第43話 温もり



 夏乃なつのは王太后の侍女──珠里しゅりに手を引かれて厨房まで戻った。


 解放された今も、懐にある毒の茶葉がずっしりと重く、嫌な汗が止まらない。

 この事態を解決するにはどうすれば良いのか。月人つきひとの宮に戻るまでの間、夏乃は考え続けた。


(どうしたら、あのきな臭い見張りの男を出し抜けるだろう?)


 ここは王宮だ。例え黒ずくめの男の目を逃れたとしても、王太后側の人間は山ほどいる。王宮に来たときから、密かに月人を監視している者だっているかも知れない。その人たちの目を欺くのは至難の業だ。


(やっぱ……ムリだよね)


 できれば月人に知られずに対処したかったが、今の夏乃では役不足だ。ここは正直にすべてを報告して、みんなの知恵を借りるしかないだろう。

 考えがまとまると、案外すっきりとした気持ちになった。



「夏乃! おまえっ、どこに行ってたんだ? 探したぞ!」


 月人の宮の前をウロウロしていたハクに見つかり、夏乃はあっという間に二階に連れて行かれた。


「夏乃!」


 部屋に入るなり、月人が長椅子から立ち上がって夏乃を迎えた。よほど心配していたのか、表情が険しい。


「あの……申し訳、ありませんでした」


 夏乃はぺこりと頭を下げてから、部屋の中を見回した。

 今ここには、月人と冬馬トーマと珀しかいないが、どこかに誰かが潜んでいるかも知れない。


「こんな時に……いったい、そなたは何処へ行っていたのだ!」


 月人の声をぼんやりと聞きながら、夏乃はもう一度辺りを見回した。

 それから、一歩だけ月人に近づく。


「ええと……誰かに聞かれると非常にマズいので、小声で話します。王太后さまの部屋に連れて行かれて、月人さまに毒を盛るように脅されました」


「なんだと!」


 声を上げたのは冬馬だった。隣に立っていた珀に、瞬時に口を押さえられている。


「黒装束の怖い男がいて、やらなければ命はないと脅されました。失敗しても命はないそうで、たぶん成功しても殺されるんじゃないかと思います」


 自分でも驚くほど淡々と説明の言葉が口をつく。

 夏乃は懐にしまっておいた布袋を取り出すと、それを脇に立つ冬馬に手渡した。


「これを、お茶に混ぜるように言われました」


 嫌なものを冬馬に預けてホッと息をついた夏乃を、月人が抱きしめた。


「済まない。私のせいで、そなたに怖い思いをさせた!」


 甘い香りと共に、月人の体温を感じる。


(あったかい)


 寒さと恐怖で強張っていた体が、氷が解けるように緩んでくる。


(いけない、いけない)


 月人を押し退けないといけないのに、腕に力が入らない。

 過度の緊張と昨夜の寝不足が変な風に混じりあって、夏乃の意識はそこで途切れてしまった。


○○


「…………なつの……夏乃」


 耳元で囁く声で何度も名を呼ばれ、夏乃の意識が暗闇から這い上がってくる。


「そなたを死なせはしない。必ず守ってみせる。そなたを…………愛している」


 甘い愛の言葉のあと、唇を塞がれた。

 急に意識がはっきりした夏乃は、思いきり月人を突き飛ばした。


「なっ、何するんですかぁっ!」


 叫んでから我に返ると辺りは薄暗く、夏乃がいるのは月人の寝台の上だった。

 記憶が飛んでいて定かではないが、もう夜になったらしい。


「あれ? あたし、王太后さまに毒を渡されて、それを冬馬さまに渡して、ホッとして」

「気を失ったんだ」

「それはご迷惑を────」

「迷惑をかけたのは私の方だ! そなたには、いらぬ苦労をかけてしまった。体は大事ないか?」


 月人に顔を覗き込まれて、夏乃は俯いた。

 夜着姿の月人が目の前に座っている。誰が着替えさせてくれたのか、夏乃も夜着を着ている。この姿で、寝台の上で向かい合っていると妙に恥ずかしい。


 俯いたまま困り果てていると、月人に抱き寄せられた。

 サラサラの銀髪が夏乃の顔に落ちてくる。

 月人の腕の中は暖かくて、ずっとこのまま抱きしめていてもらいたくなるが、夏乃はふるふると頭を振って安易な考えを吹き飛ばした。

 月人の胸を両手で押し戻す。


「あの、月人さまも、王太后さまに呼び出されてましたよね? そちらのお話は何だったんですか?」


 あの部屋で、夏乃はそれほど待たされなかった。月人たちが大広間でどのくらい話したのかはわからないが、王太后が同席していた時間は僅かだったはずだ。


「ただの年始の挨拶だった。たぶん、最初から夏乃を狙っていたのだろう。そなたを一人にしたのは迂闊だった。もう二度と、そなたを危険な目にはあわせぬと誓う」


 月人は悔しそうにそう答えた。

 そしてもう一度夏乃を抱き寄せると、夏乃の肩に顔を埋めた。


「この件が片付いたら、私の……赤子ややを生んでくれぬか?」

「ひぇっ?」

「赤子がいれば、そなたは帰らないかも知れない。例え帰っても、戻ってくるかもしれない」

「むっ、むっ、無理です!」

「なぜだ? そなたも、私に触れられるのは嫌か? 私を醜いと思うか?」

「そんな訳ないです! あたしがこの世界の人間だったら、喜んで何人でも生んであげますよ!」

「夏乃!」


 月人がパッと喜色を浮かべた瞬間、夏乃はハッと口を押さえて赤面した。


「ご、誤解しないでください! 今のはあくまでも例え話ですから……てゆーか、そんな話よりも、今は王太后さまの件をどうにかしないといけないじゃないですか! あたし、あの鴉みたいな男に殺されちゃうかもしれないんですよ!」


 ゼェハァと息継ぎをして月人の腕の中から抜け出す。


「仮にですよ。あたしが自分の命を惜しんで、月人さまのお茶に毒を混ぜることを決めたとします。そう決めても……たぶん、すぐには実行できないと思います。

 見張りの男も、すぐにあたしを殺したりしないとは思いますが、それほど時間がある訳じゃありません」


「そうだな」


 薄明りの中でさえ、月人が表情を曇らせたのがわかった。きっと自分を責めているのだろう。そう思ったら居ても立っても居られなくなって────夏乃は頭をフル回転させた。


「あ……そうだ! いっそ、あたしが月人さま暗殺に失敗して、殺されたことにしてはどうでしょう?」


 人差し指をピンと立てて、夏乃は偽装工作を提案した。


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