2−3 あのときの煙草

「は? おい――」

 煙管から飛び出したは、握手を交わす手を伝って魔術師にまとわりつき、その頬にちゅっと触れた。

 つい笑いがこみあげてきて、シハースィはふはりと息を溢す。

(次から次へと、だね)

 雰囲気はどう見ても口づけのそれである。シハースィの感覚を裏づけるように、魔術師の周りをくるくると飛び回る煙は小さな人のかたちに変化した。輪郭を淡くぼかし、また透けるような煙の布をまとった、小さく可愛らしい女性だ。彼女はそのまま魔術師の肩に腰掛け、ふたたび頬に口づける。

 握手から戻ってきた魔術師の手がそれを振り払おうとするが、実体が煙でできているので無駄である。魔術師は小さく舌打ちをした。

「やめろ」

「あらやだっ、忘れちゃった?」

 煙の女性は弾みをつけて魔術師の肩から腕へと滑り降りる。その勢いのまま飛び降りるのかと思われた瞬間、彼女は両手で魔術師の指を掴んで、彼の真正面に浮かんだ。

「あのときの煙草です――」切なげな表情は一瞬。「ね、思い出した? 吸って? ね、吸って?」

 たゆたう煙はしなをつくり魔術師の指に絡んでいた。磨いた黒檀のような瞳が、細められる。そこに苛立ちの色はなかったが、正面で煙管を咥えている王女に目を向けた彼の視線は思いのほか鋭い。

「……契約している煙草の精霊よ」

 静かな圧に耐えかねたのか、あるいはさすがに申し訳なさが勝ったのか、煙霧の王女は魔術師にべったりな精霊を引き剥がした。

「やあよう、あるじぃ……」

 しかし煙草の精霊はよほど執心のようで、拠りどころである煙管には戻らず、王女の手の中から熱い視線を魔術師へと送り続けている。「あの唇に吸われたい」「主だって好みの顔のくせに」などと言われ続ければ、人間二人は困惑の表情を向かい合わせるほかあるまい。


「王女さん、こんばんは。来てたんだね」

 救いの手か、はたまた悩みの種か。そこでシャーラェが野暮用を終えて戻ってきた。

「シャーラェ。少し月光を分けてもらいに、ね……その、うちの大臣が横暴な真似をしたみたいで、悪かったわ」

「いいよ、気にしないで。どうせシハースィのおもちゃが増えるだけだもん」

 ただの人間に絆されたばかりであるが、一応この月光の竜は最高級の夜を売る女だ。多少の乱暴など本当に気にならないようで、煙霧の王女の謝罪を軽やかに受け取り、それよりもと奥から持ってきた飾り箱を魔術師に手渡した。

「……ずいぶんと頑丈だな」

「それ、月の欠片をいくつ使ったの」

 中には月光の要素が詰まっているのだろう、固く閉じているはずの蓋の隙間から漏れる月の気配に、魔術師はため息をつき、またシハースィも呆れを隠せなかった。

 男娼に入れ込んだ女が身を売り稼いだ金で貢ぐという話などは、この商売をしていればしょっちゅう耳にする。だが、要素を欲しがる男に対して自ら慰め溢れさせた要素を丁寧に梱包して献上する娼婦の話など、聞いたことがない。それも、たった一度抱かれただけの相手にだ。

 そんな男ふたりの呆れなどものともせず、シャーラェはにこりと魔術師に笑みを向ける。

「開けるときは慎重にね。人間なら、たぶん三人くらいは壊せる量になっちゃった」

「出しすぎだろ」

「ふふ、空になったらいつでも来て。予定もなんとかする」

「待って。君、一応この店の看板娘なんだけど」

 聞き捨てならない台詞に思わず口をはさんだシハースィだったが、すぐにそれは失敗だったと知る。

「その看板娘の予定は有能なオーナーが管理してるって噂だよ。ね、シハースィ従兄にいさん?」


 さて、混沌というものは夜に似て、相乗してより深まるものである。

 目的のものを得て帰ろうとした魔術師を、呼びとめる者があった。皆が気づいていたが、誰も触れずに放っていた、先ほどからぎりぎりと煙らしからぬ音を立てている煙草の精霊だ。

