第二局

初めての対局

 クラブの時間は、思っていたよりもずっとかけ足でやってきた。

 将棋クラブの活動場所になっているのは、児童会室。

 クラブが始まる前に、駒ヶ坂先生がウィリアムズ君のことを紹介すると、みんながワッと歓声を上げた。

 すぐにでも彼への質問責めが始まりそうになったけれど、先生は、その空気を察知して、素早く話題を切り替える。


「それで、今日はクラブを始める前に、もう一つお知らせがあります」


 なになに? と、みんなが先生の次の言葉を気にしている。

 ……今から話題に上がるはずの、当の私はというと、もうすでにプレッシャーで押しつぶされそうになっているんだけどね。

 そんな私の気持ちなんてつゆ知らず、先生はみんなの期待をあおるようにして声を弾ませた。


「なんと! 今から、アルフレッド君と蒼輝ちゃんが、将棋を指します!」


 その言葉に、みんなは目を丸くして、私とウィリアムズ君を交互に見やってくる。


「ほんまに? ウィリアムズくん、蒼輝ちゃんと指すん?」

「そうだよ!」

「わー! がんばってな!」

「蒼輝ちゃん、ちょっと手加減せなあかんのとちがうん?」

「まさか。そんなんする余裕があるほど強ないよ」


 実際のところ、ウィリアムズ君がどの程度将棋を勉強していて、どのくらいの実力があるのかはまだ分からない。

 それでも、手加減をするつもりはなかった。


「さ、準備をしましょうね。練習をしたい人はしてもいいし、アルフレッド君と蒼輝ちゃんの対局を見学したい人はそれでもいいですよ」


 先生の指示にうなずいて、みんなは将棋盤と駒の準備を始めた。

 私は、別で用意した机に盤を置いて、ウィリアムズ君に声をかける。


「えっと、ウィリアムズ君。駒、並べよか」 

「あれだよね、二人で交互に並べていくやつだろ?」

「まあ、プロの対局とかやないし、好きに並べていってええと思うけど。どうする?」

「交互がいい!」

「ふふ、分かった」


 食い気味に言ったウィリアムズ君に、思わず小さく笑ってしまう。

 二人で向かい合って座って、駒袋から盤の上へ駒を出した。

 まずは互いに、玉を一段目――下段の真ん中へ置くことになる。

 私が先に並べるか、ウィリアムズ君にゆずるか。王と玉、どちらを使うか。

 私がほんの少しなやんでいると、ウィリアムズ君は、ひょいと首をかしげた。


「君から並べてくれよ。ほら、王将ならそこだよ?」


 その一言に、私はちょっとだけおどろいていた。


「(ウィリアムズ君が玉なんや……)」


 将棋で、王と玉はどちらも同じ扱いを受ける駒だ。

 でも、王は強い人や目上の人が使うっていう、暗黙のルールというか、マナーのようなものがある。駒を並べるのも、上座(強い人が座るほうの席だよ)からと決まっている。

 つまり、この場合で言うと、ウィリアムズ君は、私を目上の人ととらえているということになるんだ。

 将棋に対する姿勢はすごく前のめりな感じだけど、こういうところでは謙虚なんだ。

 ウィリアムズ君って、面白いなあ。


「うん。分かった」


 特に異論があるわけでもなし、私は王将を取って、下段に置く。

 パチン、という澄んだ音が耳に心地よくて、緊張で強張っている心がすうっと落ち着いていくのを感じた。

 駒をすっかり並べ終われば、いよいよ先手と後手を決めることになる。


「ウィリアムズ君、よかったら先手でどう?」

「ううん、振り駒っていうので決めてみたい!」


 先手を譲ろうとする私の言葉に首を振って、彼は言った。

 『振り駒』っていうのは、『歩』を五枚振って、先攻と後攻を決める方法のことだ。『歩』の駒には、表に『歩』、裏に『と』が書いてあって、どっちが多く出たかで先攻後攻が決まるというわけ。


