たったの五文字 〜言わせたがりの先輩に、愛してるって言わせてみせます!〜

白詰草

1.好きな人

……ずっと、ずっと。────その、たったの五文字が。




『……錬金薬とは、主に素材と魔力を融合させる錬金術によって精製される、人体や精神に影響を及ぼす薬品の総称である。近代史の第一人者はかのソルシエル家の……』


 そこまで目で辿ったところで、視界の端をオレンジが掠めて、すっかり本に集中していた私ははっと顔を上げた。

 滲んだ陽の光が差し込む教室の窓から外へと目を向ければ、既に木々が地面に長い影を落としている。まだいつもの時間まで余裕があったから、少し借りた本を読み返そうと思っていただけだったのに、いつの間にこんなに経ってしまっていたんだろう。当然、もう教室に残っているのなんて私だけだ。

 慌てて本を閉じて立ち上がれば肩まで伸びた癖のない金髪が揺れて、その一房に紐で結いつけた、雫型の魔石の髪飾りが耳の上で軽やかな音を立てた。


 机に散らばっている教科書や筆記具を、両手でかき集めるようにして鞄に詰める。入りきらない重たくて分厚い錬金術の本には、自分でついてきてもらうことにした。

 指先を表紙に落として、なけなしの魔力をそこに込めれば、元々学園の所有物として魔法が付与されているその本は、幾何学模様の陣を光らせながらふわりと浮かび上がる。ページを広げて、ゆっくりと羽ばたかせながらついてくるのを横目で確認しつつ、私はローブの裾を翻して、逸る気持ちのまま足早に教室を出た。


 別に、厳密に時間を取り決めているわけではないし、そもそも彼はそういうことに煩い性質でもないから、少しくらい遅れたところで笑って許してくれるのだろうけれど。それでもやっぱり待たせるのは気が引けたし───あとは、私が早く彼に会いたいだけ。

 その分厚い身体が重いのか、はたまた私の貧相な魔力が悪いのか、心なしかふらついている本を急かしていれば、やがて授業で使う特別な設備の整った教室などが集まった、別棟に繋がる渡り廊下が見えてくる。


 廊下の天井付近にふわふわと浮かび上がっている魔石ランタンは、もう陽が落ちるからか既に柔らかな明かりを灯していた。

 ここ、国内でも有数の名門校であるシクザール魔法学園はそのブランドを守るためか、設備やデザインも常に最新のものを取り入れるように気を配っている。その中でなんとなくレトロな雰囲気を纏っているせいか、魔石ランタンが灯る瞬間に廊下に長居すると自分の影が逃げ出して、運命の人に出会えるだの異世界や平行世界に迷い込むだの、はたまた死んでしまうだのといった怪談じみた話が一時期流行っていたのを思い出した。


 ちら、と重い身体を羽ばたかせて着いてくる分厚い本のタイトルに目を向ける。「錬金薬の近代史〜魔力量における効能の差異と研究の推移〜」という、彼が見たらうえ、と渋い顔をしそうなそれに思わず苦笑を浮かべた。

 錬金術が好きではない彼に話したら苦笑いされてしまうかもしれないけれど、自分の影が逃げ出していく錬金薬、研究してみたいかもしれない。でもその内容だと私の所属する錬金科よりは、魔法科の領分になるのかな。


 そんなことを考えているうちに一つ廊下の角を曲がれば、突き当たりに磨りガラスの小窓がついた木製の扉が見えてきた。すぐ上に取り付けられた「図書室」というプレートに目をやって、小窓から室内の照明が漏れているのを確認すると、私は一度足を止めて息を整える。

 本来今日この時間は図書室は開放されていないのだけれど、学園内で表彰されるような大きな功績をあげた生徒に関しては、予約しておけば貸切に近い形で利用できるという規則があった。勿論私にそんな大層な経歴はないので、この時間先に誰かが使っているとすれば、それは先日国が主催する剣技を競う大会で見事優勝を収めた彼しかいない。


 私は慌てた手つきで鞄の中に腕を突っ込むと、探り当てたポーチの中から手鏡を引っ張り出した。折り畳まれたそれを開いて覗き込めば、何の変哲もないペリドットの瞳がこちらを見返している。

 少し不安と緊張が滲むそれに、強がるように口角を上げて見せてから、申し訳程度に前髪を整えて、魔石の髪飾りの傾きを指先で直した。今更取り繕ったって私の器量なんて知れているけれど、やっぱり好きな人の目には、少しでも可愛く映っていたい。

