月光は歪み咲う
ナナシマイ
第一章 毒には毒を
1−0 ルファイのレストランにて
揺らしたグラスからは、華やかでありながらひたと冷える夜のような香りがしていた。こっくりと濃い葡萄の色が、室内を駆け巡る星々や、自身の、月光を宿した黄色の瞳を映す。
少しのあいだその小さな夜空を楽しんでから、シハースィは酒を口に含み、それから目を満月のように丸くさせた。
「え、隠れ葡萄の酒……今年の?」
思わず、正面に座る男に訊ねれば、愉快そうに細められた目が向けられる。
夏至の日にした贈り物の礼だと食事に誘ってきたこの人間は、食前酒に対するこちらの反応に満足したようだ。磨いた黒檀のような瞳が、レストランの個室を彩る星明かりの照明に昏く光っていた。
「ああ。今年は出来がいいだろう?」
隠れ葡萄の酒の原料は、葡萄星。つまり正確には葡萄酒とは異なるわけだが、おおよそ味は同じであるために単なる産地の違いとして一括りにされることが多い。
葡萄星はよく酒になりたがり、またよく隠れたがる。
自ら酒になったことを謎の情報網を使って全世界へ声高に発表するものの、その後、樽ごといっせいに身を潜めるためなかなか出回らない。一般流通は樽が隠れることに飽きた五年後くらいから始まるが、葡萄酒と違い熟成されるわけではなく、品質は著しく落ちる。
希少性と品質どちらの観点で見ても、隠れ葡萄の酒は初年ものに価値があるのだ。
「よく入荷できたね。このレストランはまた階級を上げた、かな」
「さあな」
(……あ、この子が融通したのか)
シハースィが、魔術師である目の前の男とここルファイのレストランの関係性を思い出していると、個室の扉がノックされ、ふたりにとって顔なじみの給仕が前菜を運んできた。
「夜の魔術師さま。このあとのお酒はどうなさいますか」
「隠れ葡萄はこのままでいい。主食の前に地平の蔵のものを出してもらおうか」
「かしこまりました」
給仕が去り、シハースィはもう一度、グラスに口をつけた。
このような場では、料理の順番や組み合わせにも魔術的な意味が宿る。ときに食前酒は食中酒を兼ね、思わぬ祝福や呪いを重ねられることもあった。
その緊張感の味わいもまた、この友人と食事をともにする醍醐味だ。
「うん、たしかに、すごくいい。でもちょっと、星が頑張りすぎてるような」
葡萄星の酒は、かなりの食通である魔術師が認めるだけあり、品質や味の方向性は申し分ない。しかし、本来はもっと遊び心のあるはずのきらめくような風味が、いささか主張強く感じられる。
は、と呆れとも嘲りともとれる息がこぼされた。
「誰のせいだよ」
「……そういうこと? うん、それなら仕方ないね。いくら夏といっても、空は陽光だけのものじゃない」
ぼんやりとした黄色の瞳がわずかに酷薄をかすめたことに気づいたのか、夜の魔術師は口もとだけで薄く笑った。
シハースィは月光の竜だ。今は人のかたちをとっているが、本来は、その髪よりもずっと深く澄んだ青色の鱗と巨体を持つ。そしてその瞳は、夜を照らす月の光。
二年連続で夏を独占しようとした陽光の暴挙を受け、星々のあいだで昼に連なる者を排除するうごきがあった。その扇動者であるシハースィたち月光の竜の一族が陽光をかなり削ったため、むしろ今は雨が続いているほど。
とにかく、そのときの星の気迫が、酒に混じったのだろう。
「葡萄星は星のなかでも苛烈さの方向性がおかしいからな。まあ、たまにはこのような年があっても面白い」
グラスを傾ける魔術師。夜を慈しむ彼の表情はどこかやわらかく、月光の竜と語らう時間を、楽しんでいるように見える。
食前酒に、星寄りに癖のある酒を選ぶような男だ。
そこでシハースィは、自分が、夜の魔術師が用意した酒をなんの躊躇いもなく口にしていたことに気づいた。
(いつから、かな)
魔術師が羽織るマントの、留め具に使われている飾り紐。その由来も、効果も知りながら、シハースィはもう、戯れ以外の悪意がこちらへ向くことはないと信じていた。
彼と出会ったのは、五年ほど前だ。長い寿命を持つ竜であるシハースィにとっては、たった五年。
それでも、葡萄星のように著しく味を悪くする者もいれば、この人間のように恐ろしいほど深みを増す者もいる。
五年というのは、なにかが変化するのにじゅうぶんな時間なのだ。
「うん、愉快だ」
「……なんの話だよ」
「五年って、もっと短かったはずなのに」
「葡萄星といっしょにするなよ」
「どっちかといえば、葡萄酒のほうかな」
「は……葡萄酒、か」
そこで魔術師は、わずかに口もとを綻ばせた。手もとのグラスの、葡萄酒とよく似た色の酒を見つめる瞳。彼がその向こうになにを思い浮かべているのか、シハースィはよく知っている。
根本にあるものはそのままに、深みを増し、かたちを変えて。
たった五年。シハースィは、彼自身の
――それは、夜の魔術師が、ただ一介の魔術師にすぎなかったころのこと。
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