第2話 灯りをともす夜
日向は、コーヒーのカップを握りしめたまま、カウンター越しに座る葵を見つめていた。葵は言葉を急がず、ただ穏やかに日向の視線を受け止めている。まるで、彼の心の中にある迷いや不安をすでに知っているかのようだった。店内の静けさが、二人の間に漂う緊張感をほぐしていく。
「何か、悩んでいるのね。」
葵の声はとても柔らかく、日向の心にそっと触れるようだった。日向は少し戸惑いながらも、その問いかけに対して言葉を探す。商店街のこと、自分の夢、父との関係。それらはいつも頭の中で渦巻いているのに、いざ口に出すとなると、どう言えばいいのか分からなくなってしまう。
「うまく言えないんです。でも……」
言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた日向の目に、葵は静かに頷く。彼女は何も言わず、ただ彼の話を待っている。その姿勢に励まされるように、日向は少しずつ自分の気持ちを紡ぎ出していった。
「商店街が好きなんです。でも、昔のような賑やかさが失われているのが、すごく寂しくて……。自分に何かできることがあればって、ずっと考えているんです。でも、実際には何をしたらいいのか、どうすればいいのかがわからなくて。」
葵はその言葉を一つひとつ受け止め、静かに頷く。日向の心の奥底にある思いが、少しずつ形を帯びていくのがわかるようだった。彼の中にある情熱と葛藤。そのすべてが、彼を迷わせていたのだ。
「あなたが商店街を愛していること、十分に伝わってくるわ。」
葵は優しく微笑みながら言った。その言葉は日向の心に温かく響き、自分の思いを肯定してもらえた気がして、ほっとした。
「でも、無理に何かをしようとする必要はないのよ。まずは自分の気持ちに正直に向き合ってみること。それが、一番大事なことだと思うの。」
葵の言葉は、日向の心に深く染み渡った。自分の気持ちに正直に向き合う――それは、簡単なようでいて、実はとても難しいことだ。日向はもう一度カップに口をつけ、コーヒーの温かさを味わった。その苦味と香りが、彼の心の奥深くに響き、自分自身と向き合うための静かな力を与えてくれるようだった。
「商店街が好きで、何かをしたいと思うなら、きっとできることが見つかるわ。」
葵はそう言うと、日向の目をまっすぐに見つめた。その瞳の奥には、まるで彼の未来を見通しているかのような確信があった。日向はその視線に引き込まれ、自分の中にあった迷いや不安が、少しずつ霧散していくのを感じた。
「焦らなくてもいいの。あなたが本当にやりたいことを、心の声に耳を傾けて見つけてみて。」
葵の言葉に導かれるように、日向の心に一筋の光が差し込んだ気がした。自分が商店街に対して抱いていた気持ち、その根底にあるものを、彼はようやく感じ取り始めていた。
コーヒーを飲み干した日向は、カップをカウンターに戻しながら深く息をついた。葵の言葉が、自分の心の中でずっと探し続けていたものに静かに気づかせてくれたのだ。何をすべきか、どうすればいいのか、その答えはまだ見つかっていない。しかし、今はそれでいい。自分の心に正直に向き合うこと。それが、最初の一歩なのだと。
葵は微笑みながら、そっとカウンターの向こうで立ち上がった。そして、「またいつでもおいで」と優しく告げた。その言葉は、日向にとって新たな旅立ちの合図のように感じられた。
日向は店を出ると、銀天街の夜空を見上げた。星が瞬くその空は、彼の心に灯った小さな光を映しているようだった。
日向は、店を出た後も、葵の言葉が心の中で響き続けていた。商店街の夜は静かで、昼間の喧騒とはまた違う、落ち着いた雰囲気があった。商店街の街灯が薄明かりを灯し、石畳を照らしている。その光の中を歩きながら、日向は自分の心の中にある変化を感じ取っていた。
葵の言葉、そしてあの一杯のコーヒーが、彼の中に新たな灯りをともしていた。それは、商店街をどうにかしたいという焦りや不安ではなく、自分の中にある小さな希望のようなものだった。何かが変わる瞬間は、いつもふとしたきっかけから始まるのだと、彼は初めて気づいた。
商店街を歩く足取りは、行きとは違いどこか軽やかだった。古本屋へ戻る途中、店先で作業をしていた八百屋の佐々木さんが手を止めて日向に声をかけた。
「日向君、どうしたんだい?なんだか、表情が明るくなったみたいだね。」
佐々木さんの言葉に、日向は一瞬驚いた。自分では意識していなかったが、顔つきが変わったのだろう。日向は軽く笑って答えた。
「少しだけ、自分の気持ちに正直になれた気がして。」
佐々木さんは、日向の言葉の意味を深く聞こうとはせず、ただ彼の肩を軽く叩いた。それだけで、日向はまた一歩前に進める気がした。
古本屋の前に立ち、日向はガラス越しに店内を見つめた。父がレジカウンターで本の整理をしている姿が見える。彼は扉に手をかけ、一度深呼吸をした。これまでの自分なら、言葉にできなかった思い。でも、今なら少しだけ素直に伝えられる気がした。
店に入ると、父が顔を上げて日向を見た。彼の顔には、少しだけ驚きの表情が浮かんだが、すぐにいつもの穏やかな笑みに変わった。
「どうしたんだ、日向。なんだか、いい顔をしているな。」
その言葉に、日向は小さく頷き、カウンターの前に立った。そして、自分の中にあった思いをゆっくりと口にした。
「父さん、俺、商店街のために何かしたいんだ。今はまだ何をすればいいのか、はっきりとはわからないけど。でも、自分なりにできることを見つけたい。商店街を、もっとたくさんの人に知ってもらいたいし、またここが賑やかになるようにしたいんだ。」
父はじっと日向の目を見つめていた。その視線の中には、息子の変化をしっかりと感じ取っている様子があった。しばらくの沈黙の後、父はゆっくりと口を開いた。
「お前がそう思うなら、やってみればいい。商店街は、昔から皆の力で支えられてきた。お前が新しい風を吹かせるなら、それもまた一つのやり方だ。」
日向はその言葉を聞いて、胸の奥に温かなものが広がるのを感じた。葵の言葉、父の言葉、そして自分自身の気持ち。それらが一つになり、彼の心に小さな灯りがともったのだ。
「ありがとう、父さん。」
そう言って日向は微笑んだ。父もまた、静かに頷き、手元の本に視線を戻した。店内には再び静けさが訪れたが、その空間は確かに何かが変わり始めていた。
日向は、もう一度商店街の通りに目を向けた。薄暗い夜空の下で、商店街の街灯が静かに光を放っている。その光の一つひとつが、彼の中にある希望と重なって見えた。
「灯りの向こう側」で感じた温かさは、彼の中で新たな行動を生み出す力となったのだ。これから何をすべきか、その答えはまだ見つかっていない。しかし、彼の中にはもう、前を向いて歩いていくための小さな灯りがあった。
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