*9 やさしすぎる生贄

 文字の手習いを受けつつ、仮名の読み方も習い始めた忌一は、数日もすれば仮名であれば簡単な文章を読み書きできるようになっていた。


『習得が速いな、忌一は。学を得る機会がなかっただけで、生来優秀なのかもしれぬな』


 幼児用とされている挿絵付きの書物を与えられ、音読をするようになってきた忌一を見ていた傾向にそう言われ、忌一はきょとんと眼を丸くする。全く思ってもいなかった言葉であったため、誉め言葉であるとも気づかなかったようだ。

 何か自分が至らなかったのだろうか? と、うろたえ気味に、食事の片づけをしていた馬食の方を見ると、馬食はにこにこと答える。


「忌一様がとても賢い方だな、ということですよ」

「賢い? 俺が? どうして?」

『教え始めてから七日ほどしか経っていないのに、仮名文字をもうほとんど書けるようになっているし、読みもできる。それは元々が賢い証しだ』

「でも、俺、自分の名前もわからないから、みんなから馬鹿だ馬鹿だって言われてたし、それに、ヘンなものばかり見てるから、誰も近寄ってこなかったし……」


 人ならぬものばかりを見てしまうから周りから気味わるがられ、教育を受ける機会を逸し、それにより自分の名前の読書きすらままならず、一層周囲から蔑まれてしまう。その負の連鎖から忌一はいま抜け出そうとしているのだろう。


『しかしもうそんなことを言う者はここにはいないだろう、忌一』

「はい……でも、俺は、もともとは、村に米とか麦を恵んでもらうようにって言われて嫁に来たのに……読書きとか習ってていいのかな、って……」


 変わりゆく周囲と自身に戸惑いがないと言えば嘘になる。何せ忌一は、人喰いとされてきた傾向に喰われるために差し出され、その代わりに村の日照りを治めるようにと命じられていたのだから。


「いま、村はどうなっているんですか? 日照りは治まっていますか? 父さんも母さんも皆元気で……」

『……どうしてお前を見捨てたようなやつを案じてやらねばならぬのだ。お前は、儂の嫁なんだろう?』


 それまで晩酌を楽しんでいた盃を置き、慶光は忌々しそうに低い声で唸るように呟く。それはまるで敵を威嚇する狼のようにも見え、忌一はすぐさまハッと我に返り身を縮こまらせる。

 読み書きを教えられ、神通力を分け与えてもらい、腹いっぱいになるほどに食事も暖かな寝床も与えられる日々。それを享受できるしあわせに感謝しつつも、忌一には常に村への想いが消えない。自分がこうしている間にも、村のみんなが飢えていたらどうしよう、と思うと胸が潰れそうになる。たとえ、自分が生贄にされたのだとしても、託された願いは叶えるべきではないのかと考えているからだ。

 しかしそれを、慶光は快く思っていないのか、忌一の言葉にたちまち表情を曇らせていく。

 慶光を不機嫌にしてしまった――それは、忌一が何より怖れている事であり、彼の命に関わりかねない。


(どうしよう……慶光様を怒らせてしまった……折角、やさしく良くしてもらっているのに、それがイヤだ、みたいなこと言ってしまった……でも、俺は、村のためにここに来たんだし……)


 やさしく良くされることが厭なのでは決してない。ただ、あまりに身に余り過ぎるほどの幸福をどうしたらいいのかが忌一にはわからない。自分の幸福と引き換えに、村に何か起こっていたらと考えてしまう。自分に冷たくはあったけれど、あの家は確かに自分が生まれ育った場所だからだ。

 膝に置いた拳を握りしめてうつむく忌一がぐるぐるとそう考えていると、不意に慶光の手が伸び、あごに宛がわれて上向かされる。慶光の鋭い眼光をたたえる深い色の瞳に、来たばかりよりも若干肉付きが良くなった痩せっぽちの忌一の姿が映し出される。その姿は小さな子ネズミのように頼りない。


『あの村がどうなっていようと、お前はもう儂のものだ。それは揺るがない』

「で、でも……村のみんなのために、俺は……」

『そのためになら喰われてしまえと、お前を儂に差し出すようなやつらの願いなど、儂は聞かぬ』

「そんな……! それでは村が……!」

『だからなんだ。人喰いではないのだから、願いは聞かぬ』

「じゃ、じゃあ、俺を食べてくださ……」


 思わず空になった膳に手をついて腰を浮かせかけた忌一に、盃の酒を舐めていた慶光が視線だけを向けてくる。ねめつけるような様子に、忌一は怯みそうになり腰が引ける。


『何と言われようと、儂はお前を喰わない。お前の村の願いなんぞ知らぬ』


 慶光の言葉に、忌一は言葉を失った。意を決して食べてくれと言った忌一を、あの日慶光は抱きしめて喰わないと言ってくれた。そして人は喰ったことがない、とも。しかしそれが、村の願いを反故する理由にされてしまっていいのだろうか。

 自分のせいで村が――忌一は目の前が絶望で暗くなっていく。それでは、自分は何のためにここに来たというのだろうか、と。

 問うような眼差しを忌一が向けても、慶光は答えることなく立ち上がり、座敷を出ていってしまった。ほんのつい先ほどまで自分をほめてくれるほどやさしい眼差しを向けていてくれたのに……もう、その眼差しはなく、背を向けられてしまった。

