7 協力者 後編


 真宵邸から出て電車に乗り、桂月達は自分達の住む桔梗区へと戻って来た。

 あたりはすっかりと夕焼けの色に染まっている。

 伸びた影を連れて通りを歩いていると、あちこちの建物から良い香りが漂って来る。食事の準備をしているのだろう。

 家族のために、お客さんのために、自分のために。理由はそれぞれだが、一日働いた身体を労うための料理のにおいだ。

 夕焼けの中、その香りに包まれた道をのんびりと歩く。桂月が好きな時間だ。


 ――いつもならば。


 今日の桂月は少々様子が違った。

 真宵邸での出来事が頭の中をぐるぐると回っていて、思考がぼんやりしているせいだろう。

 香りも、景色も、音も、桂月の身体を通り過ぎていく。


「きょ、今日も頑張って働いたの~!」

「……そうですね」


 自分を心配して声を掛けてくれているツキの気遣いにすら気付かず、桂月は曖昧な返事をしていた。


「何ならご褒美があっても良いと思うんじゃが。どうじゃろう!」

「……そうですね」

「わらわはアイスクリームが良いと思うぞ!」

「……そうですね」

「…………」


 ツキはそれでもしばらく奮闘していたが、途中で心が折れたらしい。

 桂月の隣を歩く黎明に、涙目で助けを求めた。


「れ、黎明ぃ……」

「はいはい。よく頑張りました。偉いですよ、ツキ」


 黎明はそんなツキを労ってから、少し早足で進んで桂月の前に出る。

 そこで足を止めて、くるりと向きを変えた。

 しかし、それすら桂月は気付かない。

 そのまま進んで、黎明の身体に顔をぶつけた。


「う、わっ?」


 その軽い衝撃に、桂月は僅かに仰け反る。

 それでようやくハッと気が付いて、鼻を抑えながら顔を上げた。


「大丈夫ですか、桂月サン」

「……ああ、ええ。すみません、何か話していました?」

「俺じゃなくてツキですね」

「ツキ?」


 おや、と思って肩を見ると、ツキが心配そうに桂月を見ている。

 よく喧嘩を売って来るわりには、桂月達を気遣う事もあるので、本当にこのアヤカシは憎めない。

 それは可哀想な事をした。そう思いながら桂月は、小さく笑ってツキの頭を指で撫でる。


「失礼、ぼうっとしていました」

「桂月、具合が悪いのか? それならば、ゆっくり休むといいぞ?」

「そうですねぇ。ちょっと疲れたのでそうしましょうか。……ああ、何か食べて帰ります? 甘いものとか欲しくなってきたかも」

「ならばアイス! アイスが良いぞ!」


 ぱたぱたとツキが羽ばたきながら主張する。

 このアヤカシは見た目通りに雑食だなぁ、なんてそれこそ少々失礼な事を思いながら「いいですよ」と桂月は頷く。


「あ、桂月サン」

「何ですか?」

「俺の質問にまだ答えてもらっていませんよ」

「え?」

「大丈夫ですか? 顔色が悪いです。熱がありますか? おでこ触っても良いですか?」


 そう言って黎明が右手を軽く挙げて、手のひらを桂月に向けた。

 彼の言葉に桂月は「うっ」と、一瞬返答に詰まる。


 実のところ桂月は、人の形をしたモノに触られる事があまり好きではなかった。

 ツキのように人以外の姿をしているアヤカシならば大丈夫なのだが、人の姿をしている者に触れられるととたんに吐き気を催してしまう。先ほど黎明にぶつかった時は吐き気を感じる前に離れたため何とかなったが。

 だから極力、直接的な接触がないように、夏でも肌を露出しない服装をしているし、手袋もずっと嵌めたままだ。

 

 そしてこれは、好意を持っている黎明相手であっても例外ではなかった。


 たまたま手が当たった程度で吐き気を催すものだから、これはまずいと思って黎明に頼んで、手を握るなりの練習をした事はあったのだ。

 けれども、それでもだめだった。

 好きな相手であっても、その感情でそれが軽減される事は無く、手を握った時点で桂月は気持ちが悪くなってしまった。


 ――気分事態は悪くないのに。


 桂月は黎明の事が好きだ。だからどんな理由であっても、手を握る事が出来たのは嬉しい。

 伝えられないと思っている好意なだけに、余計にそう思う。

 けれども桂月の身体は、人の姿をした者を受け付けない。

 せめて黎明に対してだけは、何とかしたいのだが……。

 そんな事を思いながら桂月は大きく息を吸うと、まるで戦いにでも挑むような面持ちで頷いた。


「……だ、だい、丈夫です。ええ、はい、どうぞ」

「大丈夫って顔じゃないですけれど。すみません、ほんの少しだけ目を瞑って、我慢していてください」


 黎明はそう言うと、桂月の額にそっと手を当てた。

 人の肌の柔らかさと熱が、自分の額にじわりと伝わる。

 あ、意外と、大丈夫かもしれない。

 ――なんて一瞬思った時、


『――お前は雪宮の人間だ。そのように生きるのが当然だ』


 頭の中に思い出したくない父親の声が響き、ぐ、と吐き気が喉に競り上がって来た。


『神降ろしが苦痛? 馬鹿な事を言うな。これこそが雪宮の秘術。喜ぶ事はあっても、拒むなど在り得ない』


 桂月は唇をかんで、それを何とか堪える。

 そうしている内にふっと黎明の手は離れて行った。それに合わせて吐き気と幻聴が収まって、桂月はホッと息を吐く。


「熱はなさそうですね。メンタル的なもんかな」

「……ああ、ええ。そうかもしれませんね」

「すみません、桂月サン。無理をさせました」

「いえ、大丈夫ですよ。そう言ったでしょう? ありがとうございます、黎明」


 多少強がって見せながら、桂月はそう返す。

 正直、このくらいの接触ならば、違う意味で意識したい気持ちはあるのだが。

 なかなかどうして、自分の身体がそれについていってくれない。

 ……情けない。

 そう思っていると、ぺちぺち、とツキが柔らかい翼で桂月の頬を軽く叩いた。


「桂月、桂月。アイスはまた今度で良いぞ。今日はゆっくり休むが良い」

「おやおや、どうしました? ツキが遠慮とは珍しいですね」

「ふふーん! わらわは空気の読めるアヤカシじゃからの!」


 ツキはそう言って胸を張った後、翼をパタパタと動かして空へ飛び上がる。


「住処まで送りますよ?」

「いや、大丈夫じゃ。ここからならそう遠くないからの。ではな、桂月、黎明。ゆっくり休めよ」


 そのまま彼女は、夕焼けの空に向かって飛んで行った。

 小さな後ろ姿を見送りながら、ふ、と桂月は微笑む。


「喧嘩を売るわりに、良い子なんですよねぇ」

「そうですねぇ。桂月さんは歩けますか? 何なら、タクシーでも呼びましょうか」

「いえ。……桔梗区の景色を見ながら歩いていた方が、気が紛れて良いです」

「分かりました。じゃあ、行きましょうか」

「ええ」


 桂月は頷くと、黎明と並んで歩き始める。

 事務所に到着するまで会話こそ少なかったものの、そうやってのんびり歩いている内に、桂月の中から先ほどまで感じていた陰鬱とした気持ちは消えていたのだった。

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