「分かった。ほんなら、私が振るね」


 私は、自分の歩を五枚取って、盤の隣にしいたハンカチの上に散らした。

 『歩』が二枚、『と』が三枚出た。

 と金が多い時は、下座の対局者が先手になる。

 今、下座にいる扱いになっているのは、ウィリアムズ君だから――


「おれが先手、でいいのかな?」


 私がだまってうなずくと、彼は少しほっとした様子でため息をついた。

 そろって姿勢を正したところで、先生が「それでは、」と改まった声で言う。


「アルフレッド・ウィリアムズ君の先手で、対局を始めてください」


 その言葉に続いて、私たちは、そろって深々とお辞儀をした。


『よろしくお願いします!』


 対局前のあいさつを済ませたところで、私は、チェスクロックのスイッチを押した。

 ピッ、と軽快な電子音がして、カウントダウンが始まる。

 さて、先手番の一手目。

 ウィリアムズ君は、どんな手でくるのかな……


「――んっ!」


 気合いのこもった声とともに、駒が進められる。


「先手、5六歩」


 駒ヶ坂先生が、よく通る声で手筋を読み上げた。

 真ん中、5筋の歩が一歩出たのを確認してから、少し考えて、私も、一手目を指す。


「後手、3四歩」


 このあと、角を動かすための道を作る、いわゆる『角道を開ける』一手だった。

 対局が始まってうきうきしているのか、ウィリアムズ君は、眼鏡の奥の目を細めて、口元をほころばせた。

 そして――


「……いくよっ!」


 ニッ、と不敵に笑みを深めた彼は、さっき歩を進めたのと同じ筋へ向かって、思いきり飛車を振った。迷いなく飛車を動かすその手つきや表情には、自信があふれている。


「(……なるほど)」


 今の一手から、ウィリアムズ君の戦い方が一つ、分かった。

 彼は今回、『振り飛車』で戦うんだ。

 『振り飛車』っていうのは、今のウィリアムズ君みたいに、飛車を動かしてどんどん攻めていく戦い方をいう。逆に、最初の形から飛車を動かさずに手を進めていくやり方は『居飛車』って呼ばれているんだよ。

 さて、私はどうしようかな。

 ウィリアムズ君が選んだのは、振り飛車の中でも、ど真ん中に飛車を振るタイプの戦型――この場合だと、『先手中飛車』になる。

 私は後手だし、あえて先手と同じ戦型を選ぶのは、少し――ううん、かなり不利だ。

 なぜなら、先手側は、常に後手よりも先に指す――後手よりも一手多く指すことができる。同じ形を選んで、同じ手順で対局を進めていけば、先に玉を攻めることのできる先手のほうが有利になるんだ。

 だから、少なくとも真ん中に飛車を振るのは避けたほうがいい。普通なら。


「(……やめる?)」


 心の中で、確かめるようにして自分に問いかける。

 ここから違う形を作って、攻めるなり玉を守るなりとすることはできる。むしろ、そうしたほうがいいっていうのも分かっている。

 ……だけど!


「……っ!」


 心を決めて、駒を動かす。私の手を見たウィリアムズ君も、すぐさま迷いのない手つきで駒を動かす。

 そうして数手ずつ進めた時、盤面に現れた戦型は――


『相中飛車!?』


 私たちの対局を見守っているみんなの、驚いたような声が、どこか遠くに聞こえた。

 『相中飛車』っていうのは、先手も後手も振り飛車戦法――中飛車を選んだ時に発生する戦型のこと。ウィリアムズ君の先手中飛車に対して、私は『ゴキゲン中飛車』と呼ばれる戦法で応じたのだ。

 ウィリアムズ君の戦法は、中飛車の中でも『原始中飛車』と呼ばれるもの。5筋の歩をどんどん玉に向かって進めていく、単純だけど攻撃力の高い戦法だ。

 対する私が選んだ『ゴキゲン中飛車』は、これも中飛車の中では攻撃力の高い、攻めの戦法だ。従来の中飛車は、相手の攻撃を待ってこっちからやり返す、いわゆるカウンターの要素が強いけれど、ゴキ中は、自分から攻撃することに重きを置いているんだ。

 原始中飛車とゴキゲン中飛車――攻めの中飛車と攻めの中飛車。

 この二つの戦法がぶつかり合ったということは、ここから先の戦いはお互いの攻めのぶつかり合いになるっていうことだ。真っ向勝負の総力戦!


「君も飛車を振るんだね」


 ウィリアムズ君の言葉に、小さくうなずく。


「うちは、振り飛車が好きやから」


 この先の展開を読むのに忙しくて、ウィリアムズ君の顔を見ている余裕はない。

 だから、目の前でふっと息を吐いた彼が、どんな表情をしているのかは、分からなかった。


「上等だ!」


 楽しそうに弾む声と共に、彼の歩がまた一歩前進した。

 薪がはぜるような、パチパチという駒音が、闘志をかき立てる。

 私たちは互いに無言のまま、ただひたすらに指した。

 ウィリアムズ君の指し回しは見事なもので、私が道場で相手をしてもらうような、数年単位で経験を積んできた人たちにも負けていなかった。

 多分、この戦型も、彼なりにしっかり研究していたに違いない。

 ――強い!

 思わず歯を食いしばりながら、必死に先を読む。焦る気持ちはあったけれど、表情には出さないように意識した。

 私だって、ある程度相中飛車になった時の戦い方は勉強している。それに何より、人を相手に対局するのに慣れていた。

 定跡(ずっと昔から研究されてきた、決まった手順のことだよ)からは外れるような一手を指してみたり、時間を使わずにテンポよく指したり。

 そうすることで、とにかくウィリアムズ君に考える隙を与えず、思い通りの展開を作らせないようにした。

 指し続けているうちに、熱があるかのように顔がほてりだす。

 熱い……

 体中からわき上がる熱さを発散したくなって、最後のほうはカーディガンを脱ぎ捨てていた。

 気がつけば、互いに一五分ずつあった持ち時間はなくなっていて――


「負けました」


 投了の言葉を口にしたのは、ウィリアムズ君のほうだった。

 一手を三〇秒以内に指さなければならなくなったことを知らせる、チェスクロックのアラームが鳴った直後のことだった。

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