【完結】灯りの向こう側 

湊 マチ

第1話 日向書店の雲り空

日向は、商店街の一角にある古本屋「日向書店」で、今日も父の手伝いをしていた。店内には古い書棚が並び、色あせた背表紙がところ狭しと並んでいる。陽の光が窓から差し込み、埃が光の筋の中で静かに舞っている。店内に流れる時間は、外の世界とは違う、ゆっくりとしたものだった。


父は黙々と古書の手入れをしている。その姿を見つめながら、日向は心の奥にある迷いを抑えられずにいた。銀天街には昔ながらの温かさがあり、彼もこの商店街を愛している。しかし、時代の流れと共に活気を失いつつある現状に、彼は焦りを感じていた。


「商店街をもっと盛り上げたい…でも、どうすればいいんだろう?」そんな思いが日向の胸を去来する。父に相談しようと何度も思ったが、言葉がうまく出てこない。父の背中には、これまで家業を守り続けてきた歴史が刻まれている。それを見つめるたびに、日向は自分のやりたいことと家族への責任の狭間で揺れるのだった。


「どうだ、日向。こっちの本を店先に出してみるか?」

父の声が、日向の思考を現実に引き戻した。父は古びた表紙の一冊を手に持ち、微笑んでいる。日向は無意識に頷いたが、その表情にはどこか曇りがあった。


「大丈夫か、日向?」

父の問いかけに、日向は曖昧な笑顔を返す。「うん、大丈夫。ただ…」と言いかけて言葉を飲み込む。何かを伝えたかったが、それが何なのか自分でもはっきりしていなかった。


店の外では、商店街の人々が忙しなく行き交っている。どこか寂れた雰囲気が漂う通りを見つめながら、日向は自分の中で渦巻く思いに気づいていた。商店街を変えたい。けれど、そのために自分は何をすべきなのか。その答えは、まだ見つかっていない。


「いつか、何かできるのかな…」

日向のその小さなつぶやきは、古本屋の静けさに溶けていった。


夕暮れ時の栄町銀天街には、どこか懐かしさを感じさせる空気が漂っていた。アーケードの屋根越しに差し込む夕陽が、商店街の石畳を柔らかなオレンジ色に染める。日向は古本屋の前に立ち、静かにその光景を見つめていた。周囲には、閉まりかけた店や、店先で商品を片付ける商店街の人々がいる。かつての賑やかな銀天街の面影は、今は薄れ、少し物悲しささえ感じる。


「お疲れ様、日向君。」

声をかけたのは、近くの八百屋の店主、佐々木さんだった。日に焼けた彼の顔には、微かな笑みが浮かんでいる。しかし、その表情の奥には、どこか疲れと不安の影が見え隠れしていた。日向もまた、無意識に微笑み返す。


「今日も一日、なんとか終わったねぇ。」

佐々木さんの言葉には、日々の生活を支えるために商店街で奮闘している彼の思いが滲んでいた。日向はその言葉に頷くも、自分の胸の中にあるもどかしさを振り払うことができないでいた。


「また明日も、頑張りましょう。」

佐々木さんが去った後、日向はゆっくりと商店街の通りを歩き始めた。かつては子どもたちの声や、買い物客で溢れていたこの通りも、今は閑散としている。シャッターの降りた店舗が並ぶ様子に、日向の心は重くなる。


商店街の古い時計が時を刻む音が、静けさの中で響いている。日向の足は自然と通りを進み、ふと立ち止まった。彼の視線の先には、見慣れない光景があった。商店街の一角に、一軒の小さな喫茶店があり、薄暗くなり始めた空に反して、その店だけが温かな灯りに包まれていたのだ。


「ここ、こんな店あったかな……?」

日向は首をかしげた。この商店街で育った彼が見覚えのない店というだけで、何か特別なものを感じさせる。窓から漏れる柔らかな光と、そこから漂ってくるコーヒーの香りに誘われるように、日向はその喫茶店へと足を向けた。


店のドアには、小さな看板がかかっていた。「灯りの向こう側」と書かれたその看板に、日向は一瞬立ち止まる。何か心の奥に響くものを感じながら、彼はゆっくりとドアに手をかけた。


カランコロン、とドアベルが優しく鳴る。その音と共に、日向の心に一筋の光が差し込んだようだった。


日向が「灯りの向こう側」と書かれた看板を見上げ、静かにドアを開けると、カランコロン、と柔らかな音が店内に響いた。喫茶店の中は、外の薄暗い夕暮れとは対照的に、温かみのある光で満たされていた。そこには、どこか懐かしさを感じさせる木製の家具と、古びたアールデコ風のランプが、優しい光を放っている。カウンターの奥には、コーヒーミルやティーポットが整然と並び、静けさの中にほのかなコーヒーの香りが漂っていた。


カウンターの向こう側に立っていたのは、一人の女性だった。店の雰囲気と同じように落ち着いた佇まいの彼女は、日向が入ってきたのに気づくと、ふんわりと微笑んだ。彼女の名前は葵。この喫茶店の店主だった。


「いらっしゃいませ。」

葵の声は、まるで優しい風のように日向の耳に届く。どこか緊張した面持ちでカウンターに座った日向に、彼女はゆっくりと近づき、その顔をじっと見つめた。日向はその視線に一瞬たじろいだが、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。


「今日は、どんな気分ですか?」

葵の問いかけは、メニューを尋ねるものではなく、日向の心そのものを聞くような響きがあった。日向はしばらく何も答えられずにいた。商店街のこと、父のこと、自分の夢――頭の中で渦巻く思いが一瞬にして蘇る。しかし、言葉にするのは難しかった。ただ、何かに迷っていることは確かだった。


「なんとなく、少し疲れていて……」

それだけをようやく口にすると、葵は優しく頷き、黙ってコーヒーミルを手に取った。彼女の手つきは無駄がなく、豆を挽くリズミカルな音が店内に心地よく響いた。日向はその音に耳を傾けながら、何かが自分の中で少しずつ解けていくのを感じた。


葵はお湯を沸かし、ドリッパーにコーヒー粉をセットし、ゆっくりとお湯を注ぎ始めた。湯気がふわりと立ち上り、店内に一層濃厚なコーヒーの香りが広がる。その香りは、日向の心にあるもやもやを溶かし、どこか遠くに置き忘れた感情を呼び起こすようだった。


やがて、葵はカウンターにコーヒーカップをそっと置いた。その動作一つひとつが、日向の心をほぐしていく。日向はカップに手を伸ばし、そっと口元に運んだ。熱すぎず、冷めすぎず、口の中に広がる優しい苦味と香りに、彼は思わず目を閉じた。


「どうですか?」

葵の声が耳元で響く。日向はゆっくりと目を開け、カップを置きながら微かに頷いた。口から出た言葉は少なかったが、葵にはそれで十分だったようだ。彼女は日向の表情を見つめ、少し微笑んで続けた。


「何かに迷っている時は、心の声を聞くのが一番ですよ。このコーヒーを飲みながら、ゆっくり自分と向き合ってみてください。」

日向はその言葉に耳を傾け、カップを見つめた。コーヒーの中には、自分自身でも気づいていなかった思いが映し出されているようだった。商店街の未来、自分の夢、そして家業への思い――すべてが混ざり合い、少しずつ形を成していく。


「灯りの向こう側」という店名の意味が、日向には少しだけわかった気がした。外の曇り空とは対照的に、ここには彼の心を照らす小さな灯りがともっている。その灯りに導かれ、日向の中に一つの小さな答えが生まれ始めていた。

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