 疲れたようにゆっくりと周囲を旋回する本にまで、特に意思が宿っているわけではないと知りながら変じゃないよね、と確認を取ってから、私は深く息を吐いて図書室の扉に手をかけた。


 がら、と音を立てて扉を開けば、古い紙が醸す独特の空気が肺を満たす。

 さすが名門だけあって、図書室はそうそうお目にかかれないほどの大きさだ。端で大声を出したとしても、きっともう一端にいれば聞こえないほどに。それでも雑然とした印象はなく、重ねてきただけの歴史を感じさせるどことなく古めかしいこの場所が、私はとても好きだった。


 私の後ろについて浮遊していた分厚い本が、返却処理のためにふわふわとカウンターに向かっていくのを見送りつつ、私は胸を高鳴らせながら視線を巡らせた。天井も床も、どこを見回しても本が敷き詰められている。

 最初に見た時はうっかり床に敷き詰められた本を踏んでしまったらどうしようとか、天井に敷き詰められた本が落ちてくるんじゃないかとかはらはらしたものだけれど、魔法で保護されていると知った今ではすっかり慣れてしまった。

 本棚の海を泳ぐように足を進めつつ、私はきょろきょろと視線を巡らせる。


 近づくと自分を読めというように淡い光を放つ背表紙達にはとても心惹かれるけれど、その楽しみは後に回すとして。

 自分の棚へと戻る道中なのか、ふよふよと回遊魚みたいに目の前を横切っていった本達の隙間から身を乗り出すようにして、私は見慣れた赤茶色だけを探して目を凝らした。

 すぐ合流できるように、この入り口近くの棚の側で待ち合わせをしようと約束していたはずだけれど。他に誰もいないと知りながら、それでも普段の癖がなかなか抜けず、私はそっと囁くように口を開いた。


「……先輩。レクス先輩……いますか? シェルタです」


 けれど声が宙に溶けたあと、返ってきたのは耳が痛くなるほどの静寂で。

 もう一度、もう少し大きな声で呼びかけてみても結果は変わらず、私はじわりと不安が湧き上がってくるのを感じた。鍵が開いていたのだし、レクス先輩がここに先に来ているのは間違いないはずだけれど。

 今まで彼が何も言わずに待ち合わせ場所から移動してしまったことなんてなかったし、何か急な用事でもできたのだろうか。


 でも私が移動してすれ違ってしまったら、と悩んでいると──……次の瞬間、気配もなく背後から影が覆い被さってきて、私は目を見開くと咄嗟に振り返った。

 しかしそれが何かを確認する前に、鼻先が柔らかい何かにぶつかり、視界は暗闇に覆い隠されてしまって。


「む、むぐっ」


「ぎゅー、と。……はは、驚いた? シェルちゃん」


 目を白黒させる私がぷは、と顔を上げれば、ひどく得意げな輝かしい笑みが眼前に広がっていた。

 さら、と柔らかな赤茶色の短髪が揺れて、美しいターコイズブルーの瞳が甘く緩められる。その耳に輝く白い花弁を模った魔石のピアスの装飾がぶつかりあって、軽やかな音を立てた。


 何が何やら分からず硬直していたけれど、甘い香りと温もりが現実味を連れてきて、どうやらレクス先輩に抱きしめられているのだと気がついた私は一瞬で体温が上がっていくのを感じた。