 神である慶光の機嫌を損なうな。機嫌を取って村へ食料を恵んでもらえ。それは忌一に託された村の願いだ。たとえ、それは忌一の命を引き換えにされた生贄を対価にしているとわかっていても、叶えなくては村で多くの命が失われるかもしれない。そう、忌一は言いたかったのだが、慶光は理解してくれなかった。

 慶光の機嫌を損ねてしまった自分が、嫁として不要になり、村へ帰れと言われるかもしれない。だけど、自分を生贄として差し出して慶光からの温情を期待するような村に、いまさら忌一の居場所があるとも思えない。

 絶望感で腹が冷たくなり、俯いたまま忌一ははらはらと涙をこぼす。どうすることが最善なのか、もはやわからなくなっていた。


「ッふ……うぅ……」

「……忌一様」

「俺、慶光様に嫌われた……もう、お嫁さんじゃなくなっちゃうのかな……」

「そんなことありませんよ、忌一様」


 片付けをしていた馬食が、気の毒そうな目で忌一を見やり慰めてくるが、やさしくされる程悲しみの傷みは深くなっていくばかりだ。

 傷みと悲しみにあふれてくる涙を、馬食がたもとに入れていた手拭いで拭ってくれる。されるがまま顔を拭われていた忌一は、やさしい感触にいっそ涙があふれそうだった。


「お茶、淹れましょうか」


 少し涙が治まって来た頃、馬食が気を利かせて温かなお茶を入れてくれた。やわらかで温かな味に、悲しみで萎れていた心が和らいでいく。


「ありがと、馬食さん……」

「落ち着かれましたか?」

「うん……でもどうしよう……慶光様、怒ってらっしゃるんだよね、俺のこと……」

「んー……全くない、とは言い切れないので、何とも……」


 長くそばに仕えている馬食がそう言うのだから、怒っていないわけはないのだろう。そうなるといよいよ忌一にどうしたらいいのかがわからない。

 再びあの慶光の怒気を含む表情などを思い出し、忌一が目許を潤ませていると、馬食が「大丈夫ですよ、忌一様」と、声をかけてくれる。


「主様はきっと、忌一様がお優しすぎるのが心配で、怒っているように見えるのですよ」

「俺が、やさしすぎる?」

「だって、忌一様は親御さんから喰われてこい! なんて言われたんですよね? そんなことを言ってくるような人たちを、忌一様がまだ庇うようなことを言ったりするからじゃないかなぁ」

「だって、俺は、村の役に立てって……だから、慶光様に……」

「主様に食べられていい、って決めたのは忌一様じゃないのでしょう? 勝手に忌一様の命を粗末に扱うことを決めてしまうような人たちを、未だに大切に思うのが、慶光様はお嫌なんですよ」

「……どうして? 俺が、嫁だから?」

「そうです。大切なお嫁様です」


 確かに慶光はそう言っていたし、そう言いながら怒っているようにも見えた。だから忌一は慶光を怒らせたのだと思ったし、嫌われたのだと感じた。

 しかし、馬食は困ったように苦笑してはいるものの、大丈夫だという。

 馬食の言葉の意が汲めない忌一が首を傾げていると、馬食はお茶うけにと青いリンゴを剥いてこう言った。


「主様は、忌一様がやさしすぎて、その内ふらりと村に返ってしまったり、村のためにご自分を粗末にしてしまったりすることがないか心配なんですよ」

「でも、俺は村のために役に立てって言われて……」

「ええ、そうですよね……でも、だからって忌一様が――たとえ嘘であったとしても――人喰い様のところへ差し出して平気な人たちのことを大事に思う必要はないって、主様は思っているんだと思います」


 蔵に閉じ込めていた忌み子の自分に頼らなければならないほど、村は困っている――そう思って生贄になり、嫁としてここに来た。恐ろしい気持ちはあったけれど、人喰いであるはずの慶光はやさしく、従者の馬食でさえこうして忌一をいたわってくれる。その温情には感謝しているつもりだ。

 だけど、自分ばかりがこんないい想いをしていていいのだろうか? その間にも村は飢えて苦しんでいるのではないだろうか? ただそれだけの心配を、慶光は不要な慈悲だというのだろうか。

 明確な答えが得られず、余計に困惑する様子の忌一に、馬食は困ったようにくすりと笑い、「まあ、あくまで、おいらの見立てですけどね」というに留めた。


「とにかく、忌一様はあまりお気になさらずに。忌一様がお優しいことは素敵な事なんですから」

「慶光様、怒ってるかもしれないのに?」

「明日にはご機嫌が直っていると思いますよ。そうだ、明日のお八つ、一緒にお団子作りませんか? 主様の好きなあんこの団子を作りましょうよ」


 きっと喜んでくれますよ、という馬食の言葉に忌一は誘われるようにうなずき、ほんの少しだけ気持ちがホッと緩むのを感じた。


「よかった、忌一様やっと笑って下さった」


 頬をわずかに緩ませた忌一の様子に馬食がほっと息を吐く。その言葉に忌一は申し訳なさを覚えたが、馬食は嬉しそうに膳を抱えあげ、歩き出す。


「さ、お風呂の仕度をしてきてください。今宵は良いにおいのする花を入れておきましょう」


 馬食の言葉に忌一は大きくうなずき、自室までの長い廊下を歩き始めた。



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