きっかけ

 順位戦というのは、棋戦の一つで、『名人戦』というタイトル戦の予選だ。

 プロ棋士は、A級・B級1組・B級2組・C級1組・C級2組の5つのクラスに分かれて、一年間を通して対局を重ねる。

 そして、A級のリーグ戦で優勝した人は、四月から始まる『名人戦』で、タイトルをかけて前年度の名人と戦うことができる。

 その権利を争う資格があるのは、たったの一〇人。プロ棋士の中でもほんの一握りの、精鋭ともいえる強豪たちの一人が、私のお父さんなのだ。

 今日の対局は、全部で九局あるうちの七局目。お父さんの成績は、今のところ五勝一敗でトップ。今日の対局に勝てば、名人への挑戦権までグッと近づくことができる。


「どう? つながった?」

「ちょっと待ってな……あ、出た! 映ったで」


 二人でのぞきこんだパソコンの画面の中では、二人の棋士が、盤面を見つめながら本気の読み合い勝負をしているところだった。

 お父さんの相手は、堅田かたた尚希なおき八段。今期の順位戦では、今のところ、お父さんに次いで二位の位置にいる。

 戦型は、解説を聞く限りでは、『居飛車穴熊』を選んだ堅田八段に対して、お父さんが得意の『四間飛車』をぶつけたであろう形になっていた。

 『穴熊』は、将棋における守備の方法の一つだ。手数はかかるけれど、強固に玉を守ることができる。堅田八段は、それに居飛車戦法を組み合わせることで、これ以上ないほど固い守りを築いていた。

 対局は中盤に差しかかっている。配信サイトが使っている、対局者の形勢を示すAIの数値は、ほとんど五分五分といったところだ。


「堅田八段、さすがに守りがしっかりしてるね」

「居飛車穴熊は堅田先生の得意戦法やからなあ。いくらお父さんでも、そう簡単には攻められへんやろうね」


 ウィリアムズ君の言葉にそう返しながらも、私はじっと画面を見ていた。

 両者が読みを入れている中で、とりわけ、深く盤面を読もうとしているのが、お父さんだった。手元にある扇子を閉じたり開いたりしながら、前かがみになった体を前後に揺らして、一心不乱に先の手を読んでいる。その表情は、すごく苦しそうに見える。


「(お父さん……)」


 相手の守りは固く、攻めこみにくい。

 けれど、攻めこむタイミングを逃せば、一気に相手からカウンターを食らってしまう。

 難しい局面だ。私の力じゃ、とうてい、どういうふうに進めていけばいいのか読み切れそうにない。


「hmm……」


 ウィリアムズ君も、この局面を読もうとしているのかもしれない。小さくつぶやいて、パソコンにいっそう顔を近付けていく。

 時折アップで映る盤面を真剣に見つめる目が、獲物をねらうタカのようにするどく光っていた。

 彼はきっと、お父さんでも読むのに苦戦しているこの局面を、本気で読み切ろうとしている。

 その姿が、自然と、画面の中で盤と向き合うお父さんの姿に重なって見えた。


「……ウィリアムズ君は、さ」


 ふと、パソコンの画面を見つめているウィリアムズ君に声をかける。

 邪魔しちゃ悪いかな、と思ったけれど、彼は静かに画面から視線を外すと、「何だい?」とほほえんでくれた。

 それにホッとしつつ、私は、気になっていたことをたずねてみた。


「ウィリアムズ君は、何で将棋を始めたん?」

「始めた理由が気になるの?」

「うん。やっぱり、お父さんに憧れて……とかなん?」


 私の言葉に、ウィリアムズ君は少しの間、何かを考えるようにして黙りこむ。

 やがて、


「うーん。竜王への憧れは、きっかけの半分って感じかな」


 ウィリアムズ君はそう言うと、彼が将棋と出会ったきっかけを話してくれた。


「将棋を初めて知ったのはね、grandma……おばあちゃんがお土産にくれた、日本のマンガからだったんだ。ニンジャが出てくるマンガだったんだけど、そのキャラクターが、将棋をしていてね。そこから興味を持って、本で将棋の勉強を始めたんだ」

「じゃあ、日本に来るまでずっと、対局はしたことなかったん?」

「ううん。去年ぐらいから、ネットで対局するようになったよ。実際に向かい合って指したのは、サファイアが初めてだったけどね」


 そうか。

 だからさっき、私のことを、向かい合って将棋を指した初めての人だって言ったんだ。


「じゃあ、ネットでもいいから指してみたいって思ったのは何で? お父さんへの憧れがきっかけの半分って、どういうこと?」


 私がたずねると、ウィリアムズくんは、それまでとは違う、おだやかな笑みを浮かべた。何かをなつかしむような、そんな目をしている。


「……おととしね、Dudに教えてもらって、日本のタイトル戦の対局動画を見たんだ。プロの将棋界ではほとんど男の棋士しかいないっていう話だったのに、その対局では、女流棋士が男のプロ棋士と戦っていた。しかも、この時対局していた二人は、夫婦だった」


 ウィリアムズ君の言葉に、ドクンと心臓が大きくはねる。

 女流棋士が男性のプロ棋士と公式戦で戦う機会は、ごくわずかしかない。

 その中でも、夫婦が向かい合って争うことになるとなれば、かなり奇跡的で限定的な事態になってくる。

 だとしたら、彼が見た対局っていうのは――

 私の中で生まれた、予感じみたものを肯定するように、ウィリアムズ君は静かに笑っている。


「竜王戦予選の、白銀飛鳥と白銀すみれの対局。あの対局が、おれに、将棋を指したいっていう情熱をくれたんだ」


 白銀菫――

 その名前を聞いた瞬間、思わず泣きそうになってしまった。

 今になって、まさか海外出身の彼の口から、お母さんの名前を聞くことになるなんて、思ってもみなかったから。


 嬉しい気持ちと、さびしい気持ちがいっぺんに心の中をうめつくして、ぐちゃぐちゃになってしまう。

 無意識に、右側の髪を一房結んだリボンへと手が伸びる。

 お母さんからもらった、すみれ色のリボン。


『蒼輝。泣かないで……』


 お別れの間際、頭をなでてくれた時と同じ声が、頭の中でよみがえった。

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