「ちょ、ちょっと待ってちょうだい。あたしを吸わずに帰るつもり?」

 なんとも際どい発言に、魔術師はさっと周囲を窺った。高級娼館でもさらに特別な部屋へ向かう廊下へと繋がる談話用の広間。ここを通る客はほとんどいないが、王女という例外に出会ってしまった彼がそのようなことを知るはずもない。

「人型の煙草を吸う趣味はないな」

「葉巻にもなれるわよ!」

 今にも魔術師に襲い掛かりそう――否、抱きつきそうな精霊だが、そこは契約者である王女がしっかりと捕まえているので、ただ喚くだけの無力な煙草である。

「そんないかがわしい箱を使わなくたって、煙草を吸えばいいのだわ。煙は要素を巻き取るのにもってこいなのだから」

「ほう?」

 精霊は自分の欲に一直線というのが一般に言われる性質であるが、意外にも煙草の精霊はそこで強かな一手を繰り出した。人ならざる者の濃密な要素を扱うための手段を、この人間はたしかに求めているはずだ。

 話を聞く姿勢を見せた魔術師に、今度はシャーラェが焦りだす。

「く、咥えられることしかできないくせに。あなたに男を満足させることができる?」

「魔術師に、煙草の要素は必要だもの」

「煙草の要素なんて、そこらの煙草を吸えば済む話」

「昔っから、いっしょなのだもの……」

「こっちはね、彼との交わりを妄想しただけで、とびきりの月光を用意することができるんだよ。いっしょにいなきゃ駄目なんて、不便だね?」

「主、この竜がいじめてくる……理不尽……」

「頑張ってちょうだい。人間との行為に興味はないけれど、この顔だもの。あたくしの作った煙草をぜひに吸ってもらいたいわあ」

 種族は違えど女が三人。なかなかの賑やかさである。

 あまりに不毛な会話は放っておき、ふと、シハースィは別のことが気になった。

 こちらも会話には参加せず、煙霧の王女がふかした煙をじっと見つめている魔術師。

(国に連なるようなしがらみはなさそうだけど)

 人間を試す戯れを前に正しい道を選び取る魔術の知識、夜の魔女や煙霧の王女といった高貴な存在との突然の邂逅にも焦らぬ胆力と礼儀。いっとうの娼婦をも虜にする、ベッドのなかでの作法。どれもこれも、純粋な人間とは思えぬ質だ。

「……君は、どんな教育を受けてきたのかな」

 言ってから、踏み込みすぎたかと思う。シハースィがそのような感情をわずかにでも抱いたこと自体が珍しいが、彼がそのことに気づく前に、魔術師が見せた表情に気をとられた。

「どこにでもいるような両親の――」温かな光を孕んだ瞳は、そのまま冷酷な表情に溶け混ざる。「というには、善意の塊だったがな」

「ふうん」

 シハースィの、月光の竜としての瞳が、人間の魔術師の過去をぼんやりと捉えた。おそらくは、それなりの良家に生まれ、家族の愛情をしっかり受けて育ち。

 そして、それを一瞬にして失ったのだろう。

(よくある話だ、けど)

 この人間のなにがシハースィの興味を引くのか、わからない。

 もう少し観察してみるかと、彼はもう一段階、魔術師への興味を引き上げる。自分に寄せられた三者三様の好意を、喜ぶでもなく、冷たくあしらうでもなく、どこまでも自分の都合に寄せていく魔術師。

「いいか、吸うのは魔術で必要なときだけだ。味の質も整えておけ。それからお前は、自分の価値を下げるような真似をするなよ。濁るような月光は必要ないからな――……で、王女とあろう者が、そこでなにをしている?」

「煙草を吸ってもらうなら、煙管からデザインしなくちゃあね。ねぇ、ダンスは踊れて?」

「脈絡が行方不明になっているぞ」

「あたくしの煙の魔術は、ダンスがいちばんわかりやすいのよ」

「……この国のものは定番曲だけだ。馴染みがあるのはケンウェッタ地方だな。あと、その派手な意匠はやめろ」

 それはまるで躾だと、シハースィは心の中をくつくつと揺らした。

 ふと、従妹の言葉を思い出す。

(女の子になってみたら、僕にもわかるかな)

 月光を望みながら、たやすく月光に晒されはしない男の内を、知るためなら。

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