 碌に力の入らない腕を突っ張って、抜け出そうともがいてみるけれど、力を入れられている感じはないのにびくともしない。


「れ、レクス先輩!? あの、は、はな、はなし」


「えー、せっかく可愛い彼女が腕の中にいるのに? どうしよっかな」


 それにしても抱き心地いいね、と頭に頬を擦り寄せられて。甘い香りが強くなって、そのまま心臓が爆発して死んでしまうんじゃないかと思った。

 先輩は背が高いので、今ちょうど彼の胸あたりに私の頭が来ている。なので抱き枕的な収まりはいいかもしれないけれど、私はちっとも落ち着けない。

 どうにか抜け出そうと必死になってもぞもぞと身動ぎをしていれば、彼は肩を揺らして笑った。


「はは、シェルちゃんそれで抵抗してるつもり? くすぐったいんだけど」


「せ、せんぱいっ」


 レクス先輩と私は恋人同士なわけで、こうしているのは勿論嫌じゃない、嫌じゃないけど。

 それにしたって急すぎて、心の準備が何にもできていない。このままでは心臓が破裂して死んでしまう、とにかく一旦離してほしい。

 半泣きで咎めれば、私の真っ赤な顔を見下ろす彼は悪戯げに目を細めた。


「んー……じゃあいつもの言ってよ、そしたら離してあげる」


「っ」


 その言葉に、つきりとした胸の痛みを覚えた私は思わず唇を引き結んだ。視線を落として彷徨わせて、けれどちっとも弛んではくれない先輩の腕と、応えを待つかのような沈黙に、やがて目を伏せたまま小さく息を吐く。

 恋人なんだから何もおかしなことはないし、いい加減慣れているはずなのに、それでも性懲りもなく顔に熱が集まっていくのは止めようがなかった。


「レ、レクス先輩……ぁ、あい、してる」


 ほんの少し羞恥に掠れ、震えたその五文字は、それでも最初の頃に比べたら随分すんなり口にできるようになった。

 それはこんなやりとりが、レクス先輩と付き合い初めてからもう数えきれないほどに繰り返されているからだ。彼はことあるごとに、私からのこの言葉を欲しがったから。


 最初に強請られたとき、あまりの緊張と羞恥に敬語が吹っ飛んでしまって青ざめたのに、彼はそれがお気に召してしまったらしく、そのままでいいと言われて以来、ずっとこの五文字を差し出し続けている。

 そろりと顔を上げれば、ターコイズブルーの瞳を甘く緩めて、目尻をほんの少しだけ染めてこちらを見下ろす彼と、至近距離で視線がぶつかって思わず息を呑んだ。


「ふ、耳まで真っ赤。すげぇ可愛い、……俺のシェルタ」


 甘い声でそう囁くと、レクス先輩は最後に一度だけ腕に力を込めてから、そっと私を解放した。それからぱっとおどけるように両手を広げて、人懐こくて明るいいつもの笑みを浮かべてみせる。

 私は彼の囁きが心臓に悪くて、さっきの声が頭に反響して離れてくれないのに、彼はほんのひと呼吸置けば、自分の本心なんて全て仕舞いこめてしまう。それが酷くずるいことのように思えて、私はまだ赤みの引かない顔で負け惜しみを口にした。


「……し、心臓に悪いいたずら、しないでくださいっ」


「あはは、ごめんね。俺を不安そうに探すシェルちゃんがあんまり可愛かったから、ちょっと意地悪しちゃった。今日はシェルちゃんが借りる本探してから、裏庭で俺の鍛錬に付き合ってくれるんだったよね? とりあえず探すの手伝うから、機嫌なおして」


 手を合わせて眉を下げるレクス先輩は、私がこの表情にとても弱いことを知っているに違いない。もう一言二言くらいは文句を言っても許されると思うのに、結局そう言われてしまえば私は頷いて返すことしかできないのだ。

 釈然としない気持ちも、ぱっと安心したように笑った彼を見てしまえばどこかへと消えていってしまう。


 じゃあ行こう、と歩き始めた彼の背中を見つめながら、こういうのを惚れた弱みって言うんだろうなと嘆息した。……普通の恋人同士だったら、それはお互いさま、で話は済むんだろうけど。そう考えたときに密かに痛んだ胸に、私は目を伏せた。


 レクス先輩は、とても優しいし、私のことをちゃんと恋人として扱ってくれる。今日みたいなスキンシップだってしょっちゅうだし、可愛いなんてリップサービスも囁いてくれる。心臓に悪いこともたまに仕掛けてくるけれど、本気で嫌がる一線は決して超えてこない。


 本当に私にはもったいないくらいの素敵な人で、私にとって、想いを伝えるという以上に大きな思い入れのあるその五文字を何度伝えても構わないと思うくらいには、私は彼のことが大好きだった。……でも。

 それで満足していればいいのに、どうしても心に引っ掛かることがあって、臆病な私はそれをずっと、彼に聞くことができないでいる。


 視線の先に翻るローブを見つめながら、私はぼんやりと今日までのことを思い返していた。……レクス先輩は、付き合い始めてからことあるごとに、私に愛してると言わせたがるけれど──……彼の方からそう言ってくれたことは、実は全くない。


 愛してるどころか、好きの一言すら……恋人になってから、ただの一度だって。

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