してんだよ」

時雨が咎めるような目で子どもを見る。

子どもはぷいっとそっぽを向く。

「ハジマシテじゃない人には興味ないの」

小さく時雨が舌打ちをする。

子どもはそんな時雨を無視して、きゃっきゃとまた部屋中を駆け回る。

「ハジマシテのおねぇさん、鬼ごっこしよう!!」

「え」

「おねぇさんが鬼ね!」

私の返事なんて聞く気もなく、子どもは部屋中を駆け回る。

なんて元気なんだ。

私は戸惑いながら、サッと子どもに手を伸ばす。

「タッチ」

子どもの腕を逃げないように強く掴む。

子どもは驚いたように口を開けてこちらをみている。

ふっと口を歪め、笑う。

「おねぇさんおもしろいねぇ」

子どもは手を振り払い、くるくるとその場で回る。

この子は何を考えているんだろう。

わからない。

私の目に少し子どもが不気味に映る。


子どもはやっと動き回るのをやめて、時雨を見る。

「はい、終わり」

「何がだよ」

時雨は苛立ったように頭を掻く。

対照的に子どもは嬉しそうにこちらをみる。

輝かしいくらいに無垢な笑顔は、少し不気味に光ってみえる。

子どもは私を見て、言った。


「ねぇ、ましろかいこさん。

僕たちと一緒に、この世界をぶっ壊さない?」


かわいい顔から放たれた言葉は、あまりにも物騒で、衝撃的で、私は思わずあんぐりと口を開けてしまった。

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