2−2 煙霧の王女

 ふ、と。煙が香った。

(煙草……か?)

 魔術師に喫煙の習慣はない。しかし魔術を扱う者として、また仕事の一環で、嗅ぐ機会は日常的にある。それゆえに、漂う煙の異質さに気がついた。

 店の玄関方面ではない、魔術師が利用した――たったいま娼婦が戻っていった部屋の廊下とは別の廊下へ繋がる入り口から気配がする。目をやれば、藍色の豪奢なドレスに身を包んだ女が、わずかに湿った、それでもなお、けぶるような銀灰色の髪をなびかせて出てくるところだった。

 手にした煙管から、くねるように煙が揺らぎのぼっている。

「煙霧、ちょうどいいところにきたね」

「あたくしをそう呼ぶのはあなただけよ、シハースィ」

「この国の民じゃない、から」

(かなりの地位を持つ者……それも、月光の竜があえて「この国の」と表現したということは)

 これまでの言動から、シハースィが面倒事を避ける傾向にあることはわかった。ならば、ここで見るからに高貴な血筋を引いていそうな女との会話を始めたことには、なにか意味があるのだろう。


 ソファには座らず、壁際の背高なテーブルに女が肘をついたところで、シハースィは切り出した。

「ん、君のとこの子は、ずいぶんな悪さをしてくれたね」

 軽やかに、しかし決して真実を逃しはしない月光の声色が、ひとりと青みを帯びる。

 たったそれだけで、場は支配された。

 ただの人間にはどうにもできない、強制力を持った圧。緊張感に息が詰まり、身じろぎすることすら憚られる。

 煙霧と呼ばれた女の手もとからのぼる煙だけが、ゆらゆら動いていた。

 いずれにせよ、シャーラェが戻るまでは待つしかない。魔術師はいい機会だと、自分と同じ人間がこの状況をどうやって切り抜けるか観察することにした。それなりに気心の知れたふうであることを考えると言葉遊びの可能性も捨てきれないが、シハースィはあまりそういった駆け引きを好まなさそうだ。

(それにおそらく、これは本気だ)

 魔術師はずいぶん昔に、同じような目をする魔女に出会ったことがあった。当時はそうと気づかなかったが、今ならばわかる。

 自分の要素を損なうものをけっして許しはしない目。

 どこかぼんやりとした表情に、月の黄色が鮮烈に光っている。

「……それは、失礼をしたわね」

「うん。でも、君たちの国には必要な子、でしょ? 行儀が悪いだけだったし、取るのは手だけでいいよ」

 ――指先から手首、肘くらいまでかな。順番にね。

 それはこの国の上層部で使われる隠語かなにかだろうか。魔術師がそう考えたのは一瞬で、しかしすぐに比喩ではないと知れる。

 吸い口を寄せた唇が、艶めいた笑い声を溢した。

「やあだわ、シハースィ。人間は弱いのよ。そんなことしたら痛みで気をおかしくしてしまうわ」

「弱さを、盾にしてる?」

「いいえ。気をおかしくていちばん得なのは、本人だもの。それよりも、最初から肩ごと取り外してしまいましょうよ。そうすれば、悪さをする手がなくてあなたがたは安心、働く頭はあるのだからあたくしも困らない。本人にはしっかり罰になる。どう?」

「うん、でも、元凶はこっちの好きにさせてもらうよ」

「そうしてちょうだい。もともと、あの爺の扱いには困っていたの」

 触れれば切れてしまいそうな視線が、まっすぐに女へと向けられた。

 女は憶すことなく自分の目でそれを受け取った。しかし、小刻みに揺れる煙には彼女の心情が表れている。

 知ってか知らでか、シハースィは薄く笑んだ。

「……わざと仕向けてたとしたら、今ごろこの国はないけど」

「そんなこと、しないわあ」

「ん、だろうね」

 するりとほどける緊張感。

 ふう、と女の口から吐き出された煙には人間らしい安堵が混ざり、また、ささやかな魔術が含まれていた。

 こちらまで漂ってきたそれを、シハースィが指先ですり潰す。

 煙の中で魔術は淡く光って溶けた。

 こうしてなんらかの取り決めがなされ、話がひと区切りついたところで、黙ってなりゆきを見守っていた魔術師はシハースィに向かって口を開いた。

「なぜ、今の会話を俺に聞かせた?」

「気づいたんだ」

 月光の竜は、ふわりと青い髪を揺らし、今度はやわらかく微笑んだ。

 やはり軽やかで、そして、娼館のオーナーらしい艷やかさで。

「君に、夜の遊びかたを教えてあげようと思って」


「……は?」

 意味がわからないと魔術師は眉をひそめたが、シハースィの発言が友好的なものだったからか、思わぬといったふうに女の意識は魔術師へ向いたらしい。

「あら」

 面白がるような笑みの奥は、しかし魔術師の価値を測るように凪いでいる。

「おもちゃじゃあなかったのね?」

「ん、どうかな。たぶん、吸われたい女の子のほうが多いと思うけど」

「おい」

「冗談。だから、煙霧、だめだよ?」

「ざあんねん。いい材料になると思ったのに」

 煙管のふちをなぞる指は艶めかしく、まるでそこへ誘い込むかのように、女は魔術師を見ていた。

 ファッセロッタの街に移り住んでまだ日は浅い。だが、これまでの会話と知っている情報を照らし合わせれば、答えは簡単に導き出せる。

 魔法の要素をわずかに含んだ豊かな銀灰色の髪。落ち着いた色あいながらも人ならざる者たちが好みそうな容姿。この国が、その頂点に立つ人間の一族が、彼ら・・の恩恵を受け魔法的に発展している理由でもある。

 そのうえで、手にした煙管と、歪な愛煙家としての佇まいを見るならば。

(早々に継承権を捨てたという変わり者の第一王女――ああ、これが煙霧の王女か)

 そうとわかればすべきことはひとつ。

 目を逸らさず、おもむろに立ち上がった魔術師は、煙霧の王女の前で辞儀をした。

「挨拶が遅れたな」

「あらあ、丁寧にどうも」

 煙管からはまだ煙が流れ続けている。

 少し、色あいが変わっただろうか。魔術師を探るようなそれを、彼は慇懃な姿勢を崩さず、しかし指先で動かした魔術によって容赦なく排除する。

「器用ねえ」

 一国民でありながら、礼儀を挨拶だけに留めたのは、魔術師は今、シハースィに招待されてこの店に来ているからだ。

 月光の竜、そして黙認とはいえ夜の魔女が認めたこの場において他者に対し必要以上の敬意を示してしまえば、それは夜の国をないがしろにしていることとなる。

「あたくし、できる男は好きよ。仲良くしましょう?」

 だからこそ、魔術師は差し出された手を握り返すしかなく、それどころか、限りなく対等に近い立場で自国の王女と縁を結べることは望外の喜びだと考えた。

 ――煙霧の王女が反対の手で持つ煙管から、よりいっそう濃度を増した煙が飛び出すまでは。

(罠か?)

 そう魔術師が身構えるも、もう遅い。

「きゃぁあ! 久しぶりいぃぃ!」

 煙はもう、魔術師を見つけている。

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