コーヒーと雪の枠
雪が降り始めたのは、年末も間近に迫った寒い朝のことだった。薄い曇り空の下、白い粒が静かに舞い降り、地面を真っ白に染めていく。冬の寒さが心まで冷やすような日、彼女は駅に向かって歩いていた。彼女のコートは薄く、毛糸のマフラーで首を覆ってはいたものの、冷気は容赦なく肌に染み渡ってくる。
彼女は毎朝、早朝のこの時間に駅に向かう。理由は特にない。働いているわけでも、学校に通っているわけでもなかった。ただ、家の中でじっとしているのが耐えられないのだ。冷たい空気を吸い込むことで、自分がここにいるという実感を得ようとしていた。
いつも通り、駅前のカフェでコーヒーを買い、温かなカップを両手で包みながらベンチに座る。このカフェは小さな店で、平日の朝にはあまり客がいない。店内から漏れる温かな光が、雪景色の中で唯一の色彩を放っている。彼女はコーヒーを飲むことで心を温めようとするが、外側からの温もりが内側まで届くことはなかった。
「今日も寒いですね」
隣に座っていた老婦人が話しかけてきた。顔には深い皺が刻まれ、年老いた目にはどこか懐かしさを感じさせる光が宿っていた。
「そうですね」
彼女は短く答えた。老婦人はにっこりと微笑み、話し相手を求めているように見えた。
「雪を見るとね、いつも昔のことを思い出すの。あの頃はね、もっと雪が降っていたものよ。今のように降り続けることは少なくなったわね」
彼女は返す言葉を見つけられず、ただ頷くしかなかった。老婦人は言葉を続けた。
「私の若い頃は、冬になると家族みんなで雪かきをして、その後に温かいお茶を飲むのが習慣だったわ。お茶を飲むとき、みんなでテーブルを囲むの。ねぇ、あなたにはそういう習慣があるかしら」
彼女は少し考えたが、自分にはそのような家族の思い出がないことに気づいた。両親は忙しく、家族で何かをする時間はほとんどなかったし、今は一人暮らしをしている。日々の生活に追われ、特別な習慣を作る余裕もなかった。
「特には……ないですね」
老婦人は少し寂しそうに頷いたが、すぐにまた微笑んだ。
「でもね、そんなに難しく考えなくていいのよ。大切なのは、枠を作ること。生活の中にちょっとした枠を作って、その中で心を休ませる時間を持つこと。それが、お茶を飲むことでも、散歩でも、何でもいいのよ」
彼女はその言葉に少し驚いた。老婦人の言う「枠」という言葉が心に引っかかったのだ。枠は、何かを区切るもの。日常の流れを一度止めて、自分自身を取り戻すための時間を作ること。彼女はそんなことを今まで考えたことがなかった。毎日をただ過ごすことに精一杯で、心の枠を作る余裕なんてなかったのだ。
「確かに、枠を作るって大事かもしれないですね」
「ええ。枠の中でしか見えないものがたくさんあるのよ。例えば、雪が降る日には、その静けさを感じる枠を作るの。コーヒーを飲む時間もそう。そうすれば、どんなに忙しい日常でも、ほんの少しだけ自分に戻れる時間が持てるのよ」
老婦人の言葉は不思議な温かさを持っていた。彼女はふと、自分の中にどれだけの余白があるのだろうかと考えた。きっと、自分の心の中にはたくさんの空白があり、それは埋められずに残されている。そこに枠を作ることができたら、自分がもう少し生きやすくなるのかもしれない。
彼女はカフェの窓から外を見た。雪は相変わらず静かに降り続けている。その雪が、世界を少しだけ白く染める様子が美しくもあり、儚くもあった。彼女は温かいコーヒーをもう一口飲んで、その温もりを少しずつ感じ始めていた。
「今日はこれから、何をするの」
老婦人の問いに、彼女は少し考えてから答えた。
「そうですね……少し散歩でもしようかなって」
「それはいいわね。散歩もいい枠になるものよ。雪を見ながら、ゆっくり歩いて、自分のペースで時間を過ごすの」
老婦人はまた微笑み、立ち上がった。彼女もその姿を見て、自分も立ち上がる。二人はそれぞれの道へと向かって歩き出すが、その短い会話は、彼女の心に新しい何かを残していた。
駅前の喧騒から離れ、彼女はゆっくりと歩き始めた。雪が積もる道を一歩一歩踏みしめるたびに、彼女は自分の心の枠を感じるようになった。何もない空間に、小さな自分だけの時間が流れている。家に戻ったら、温かいお茶を淹れてみよう。そんな小さなことでも、きっと何かが変わるはずだ。
雪が止む頃には、彼女の心の中にも少しの温かさが広がっていた。それは、老婦人との出会いがもたらした、日常の中の小さな奇跡だったのかもしれない。彼女はコーヒーを飲み干し、そっと微笑んで歩き続けた。冬の中に見つけた自分の枠の中で、少しだけ心が軽くなった気がした。
次の更新予定
毎日 12:00 予定は変更される可能性があります
本棚の奥に眠るもの あさのやよい @a3no841
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。本棚の奥に眠るものの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます