北のカムイ

あじふらい

北のカムイ


銀色の世界で息を吸った。

乾いた冷たい空気が一気に喉に流れ込み、盛大にむせる。

なるほど、東京とは空気が違う。

新千歳空港に降り立ってから、ここ大通公園に出るまでまともに屋外を歩いていないことに気が付く。

いや、考えてみれば品川の京急のホームからずっとだ。

上司に退職届を叩きつけ、その足で羽田空港へ向かった。

面倒を見ていた後輩が息を切らしながら買ってきてくれた小さな花束を握りしめている。

スーツとペラペラのコートだけではさすがにまずい、と思い札幌の地下道を歩いている途中で目に入ったモンベルで買ったダウンジャケットとネックウォーマーが、とてつもなく暑い。


イクラかけ放題のイクラ丼が食べたいからというだけの理由で北海道に向かったのだが、時期が悪かった。

大通公園では今、雪まつりが開催されている。

飛び込みでホテルもとれず、大雪像の前で途方に暮れていた。

『制作:陸上自衛隊』と書かれた立派で精巧などこかの国の巨大な城を見上げながら愚痴をこぼす。


「自衛隊…国守る前に俺を助けてくれ…」


お門違いな愚痴であることは理解している。

しかし、地上に出てからこの大雪像にたどり着くまでに何度転倒しただろうか。

狂気のアイスバーンと機能性ゼロの革靴はすこぶる相性が悪い。

どこかで靴を購入しようにも、地下道の入口まであと幾度、無様に転がればいいのだろうか。

踏ん張っても結局転倒するのだが、出来る限り踏ん張ってしまうのが人の性、明日は間違いなく筋肉痛だ。

挙句の果て、明日を迎えるための宿がない。

目に入ったもの全てに文句をつけたくなるお年頃の無計画な無職なのである。


生足にピンヒールの若い女の子が、電話をしながら目の前を通り過ぎた。

なるほど、北海道は試される大地というが、女子供に至るまで物心が付く前から訓練された精強なる市民しかいないのか。

凶悪な凍結路面をランウェイに変える見事な歩きっぷりを見て、試しに自分ももう一度歩いてみるものの、すぐにバランスを崩しそうになって『自衛隊』の文字を拝むように白い柵の前にしゃがみ込んだ。

もうやけくそで、そのままその三文字に祈りを捧げる。

この地では神様や仏様よりご利益がある気がした。

いや、もちろん神様や仏様でも、自衛隊でも警察でも消防でもなんでもいいのだが、とりあえず自分にはどうにもできないこの状況を誰かになんとかしてもらいたかった。


「お兄さん、大丈夫かい?」


日焼けをしたガタイの良い男が白い歯を見せながら近付いて来た。

自分より十歳以上は歳上だろうか。

スーツにダウンジャケットに革靴という、自分となんら変わらない格好をしているはずなのに、狂気のアイスバーンをものともせずに歩いてくる。


「いえ、靴が滑って…いや…宿無し…?」


突然声をかけられてしどろもどろになる。

欲張ってふたつの願をかけていたので、せっかく心配をしてもらったのによくわからない回答になってしまった。


「あー!お兄さん内地の人?駄目だよ冬靴にしないと!あずましくないべ!」

「………?靴が違うんですか?」

「そうそう!ほら、スタッドレスタイヤみたいになってるっしょ!」


人懐こい笑顔と恐るべき体幹で男が靴底を見せる。

リーガルと自慢げに書かれた靴底は、確かにゴムでできていてたくさんの溝があった。

さすが北海道、スノーシューズのようないかにもという見た目の靴でなくとも、ソールは雪道用になっているらしい。


「それとね、この時期の宿探しはコツがあるんだよ!どうだい、教えてあげるしとりあえずお茶飲めるところまで行かないかい?」


確かに快適なカフェで一息つくのも悪くない。

目の前の男はちょっとまってて、と少し離れてどこかに電話をする。

男はその手の人間には見えないが、怪しい事務所に連れて行かれて身ぐるみを剥がされるのではないかという妄想が急激に頭の中で膨らむ。

だがもう手遅れだ、自分は文字通り生まれたての子鹿のような足取りで単独であるし、自然界ならば死が確定した状況なのだ。

大人しくしゃがんだまま待っていると、電話を終えた男が戻って来る。


「待たせたね、悪いね」

「いえ…あの…」


立ち上がろうとした瞬間、重心が後ろにずれ、そのまま盛大に転倒した。


「ちょっとお兄さん!変なとこ打ってないかい!…いや、いい受け身とってたね」


無意識のうちに受け身をとっていたらしい。

それでも尻は痛むが、氷が溶けて体が濡れる前になんとか立ち上がる。

義務教育で柔道があったのはもしかしたら全国民を雪道に適応させるためだったのかもしれない、とくだらないことを考えながら、ひらひら手を振って大丈夫だと伝える。


危険な類の人間には見えないので、男に頼らせてもらうことにした。

むしろ雪像の前から一歩も動けなくなったこの状況が解決されるなら、常識的な額であればいくらか謝礼を払ってもいいくらいだ。

男に指示されたところをゆっくりと歩くと、滑りながらもなんとか歩くことができた。

どうやら完全に氷になってしまったところを避け、雪がたまっている所に足を置くと多少はマシなようだ。

へっぴり腰ながらもなんとか歩けるようになった事に上機嫌になり、聞かれるがままに身の上を話す。


「へえ!二十九歳なの!大丈夫大丈夫!まだまだこれからっしょ〜!」


男は時折白い歯をのぞかせる。

見ず知らずの人間なのに何故か話が進んでしまう。

相槌や励ましがとても心地よく、こちらの心を開かせるのがうまいのだ。

自分もこの男のように出来ていたらいい営業マンになれていたのかもしれない。

いや、辞めた会社には技術職を志望して入ったのだから、さっさと見切りをつければよかったのだろうか。


なんとか歩けるようになって調子に乗り転倒しそうになったところを何度支えられただろうか、どうやら目的地についたらしい。

カフェもなければ、ファミレスもない。

怪しい事務所がありそうな雰囲気でもない、ガラス窓がきらきらと光るオフィスビルのようなところにたどり着いた。


「着いたっけ中入って!靴底が乾くまで滑るから油断しないでね」


男はおどけて、滑るような仕草をした。

自動ドアに、小さな花束とビジネスバッグを持った疲れた顔をした男と、ゴルフが趣味ですと言わんばかりガタイのいい日焼けをした笑顔の男が映り込んでいる。

自動ドアに迎え入れられるままに中へ入ると、男が先を歩き、エレベーターにたどり着く。

男が慣れた手付きで9と書かれたボタンを押すと、エレベーターが上昇した。

エレベーターのドアが開くと、そこには白い壁の通路が待ち受けていた。

男の後をついて歩く。


「さっ!ここここ!お茶淹れるから!したっけ宿探しのコツも教えるから!」


男の声が白い壁に反響する。

事務所の入り口と思しきドアに書かれた文字をゆっくりと読む。


「自衛隊…?大通…募集…案内所…??」


ピンクやら赤やらのポップな文字で書かれた案内所でないことに安堵するべきだろうか。

いや、ここも無料の案内所なのだろうが。


「お兄さん、自衛隊助けてくれとか言いながら雪像拝んでたしょや〜。なして?ってなったけど、祈られたっけ、声かけるしかないっしょ!」


気の抜ける語尾で話しながら男がはにかむ。

神様や仏様は見ていなかったかもしれないが、自衛隊は見ていた。

消防や警察がかけつける事態になる前に、屋根のあるところまでたどり着けたのだ。

しかも自衛隊所有の事務所ならば、ぼったくり三十万ぽっきりの飲み放題プランや身の危険もない。

事務所の奥を見ると顔の厳つい男もいるが、身元が保証されていて安全で国を守れるマッチョだと思うと頼もしい。

やはりあの雪像にご利益はあったのだろうか。

もしくは、自衛隊を覗く時、自衛隊もまたこちらを覗いているのかもしれない。

男が名刺を差し出してきたので、自分も胸ポケットの名刺入れを取り出した。

そこで我に返る。


「無職でした…」


名刺があればこの場所柄、前職ですと言って差し出してもよかったのだろうが、あいにく会社から支給されたものは上司に退職届を叩きつけた後に全てデスクに置いてきていた。

空振りした名刺入れをテーブルの上に置き、両手で名刺を受け取る。


「ま、しばらくは羽伸ばしてね、次の仕事探すときにでも僕のこと思い出してよ。話色々聞いたっけ、君になら色々紹介できる職種あるべや〜、なんて思ってね!ま、そんな話は置いといて」

「…置いとくんですか!?」

「おっ!もう興味あるかい?したってさ、今日の宿探さないとだめっしょ!」


男は急須からお茶を入れながら笑った。

自分には自社製品への愛と、こういう人懐っこさが足りていなかった。

それに、押して押して押すだけでは相手も興味を失うのだと、今さら気が付いたのであった。

お茶をすすり、男の指示どおりにスマートフォンで検索すると郊外や市外に何件か空きのある宿が見つかった。

土地勘がないのでJRの駅の近くや中心街ばかり探していたが、観光客が考えることは皆同じらしく、そういう所を避けるとめぼしい情報を得ることができた。

旅人らしく宿の情報を吟味する。

男もテーブルの上にあるスマートフォンを覗き込んでいる。

彼が指さしたスキー場近くの温泉付きの旅館に電話をすると、人の良さそうな声色の女性が宿泊可能だと言うので、そこに決めた。

親切なことに最寄り駅まで迎えの車も出してくれるという。


「これで安心だ!いや〜そこね、夕食が…いや、楽しみにすればいいな!」


男がニヤリと笑う。

そんな言われ方をしたら、今知りたくなる。

教えてくださいよ、と懇願すると男は自慢げに笑いながら言った。


「イクラ、かけ放題!」


なんと、身の上話ついでに話した旅の目的まで覚えていてくれたらしい。

この男は間違いなく神様だ。

見た目だけで言えば営業とゴルフの化身なのだが、きっと試される大地の面倒見の良い神様に違いない。

礼を言うと彼は目を細めた。


「それじゃ、もう行くかい?」

「そうですね、お世話になりました。ご迷惑おかけして申し訳ないです」

「なんもなんも〜。地下道までひとりで歩けるのかい?」

「駅までタクシーでも呼びますよ」

「したってせっかくの札幌、時間もあるし観光に来たんだったら雪まつり見ないのはもったいないしょ〜!」

「そう思って見に行ったらあのザマですよ…そうだ、手袋も買いたいしスーツしか持ってないし、タクシーでまたモンベルにでも行きますよ、それからまた戻ってきます、全身着替えて!」

「今度は雪像の前で祈るんでないよ?何か困ったら遠慮なく電話でもメールでもしてくれていいからね」


男はカラカラと笑った。

タクシーが到着するまで事務所で待たせてくれるということで、二杯目のお茶を飲みながら自衛隊の話を聞こうとした。


「自衛隊の話もいいけど、今お兄さんが聞くべきはおすすめの観光地とごはん屋さん!」

「えー!営業しないんですか!」

「僕は生まれも育ちも北海道だから、北海道の広報もするしょや〜。北海道のこと気に入ってくれて、北海道に住みたくなったっけ、陸上自衛隊入ってくれればいいから!パンフレットだけ渡しとくわ!」


いつの間にか男の所属の陸上自衛隊に限定されていた。

でもこんな面倒見のいい男がいる組織なのだ、それも悪くないかもしれない。

男が持ってきたやたらと分厚いパンフレットを何冊か受け取った。

雑談をしながら、綺麗で丁寧な字でおすすめの店や場所をサラサラと書きつけてくれている。

後輩に貰った花束を捨てるわけにもいかず持て余していることを話したら、うちの奥さんが最後まで面倒を見るから、と受け取ってくれた。

タクシー会社から着信が入る。

自分以外にも凶悪な狂気のアイスバーンに苦しめられている観光客がやはりたくさんいるのだろうか、電話をしてから到着までに意外と時間がかかったが、長くは感じなかった。

男に何度も何度も礼を言いながら立ち上がった。

入り口の扉を開けてもらい事務所の外に出る。

廊下に出て振り返り、もう一度礼を言うと男は小さな花束を振った。


「したっけ〜!気をつけるんだよ〜!」


明日以降の予定はまだ決まっていない。

せっかくスキー場近くの宿なのだから、久しぶりにスキーでもしてみようか。

貯金はある、時間もある、男が勧めてくれた場所は全て巡ろう。




後日、男に道中の写真と礼のメッセージを送ったところ、出窓で可愛らしい花瓶におさまった花束の写真が送られてきた。

過酷な旅をして若干萎れかけていた花束は、彼の奥様の趣味であろう繊細なレースの飾り物の中でいきいきとしている。

無計画極まりない北海道旅行だったが、男のおかげでとても良いものになった。

最初に教えてもらった温泉旅館は惚れ込んで連泊をしたし、勧めてもらったごはん屋さんはどこもびっくりするほど美味しかった。


北海道には、アイヌに伝わる動物や道具に姿を変えた神様がいるという。

アイヌに人の姿をとる神様がいるのかはわからないが、自衛官の姿をした神様は確かに、いた。

自衛隊の分厚いパンフレットを機上で読みながらそう思った。





※この物語はフィクションであり、実際の人物・団体・札幌地方協力本部とは一切関係ありません。


※冬季の北海道では早め早めの宿の確保を!

私は死にかけたことがあります。

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